立夏〈りっか〉
お祖父さんの告別式が終わり、ゴールデンウイークが明けても、穂高は学校に来なかった。
メールも何度かしたが、一向に返事は来なかった。
最後に会ったのは通夜の日。
喪主の親父さんの横で、ずっと俯いて制服の両膝を両手のひらでグッと握ってた。
焼香を終えた後、母さんが挨拶して声をかけたけど、深くお辞儀するだけで、何も言葉は発しなかった。
穂高に会いたい。
会って話したい。
日に日にその想いは強くなっていった。
でも、こんな時だからこそ、無理に会うのも違うと分かっていた。
「よう! コータ!」
帰りの電車で声をかけてきたのは、中学で一緒だった佐藤だった。
違う高校に進学したから、しばらく会っていないし、そもそもノリの軽いコイツとは、あまり仲良くもなかった。
「1人? 穂高は?」
オレは首を振った。
まわりを気にしながら隣に座った佐藤は、声を小さくして聞いた。
「なぁ、最近穂高が連れてる女、エロくねぇ? そっちの学校の1年?」
オレは何を言われてるのか、理解出来ずに首を傾げた。
驚く佐藤。
「もしかして、知らねぇの? ヤベェ、アイツ学校行ってねぇの、もしかして?」
「お祖父さん亡くなってから来てねぇよ」
「ヤベェわ」
厭らしく佐藤が笑う。
「や、オカシイと思ったんだよ。変な時間にこっちの駅前を女と恋人繋ぎで歩いてたからよ」
「穂高が?」
佐藤は頷くと、更に声をひそめて
「あれはホテル行ってたな」
とオレの耳元で言った。
オレは混乱して言葉が出なかった。
オレの知っている穂高とあまりにも乖離していたから。
左手に結ばれた組紐を見上げて、子供のように笑っていた、オレの知る穂高はそんなことしない。
でも、オレは本当に穂高の全てを知ってるのか?
そんな事しないって、本当に言い切れるのか?
自分の何処かで、もう1人のオレが叫ぶ。
『あの子だ。あの子と付き合ったんだ』
あんなに積極的だったんだ。
お祖父さんを亡くして、傷ついたヤツの心を、ゴリゴリこじ開けたって不思議じゃない。
「ショック? あんなにツルンでたのにな。薄情だよなぁ、穂高。女が絡むとこれだからな、友情なんて儚いもんよ」
オレは答えない。
いや、答えられない。
「まぁ、でも良かったんじゃね?お前転校してきたのって、中2だよな?」
何で急にその話? と思いながらも、オレは頷いた。
「だから知らねぇと思うけど、アイツ一時期オンナ駄目なんじゃね? 説あったんだわ」
「オンナ駄目?」
佐藤がヘラヘラと笑いながら頷く。
「中2になる春休み、親父さんも爺さんも農協の会合で留守の夜にさ、居候してた親父さんのオンナが襲ってきたんだってよ。それで穂高、集会所まで裸足で逃げてきて…。そしたら親父さん何て言ったと思う?」
想像もつかない。
「『据え膳食わねえのは男の恥だ』ってな。あんまり酷いんで、ウチの父ちゃん、アイツの親父と大ゲンカになってよ、それから農協じゃアイツの親父は総スカンよ」
そんなことがあったんだ。
オレは全く知らなかった。
「アイツって案外モテたじゃん。でも、誰から告られても『ありがとう』で終わりだから、例の件で女性恐怖症なんじゃないかって噂されてたんだよ」
『ありがとう』
その言葉に聞き覚えがある。
あの時も確か……
そして、次に何か言ってきたら、ちゃんと対応しろと言ったのは、間違いなくこのオレだ。
「でもこれで無事に男になっちゃったかなぁ。いいなぁ、あんなエロ可愛い娘とオレも付き合いてぇわ」
嵐のようだった佐藤が駅で降りて行って、オレは1人電車に残された。
この駅は、穂高が降りる駅でもある。
電車を降りた穂高が、敬礼しながらオレを見送る。
いつも途中からエスカレーターのパントマイムになって、オレたちは笑いながら別れる。
そんな日々が、ずっと続くと疑わなかった。
でも、もしかすると、あんな日々はもう来ないのかもしれない。
頭の中で、あんなことやら、こんなことまで、想像しうる全てをやり尽くす穂高とあの子が、オレを嘲笑っていた。
オレ、なんで泣いてんだ。
こんなに泣いたことないってくらい、なんで泣いてんだ。
あらゆるドラマや小説の中で、言い尽くされてきた。
本当に大切なものは、失ってから気づく、と。
今、やっと気が付いたよ。
オレは……
数日後、やっと穂高は学校に現れた。
しかも、授業の合間に女連れで。
「荷物取りに来ただけなんで、気にしないで続けてください」
机の中から、何かを取り出して、ポケットにしまうと、ヤツは教室を出ていった。
「もう、やめる気なんじゃね?」
後ろの席の田中がオレに声をかける。
オレは授業中ということも構わずに、ヤツの後を追って廊下に出た。
佐藤が言ってたように、恋人繋ぎの2人が追ってきたオレに振り返る。
一瞬オレに視線を投げて、カノジョの肩に手を回すと、ヤツはカノジョに口づける。
それは高校生が昼間からするような可愛いキスじゃない。深い仲を見せつけるような、卑わいなキス。
オレは思わず眼を背ける。
「じゃあな」
また見たこともないようなムカツク顔した穂高が、オレに手を振った。
ヤツの休学届が出された事を、オレは翌日知った。
普通の日々が、こんなに呆気なく消え去るなんて、思ってもみなかった。
自分の気持ちを認識してしまってからは、どこまでも想いが膨らんで、手を離したら風船のように何処かに飛んで行ってしまいそうだ。
たとえ傍にいた頃、この感情に気が付いたとしても、それはそれで辛かったと思うんだ。
でも、もう会うことさえないかもしれない状況で悟るより、何千倍もマシだ。
電車、駅、学校。
通学路はヤツとの思い出で溢れかえっていて、針の
あの笑顔を、もう見られない。
なら、もう学校に行く意味さえ、ない気がしてくる。
でも、でもだ。
同時にオレは、この期に及んで、普通からはみ出す事を恐れている。
ヤツが休学して、オレが学校休んだら、回りはどう思う?
今日もオレは、血だらけの心を引きずって登校する。普通を装って。
「三枝、ちょっと」
ホームルーム終わりに、赤羽がオレを呼んだ。
進路相談室に通されて初めて、自分が進路調査書を出してないことに気がつく。
促されるまま席に座ったオレに赤羽が聞く。
「進路調査出てないけど、どうした?」
言い訳を考えたけど、それさえも面倒に感じて、
「すみません。忘れてました」
と、ありのままに答えた。
「川島とは? 連絡取ってるの?」
今、穂高の話は地雷だよ、センセ。
オレは答えずに俯いた。
「川島も三枝も、家族や親しい人を亡くして大変なのは分かるけど、この先のことを考えないといけない重要な時期でもあるんだよ。嫌かもしれないけど、親御さんにも連絡させてもらうからね」
嫌だと言っても連絡するんだろ、どうせ。
もうどうでもいいや。
図書室の前を通って、カノジョの事を思い出す。
カノジョは今、穂高の傍にいる。
あのキスを思い出す。
ねぇ、ヤツとのキスはどんな?
ヤツはどんな風に愛の言葉を囁くの?
どんな風に触れて、どんな風にキミを抱くの?
キミが羨ましいよ。
キミは何の迷いもなく、穂高に気持ちを伝え、穂高の隣にいる。
いわば勝者だ。
オレにその勇気はない。
俺は男だぜ。
気持ちを伝えてどうなる?
彼女が出来れば友達ですらなくなる。
そんな陳腐な関係だったのに、勝手に親友だって思ってた。永遠に傍にいる気でいた。
帰りたいな。
漠然と思った。
前住んでいた街に。
ここは、ヤツとの思い出が多すぎて、もう全てがシンドいんだ。
家に帰ると、赤羽から連絡を受けた母さんが、待ち構えていた。
怒涛の追い込みラッシュだな。
そんなに追い詰めると、オレ何するか分かんないよ。
まぁ、死ぬ勇気なんかないのは幸いだけど、人生のちゃぶ台くらいなら、平気で返しそうなくらいには、追い詰められてるよ。
「いま考えられないなら、母さん適当に書いとくから、紙出しなさい」
母さんは怒りはしない。
いいんだよ、怒っても。
駄目な息子なんだから。
親友に恋してたことに気づいて、失恋して、親友とカノジョのあられもない姿想像して、勃起して、泣きながら抜いてる。
そんなしょーもない息子なんだから。
怒られても、優しくされても、どっちにしろシンドいなら、まだ怒られてた方が楽なのかもしれない。
ごめんね、母さん。
次の日、母さんが書いた進路調査書を見たら、進学に丸されて、元いた街の大学が書いてあった。
オレの頭で行けるのかわからないけど、戻りたいと思ってるの、母さんに伝わってるのかも、そう思って少し心が軽くなった。
それを赤羽に提出すると、
「いいじゃない。ちょっと頑張れば手が届くと思うよ。頑張んな」
そう声をかけられた。
そうなんだ。行けなくはないんだ。
また少し心が軽くなる。
そうだよ。
少しずつ、忘れていけばいいよ。
そもそも、オレはきっとゲイじゃない。
女の身体にも普通に興奮するし。
他の男子にそんな感情抱くかって言われたら、正直そんな眼で見たことないし、勘弁してくれだ。
穂高だから。
ヤツが特別だから。
少しずつ忘れて、この町を離れよう。
1つの目標が出来て、また少し心が軽くなった。
表面上、穏やかな日々が過ぎる。
まるでずっと前から、この学校で1人だったように、誰とも深く関わることなく、ただ淡々と毎日をやり過ごす。
勉強はするよ。
奨学金のことも調べてる。
ここから離れられるなら、ヤツの影を振り払えるなら、今は何だってやる。
でも、ふと気を緩めると、どうしようもない絶望が、オレの喉元を締め付けるんだ。
「三枝ってさ。帰宅部なんだっけ?」
誰だっけ、この女子。
同じクラスではない事は分かるけど、何処かで接点があったかすら思い出せない。
というか、話しかけんな。
オレは、質問をスルーした。
「感じわるっ」
見知らぬ女子は振り返ると誰かに言った。
「ねぇ、何でコイツなの? やめときなよ」
何だよそれ?
ムカツクな。
誰に話してんだ? 気になって、見知らぬ女子が話しかけた相手を見た。
同じクラスの牧村澄香だ。
目立たない方ではあるけど、そこそこ可愛くて、男子ウケはいい。
牧村と付き合いたいと話していた奴が、クラスに何人かいたはずだ。
そんな牧村がオレに何か……ってこれってもしかして定番の……
オレの思考がそこに至る前に、見知らぬ女子が言った。
「ねぇ、澄香あんたのこと好きなんだって。三枝って、彼女いんの?」
オレの中の、ズルくて汚い部分が、音もたてずに起き上がって、厭らしく笑った。
忘れられるなら、
人の心を
いつものオレが言う。
この地獄から抜け出せるなら、どんなことだってするよ。
今のオレが言う。
オレは、穂高なんか好きじゃない。
失恋なんかしてない。
友達に彼女が出来て、だた疎遠になっただけ。
男に恋愛感情抱いたりなんかしてない。
ほら、だって今、オレ女の子抱いてるよ。
オレは普通だ。
普通の男子高校生だ。
同級生の女の子と付き合って、キスして、そして…
「三枝くん……」
牧村澄香の白くて柔らかい腕が、オレの首に絡みつく。
ほら、クラスの男子が憧れる、清楚な可愛い子が今オレの腕の中で、厭らしく腰を振ってるよ。
「コータ……」
「!!!」
オレを呼ぶ牧村澄香の掠れた声が、あの日泣いていた穂高の声と重なる。
「コータって呼ぶなっ!」
そう怒鳴って起き上がったオレの身体に、牧村澄香が手を伸ばす。
何故だ……
あの日の穂高が、オレの腕の中にいた穂高が手を伸ばす。
「ごめん……ごめん……」
オレが謝ったのは、牧村澄香か? それとも穂高か?
オレはもう一度彼女を抱きしめて、穂高を抱く妄想の中で果てた。
馬鹿げてる。
こんなこと、馬鹿げてる。
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