清明〈せいめい〉

教室で昼飯を食べ終えたオレは、辺りを見回した。

新学年、クラス替えした教室。

見慣れない顔が多いから、いないと確認するのに手間取る。


やっぱりいない。

オレは、弁当箱を机に出したまま、席を立った。


三階の教室から二階に降り、職員室を通り過ぎた先にある図書室に着く。

引き戸に手をかけるともう、眉間にシワの寄ったイカツイ顔が、古びた本を凝視したまま、コッペパンをかじる姿が見えていた。

「図書室は飲食禁止ですよ。」

オレは担任の赤羽の声真似をしながら、引き戸を開けた。

鋭い眼光がオレをとらえる。

ヤツは全く動じずに、パンを咥えたまま、右手を上げた。

「図書室で食うなよ。」

相変わらず、何にも動じねぇなと可笑しくなりながら、オレも右手を上げた。

「今度は何読んでんの?」

ヤツが熱心に読んでいる本の表紙を覗き込む。

「古事記!?」

なんか文句ある?という顔で、パンを引き千切るヤツ。

「似合わねぇー」

パンを握ったヤツの右手が、フェイントをかけるように俺に向かって動く。

殴ったりしない。

わかっているけど、体が反応する。

それを見て、ヤツは不敵な笑みを浮かべる。

「春祭りが近いからな。」

本を閉じ、残りのパンを袋に戻したヤツは

、やっと言葉を発した。


川島穂高。

ヤツとは中二の春からずっと同じクラスだ。

と言っても、田舎の中学は一クラスだけだったから、当然なんだけど。

進んだ高校が偶然同じだったから、そのあたりからぐっと距離が縮まった。

同じ高校に、同じ中学の奴は穂高だけだったから、オレらは行き帰りの電車も、クラスでも、自然と一緒にいるようになった。


ミテクレはまさに田舎のヤンキー。

髪は黒髪だし、制服のブレザーも着崩したりしていない。いたって普通なのに、目つきの悪さと眉間のシワで、勝手にコワイ奴だと思われて、周りに距離を置かれている。

損なヤツ。


「今年も神輿担ぐの?」

当然だろ?お前何聞いてんの?という表情で、オレを下から上へ二往復ほど睨みつける。

「お前もだぞ。」

まじか。

オレは、去年の記憶が甦って、固まった。

「ジッチャンが褒めてたぞ。お前の笛。」  

 

穂高は、お祖父さんに心底心酔している。 


ヤツの家は、この地方ではそこそこ大きな農家だ。

ヤツのお祖父さんが、町の神社の氏子総代をしていて、春と秋の祭りには必ずヤツが神楽や神輿の担ぎ手を引き受ける。

小さい頃からずっとそうだったらしい。

お祖父さん曰く、次世代を引っ張るリーダーになるべく産まれた、農家の長男なんだとか。

中二の時、地方都市からこっちに引っ越してきたオレにはよくわからない。

神輿やら、褌やら、神楽やら…。

初めての事だらけで、去年の春秋は苦戦した事を思い出す。


そんなお祖父さんも、年を越した辺りから、体調が芳しくないらしい。

「ジッチャン、具合どう?」

聞かれたくなかったのか、視線を逸らしたヤツは、擦り切れた本の表紙に触れる。

「もうすぐ山から神様が降りてくるから、祭りまでには良くなるんだって…、ジッチャンは言ってる。」


ジッチャンは言ってる…。

オレはその言葉の意味を察した。

「オヤジは、自分が春祭りを仕切る気でいるけどな。」

やっぱり。

オレは何も答えられずに、ヤツを見ていた。

「オヤジ、神社の事なんか、ろくにやってねぇからさ。」

オレはやっと理解した。

だから、古事記なのか。

 

ホント、コイツは見た目で損してる。

そうは見えないけど、人一倍真面目で、人一倍家族想いで。高二にして、家を継ぐという気概を持って生きている。

継ぐ程の家もなく、進む道すら五里霧中のオレとは何もかもが違う。

でも、だからこそ、コイツと一緒にいると見たこともない世界を見られて、何だかワクワクするんだ。


「稽古始まったら、また声かけてよ。」

今のオレに言える精一杯。

こっちを向いたヤツの顔が、フッと子供のような笑顔になる。

「おう!」

その笑顔に、オレも何だかホッとする。

「サボんなよ。」

ヤツが念を押すように右手の人差し指を向ける。

去年はあまりのシンドさに、体調不良を理由に2回ほどサボってしまった。

正直、またサボってしまうかもしれない。

そう思いながら、オレは笑って誤魔化した。


予鈴が鳴る。

「先行くぞ。」

オレが左手を上げて別れを告げると、ヤツも応える。

「次、ホームルームだろ?ゆっくりいくわ。」

だろうな。

オレは、笑いながら図書室を出た。


えっ?

まるでオレが出ていくのを待ってたみたいに、見知らぬ女子が図書室に入っていく。

とっさに振り向く。

同じ学年じゃないかもな。

新入生?

新入生が図書室?


あっ、そうか。

流石のオレでも気がついた。

用があるのは、図書室の方じゃない。


カノジョは、本当にオレが出ていくのを待ってたんだ。

オレは、何か見てはいけないものを見た気がして、とっさに図書室から数歩離れた。


みんなに距離は置かれているが、穂高はモテないわけじゃない。

ほら、悪っぽい男子に惹かれる女子って必ず一定数いるから、中学でも、高校でも、それなりにモテてはいたんだ。

下駄箱に手紙やら、バレンタインにチョコやら、見かけたことはあった。

でも、不思議と付き合うとかの話にはならなくて…。

行きも帰りも昼休みも、下手すると放課後も休みの日も、オレはヤツと一緒だった。


どうする?

ホームルームが始まるから、教室に戻らないと、とは思うのに、何故だか背後で起きてることが気になって、先に進めない。

引き戸は開いたままだけど、声までは聞こえないし。逆に声が聞こえないってのも、何だか生々しくて堪らない。

急にオレの知らない穂高がいるような気がして、心がざわめく。

いけない。

そこで何が起きてるにしろ、めちゃめちゃプライベートなことで、友達のオレだって立ち入っていい所じゃない。

わかってる。 

でも…。

振り向きかけた瞬間、さっきの女子と肩がぶつかった。

オレの顔を見ることもなく、カノジョは足早に立ち去っていく。

謝る暇さえなかった。

カノジョの後ろ姿を見送り、図書室に向き直ると、さっきの古事記を手に、ヤツが立っていた。


「秋祭りで神楽舞ったじゃん。」

急に祭りの話に戻ったので、オレはキョトンとして頷いた。

「それを見てて、カッコいいなぁって思ったんだって。」

あ、さっきのカノジョ。

「初めて、身内以外に神楽褒められたよ。」

「そこ?」

オレは思わず突っ込んだ。

「オレ的には、そこが嬉しかったから。」

「嬉しかったんだ。」

ヤツはもちろん!という顔で頷く。

何だこれ。

告られたんだろ?

で、嬉しいってことは?

「え?じゃ、何?付き合うの?」

今度はヤツがキョトンとしてる。 

「え?なんで?俺が?あの子と?」

なんで混乱してんだよ。こっちも混乱する。

「だって、告られたんだろ?」

また、キョトン。

「え?そういうこと?」

ヤツがオレに聞き返す。

「知らねぇよ。」

「俺はカッコ良かったって言われたから、ありがとうって。」

一瞬の間。

「それだけ?」

やり取りを思い出すかのように目を動かして、ヤツは言う。

「それだけ。」

沈黙。

「何かまずかった?」

本心なのか、照れ隠しなのか。

精一杯の勇気を出した告白を、

「ありがとう。」

の一言で終わらせるなんて。

カノジョは間違いなく、答えを求めていただろうに。

まぁ、どっちにしろ、オレには関係ないんだけれども。

「そのカッコ良かったは、多分だけど…好きです、付き合ってくださいって意味じゃねえの?」

「え?そうなの?何で?」

もう、説明するのも面倒くさい。

「あの子行っちゃったし、もうしょうがねぇけど、次なんか言われたらちゃんと答えろよ。」

ちょっと考えて、何か言いかけて、飲み込んで…

「わかった。」

何か納得いってないのが丸わかりだけど、オレもそれ以上突っ込むのは面倒だから、黙っておいた。

「戻んだろ。」

ヤツの言葉に頷いた。

これ以上、この話に口を挟んではいけない気がして、オレたちは無言のまま、教室に戻った。


「プリント無い人は今のうちに言ってください。進路についての調査ですから、ご家族と良く話し合った上で提出してください!親御さんのハンコのないものは突き返しますからね。」

教室の引き戸を開けると、担任の赤羽がキッとガンを飛ばした。

「同じ説明はしませんからね。もう高ニなんだから、自分の行動に責任を持って。今、来た二人も提出日は守るように。」


何の話か分からないまま、オレたちは各々の席についた。

出しっ放しの弁当箱の上にプリントを置いたのか、オレのプリントは床に落ちていた。


進路調査書


一年でも簡単な調査はあったけれど、今回は志望校欄、その志望校が県内・県外の表記まであり、より具体的な進路希望を記さなければならないことが分かる。


ふと、ヤツの方に目をやる。

プリントには目もくれず、また古事記の続きを真剣に読んでいる。

そんな姿がらしくて、口元が緩む。


ヤツの進路はもう分かってる。

家を継ぐ、だ。

もうすでに、繁忙期にはお祖父さんや親父さんを手伝って、田んぼの世話をしている。

道に迷いがない。

稲と神楽と神輿に携わっているヤツは、キラキラ輝いてやがる。

正直、羨ましかった。


こっちに引越す前は、周りもそうだったから、当たり前に大学には行くもんだと思ってた。

でもこっちに来てから、その当たり前は当たり前じゃないことを知った。

家が農業や自営の仕事という奴も多いし、ヤンキーも多い。そして、結婚も早い。

都市部に比べると、進学しないという人も多かった。

大学進学。

一番近いところでも、通うには結構な時間がかかる。とすると、必然的に一人暮らしになる訳だけど、今の我が家の経済力を考えれば、それは難しいだろう。

とすると、働く?

どんな業種で?

全く浮かばない。


もう一度、プリントに目を落として、溜息ひとつ。


「ここで穂高とコメ作れ!」

去年、稲刈りを手伝った時にお祖父さんに言われた言葉。

確かに楽しかった。

でも、仕事とするなら、生半可な気持ちで出来ない仕事なのも分かってる。


稲を干す時の、ヤツの自慢気な顔を思い出す。

「ここの一反は、俺が育てたんだ。」


もう一度ヤツを見ると、今度は古事記の陰で居眠りしてる。


オレは、心からヤツが羨ましい。


田植えの準備が始まり、春祭りに向けた神楽の稽古が本格化する頃、穂高の家はにわかに慌ただしくなった。

お祖父さんの容態が悪化して、町の大きな病院に入院が決まったからだ。

ヤツの両親は離婚していて、お祖母さんは亡くなっている。家はお祖父さんと親父さんと穂高という男所帯だったから、ヤツが学校を休んだりして、お祖父さんに付きっきりになった。

でも、そんな中でも、神楽の稽古をヤツが休む事はなかった。

明らかに痩せた、憔悴した姿なのに、決して神楽の舞で手を抜くことはない。

去年の春に始めた笛。

まだまだ拙くはあるけど、ヤツがそんななのに、オレが手を抜くわけにはいかない。

人生の中で、こんなに頑張ったことってあったかな?ってくらい、オレは笛に打ち込んだ。

そして、少しでも力になりたくて、祭りの準備や、田植えの準備にも顔を出した。


そこで気がついた。

ヤツがこんなに頑張ってる間、親父さんは神社に顔を出すことはなく、幾度となく回りから「総代がいないから困ったねえ。」という声を聞いた。

自分が仕切ると言ってた割には、全く興味がない様子だ。

田植えの準備の方も、手伝いに行くとむしろ嫌な顔をされ、目を離すと手伝いのご近所の奥さんと姿をくらましていた。

何となくは察してたけど、ヤツがお祖父さんっ子な理由が良く分かる。

ヤツにとってお祖父さんは、父親代わりであり、母親代わりであり、そして人生の師である。

そんな存在を無くすかもしれない。

のほほんと生きてるオレにだってわかる。

ヤツの痛みが。


オレに何が出来るだろう。


『今日、ジッチャンのお見舞い、行ってもいい?』

昼休みヤツに送ったメールに返事が来たのは、帰りの電車に乗る直前だった。

『おう。』

ただ一言。

病院に行く電車は逆方向。

ちょうどこの駅で上りと下りが行き違うので、同じ時間にやってくる。

オレは急いで線路を越え、反対のホームへ向かった。


駅から病院行きのバスに乗った頃、ヤツからのメール。

『ジッチャンもコータと話たいって。』

何だか縁起でもない気がして、心がざわつく。

オレはまだ近しい人の死を体験した事がない。

ザラリと何か舌に残って取れないような、得体のしれない不安と気持ち悪さが襲う。


ヤツから聞いていた階でエレベーターを降りる。

お祖父さんの病室はどっちだろうと見回すと、すぐ横の談話スペースで、ヤツが背を向けて座っているのに気がついた。

声をかけようとして、足が止まる。

様子がおかしい。

肩が小刻みに揺れている。


泣いてる?

そう、泣いてるんだ。


静かな廊下に、堪えた嗚咽が微かに響く。

何て声をかけたらいいのか、オレにはわからない。

ただ立ち尽くす。

こんな穂高を見たことがなくて、自分の人生の中で、こんなに息の詰まるような瞬間がなくて、初めてのことだらけで、完全に思考停止している。


でも、これだけはわかる。

そんな穂高の為に何かしたい。


どのくらい時間が過ぎたろう。

ナースセンターから出てきた看護師が、立ち尽くすオレとヤツを交互に見て、何かを理解したように、オレに頷いてみせた。

すぐさまヤツに近づき、声をかける。

「穂高くん。今日はお家でゆっくり休みなさい。根つめすぎて、あなたが倒れたらどうするの?」

ヤツが急いで涙を拭い、頷く。

「お友達?」

看護師が今度はオレに聞いた。

その問いで、オレの存在に気が付いたヤツは、目を大きく見開き、泣き顔を見られないように視線を外した。

「はい。」

オレが答えると、

「今日は一緒に帰ってあげて。」

と言いながら、ヤツの肩を二回叩いた。

よろしくね、と言わんばかりに目配せして、看護師は足早に廊下を進んでいく。


オレはゆっくり、ヤツに近づいた。

「見てたのかよ。」 

振り向かずにヤツは言う。

オレは、あえて答えなかった。

「オレは大丈夫だから。ジッチャン、今日は少し調子がいいから、顔見せてやって。コータと、話したいって言ってたから。」

「わかった。」

少しずつ近づいて、両肩に手をかける。

「大丈夫だから。」

掠れて震える声。

言えば言うほど、大丈夫じゃないのがわかる。

でもオレに涙を、弱いところを見せたくない気持ちもわかる。

「行ってくる。」

ヤツが頷く。

「あと、今日うち来いよ。」

驚いたように、顔を上げてオレを見る。

心臓を鷲掴みにされたように、胸に痛みが走る。

眼も鼻も真っ赤で、次々と涙が溢れ出る。

こんな穂高、見たことない。

「少しでも忘れて、ゆっくり休めよ。家じゃ無理だろ?」

いつもにも増して眉間にシワを寄せ、穂高は眼を閉じた。勢い良く、涙が頬を伝う。

「コ…」

ヤツが名前を呼ぶより先に、オレはその肩をグッと右手で引き寄せた。

「全部一人で背負うなよ。」

ヤツの手が、オレの右手を掴む。

小刻みに震える身体が、オレの心も震わせる。

ダメだ。

オレまで泣きそうだ。


今日は、オレがしっかりしなきゃ。

オレは、自分に喝を入れて、ゆっくりとヤツから身体を離した。

「ここで待ってて。」

離れるオレの右手を追うように、ヤツの左手が伸びる。少し掠めて宙を切る。

でも、オレはそれを見ない。

これ以上ぐちゃぐちゃの穂高を見てしまったら、自分まで崩れ落ちそうで怖かったから。


川島泰三

四人部屋のネームプレートに、一人分の名前。

病院に誰かを見舞う。

そんなことも初めてじゃないか?

平々凡々、平坦な毎日を退屈と感じていた自分が、甘ちゃんだったと今思い知る。

この普通の毎日は、普通じゃない。

幸せな毎日だったのだと気がつく。

大きく深呼吸。

二回ノックして、オレはドアをスライドさせた。


息をするのを忘れる程の衝撃。


秋、陽に焼けた笑顔で稲刈り機から手を振った。

神楽の稽古で、オレらを激励しながら、飲み物を配りはしゃいでいたあの笑顔。

年始、神社の片隅で火を焚き、「暖まってけ」と手招きした。

あの人はいない。

別人だ。

この部屋には、ヤツのお祖父さんしかいない。

間違いないのに、認めたくない。


「コータが?」

聞こえるか聞こえないかの、小さくて掠れた声がする。

「はい、紘太です。」

点滴の繋がった左手がほんの少し上がって、すぐに落ちた。手招きさえもう出来ないのだ。

ゆっくりとベッドに近寄り、その存在を示すように、左手を握った。

すると確認するように、一瞬微かに眼が開いた。

「お前がいでくれで、良かった。」

いつもはもっと訛っていて、聞き取れない事もあるのに、こんな時だからこそ、必死で標準語で話そうとしているのが分かる。

いつも通訳してくれる穂高がいない、だからこそ。

何度も込み上げそうになるものを、オレは必死で飲み込んだ。

「全部、ジッチャのせいだ。」

握り返した手がピクリと動く。

「息子にも孫にも、自分の理想を押し付け過ぎた。ダメなジッチャだな。」

オレは、大きく首を振った。

「穂高には、穂高の人生がある。」

多分今出せる精一杯の力で、もう一度握り返している。我慢すればするほど、手が震える。

「これからは、穂高には穂高らしく生きて欲しい。それがジッチャの新しい願いだ。」

震えを抑えるように、気持ちを伝えるように、右手を添えた。

「コータ…どうか穂高の味方でいて…」

最後まで聞くまでもなく、大きく大きく頷く。

見えていない筈なのに、お祖父さんの口角がほんの少し上がった。

「おしょうしな。」

方言が分からないオレでも、その意味は分かった。

我慢し続けた涙が一筋だけ溢れて、オレは天井を見上げた。

もうこれ以上、溢れないように。


帰りの電車の中で、母さんにメールした。

何となく事情は家で話してたから、急なんだから…と言いながらも、ヤツを家に泊めることには賛成してくれた。

ヤツの大きな家と違って、オレの家は小さな公営住宅だけど、今はその方が少し気が楽なんじゃないかと思ったんだ。


「いらっしゃい!」

母さんが元気よくドアを開け、俯き加減のヤツに明るく声をかけた。

こういう時の、母さんの明るさには助けられる。

「高校の入学式以来かしら?穂高くん、背伸びたわね。」

病院からずっとオレに顔を見られないようにしていたヤツも、さすがにオレの顔を見る。

「コイツに身長ネタは地雷だから。」

ヤツの眉間のシワがまた深くなった。

少し、らしくなってきた。

「そうなの?これからどんどん伸びるわよ。成長期なんだから。紘太なんか逆に中学で伸びたけど、もう止まったのよねぇ。」

「母さんは話が長いんだ。早く中に入ってもらいなさいよ。」

奥から出てきた父さんが、母さんを止める。

なんてことはない普通の両親だけど、今日は特にこの両親を誇りに思う。

父さんと、母さんがなんやかんやと話してるから、オレもヤツも自然と心が解れる。

「入れよ。」

微笑んだヤツが、いつものように

「おう。」

と答えた。


「お腹空いたでしょ。もうちょっと早ければ、もっとマシなもの作れたんだけど。」

オレの連絡が遅かったことを咎める視線を受け流しつつ、リビングの椅子にヤツを誘う。

「好き嫌い分からないから、カレーにしちゃった。カレーで大丈夫?」

「カレー大好きです。」

母さんのペースに驚いて、何度もオレの顔を見ながらも、少しずつ笑顔が増えて、いつもの穂高になっていく。


「狭いけどどうぞ。」

夕食後、緊張の糸が解れたのか、少し眠そうな顔になったヤツを連れて、オレは自分の部屋に戻った。

思えば、オレがヤツの家に行くことはあっても、ヤツがオレの家に来たのは初めてで、部屋に入ったのも当然初めてだ。

物珍しそうに、部屋中を眺めている。

オレは、引き出しからTシャツを一枚出して差し出した。

「パジャマ代わり。」

中一までいた地方都市を本拠地にしているプロ野球チームのTシャツ。

球場に観戦に行くともらえるやつだ。

受け取ったヤツは、まじまじとTシャツを見つめる。

「フェニックスだ!そうか、地元にいたんだもんな。」

野球が好き、なんて話はあまり聞いたことなかったけど、この様子だと興味はありそうだ。

「たまに父さんに試合連れてってもらってたから。ファンってほどじゃないけどな。」

「スポーツ観戦とかしたことないからさ。俺も野球スゲー好きって訳じゃないけど、スタジアムの感じとか体験してみてぇんだよな。」

そうだ。

ヤツは、あんまり地元を出たことが無かったんだった。

あの親父さんが、子供を連れてどこかへとか、しなさそうだもんな。

「じゃ、いつか一緒行こうぜ。デーゲームなら、終わってからでも帰ってこれるし。」

「おう!」

Tシャツを広げて、キラキラした眼をしたヤツが答えた。


本当に、家に連れてきて良かった。

病院での姿が嘘だったように、はしゃいでる。

「あんま寝てないんだろ?オレのベッド使って。オレリビングで寝るから…」

制服をハンガーに掛け、ネクタイを緩めながら振り向く。

ん?

後ろ向きでTシャツに着替えているヤツが答えない。

「聞こえてた?」

また答えない。

「オレのベッドじゃ嫌?」

「嫌じゃねぇよ。」

何ムキになってんだか。

「ただ…」

「ただ…?」

振り向いた穂高がオレの眼をしっかりと捉えた。相変わらず、眼力が強い。

「コータ…」

「ん?」

少しもじもじして俯いた後、もう一度俺を捉えて聞こえるかどうかの声で言う。

「おしょうしなし。」

照れてやがる。

今日は、見たことない穂高ばかり見る。

吹き出しそうになるのを堪えて、一瞬眼を背ける。

「何だよ!」

視線を戻して、不満そうなその顔を見る。

また眉間にシワが寄ってる。

堪えきれず、思わず吹き出す。

「おい!」

「悪い悪い!」

オレは謝りながら笑い続けた。


最近の学校での話の途中で、ヤツが寝落ちしたので、オレはブランケットを掛けて、リビングに戻った。

ソファでドラマを観ていた母さんが聞く。

「お風呂入れ直したけど、穂高くん入るかしら?」

オレは首を振った。

「寝落ちした。」

「そう。相当疲れてたのね。」

オレは母さんの向かいに腰掛けながら頷いた。

「あの子、随分痩せたでしょ?」

もう一度、頷く。

「しっかりしてる子だけど、身内の看病を一人でするなんて、相当シンドいはずよ。」

病院でのヤツがフラッシュバックして、飲み込んだ唾で喉が鳴った。

「でもね。母さん、ちょっと嬉しいのよ。」

嬉しい?何が?

少し驚いて母さんを見る。

「あなたが、人と深く関わろうとしてくれたから。」

「!」

「ほら、引越す前も、こっち来てからも、学校で遊ぶ子はいても、お互いの家を行き来したり、家庭の事情まで踏み込んだりする友達っていなかったじゃない?母さん、もしかしたら紘太は、あんまり上手く人との関係を築けて無いんじゃないかって思ってたのよ。」

そんな風に見ていてくれたんだ。

親って凄いな。

それは自分でも感じてた。

何に対しても、誰に対しても、執着というか、強い感情を持てない自分がいたのは知ってる。

「でも、違った…。こっちに越してきて良かったわね。」

そうなのかな。

オレにはまだ分からないや。

今はただ、理屈とか無しに、穂高の力になりたい。

そんな想いに突き動かされてる、それだけなんだ。

「穂高くん、しっかり支えてあげなさい。」

オレは、今日のいろんな穂高を思い出しながら、小さく頷いた。


風呂からあがると、リビングのソファにはブランケットが用意してあった。

有り難い。

ソファに身を投げだして、タオルで髪を乾かす。

手持ち無沙汰で気づく。携帯を自分の部屋に置き忘れたままだ。

朝でもいいかと思ったけど、バッテリーが瀕死だったから、充電しないといけないやつだ。

仕方なく、ヤツが寝ている自分の部屋へと、ソーッと戻る。

忍び足でベッドに近寄り、ヤツの足元あたりに転がってた携帯を拾う。

ふとヤツに眼をやる。

良く寝てる。

一人で頑張りすぎなんだよ。

そう思って、それを否定する。違うな。

オレなら、母さんや父さんに頼れるだろう。

でも穂高は、一人で頑張るしかなかった。頑張りたくなくても。

ぐっすり眠れるといいな。

それにしても、寝てる時にも眉間にシワが寄ってるんだな。

オレは、笑いを堪えつつ、立ち上がる。


次の瞬間、スウェットの裾に違和感を感じて、振り向いた。

ヤツが裾を掴んでいる。

寝ぼけているのか、何なのか、薄目を開けたり、また閉じたり。

そして、ポツリと言った。

「行かないで、母ちゃん。」

その抱えているものの少しでも、オレにわけてくれればいいのに。

オレは手ぶらで、何も持ってないって不満ばかり言ってるのに。

裾を掴んでいる手をブランケットの中に戻すと、オレはヤツの隣に横になって、包み込むように抱きしめた。

ヤツの寝息が聞こえる。

せめて今日だけでもいい。

お母さんに甘える夢でも見て笑って欲しい。

夢の中でまで、辛くならないで。

小さい頃、眠れない時、母さんがしてくれたように、オレはヤツの髪をそっと撫で続けた。


何?

何か微かに聞こえる気がして、耳を澄ますけど、言葉として認識出来ない。

夢なのか?、夢じゃないのか?

本当に聞こえているのか、分からない。

次第に覚醒していく意識の中で、記憶を精査していくと、ふと大事なことを思い出す。

「穂高!」

「びっくりしたぁ!」

突然、ヤツを呼んで飛び起きたオレ。

そんなオレに驚いて、ベッドの上で仰け反っているヤツ。

「おはよ。」

オレはバツが悪くて、頭を掻きながら言った。

「寝起きに人の名前叫ぶのやめろよ。びっくりしたー。」

ちょっと眼は腫れてるけど、大分晴れやかなヤツの顔にホッとする。

「つーか、リビングで寝るんじゃなかったのかよ。俺、お前にエルボーされて起きたんだけど!」

「ごめん、ごめん。」

良かった。

昨日のアレ、寝ぼけてたんだとすれば、もしあのまま、抱きしめたまま起きてたら、オレはかなり怪しい奴な訳で。気付かれなくて良かった。


「な、あのおじさん誰?」

ヤツの視線の先、机の上のコルクボードに、ピンで刺してある一枚の写真。

「あ、あれはフレッド・アステア」

「フレッド…?」

怪訝そうな顔をして繰り返す。

「大昔の、アメリカの俳優さん。母さんが、ミュージカル映画が大好きでさ…。」

ふと幼い頃の記憶が甦る。

「『イースター・パレード』っていう古い映画があるんだけど、そこに出てくるヒロインが、右、左、分からなくなっちゃうから、ダンスの時目印に片足にガーターしてたって設定だったんだよ。オレさ、ちっちゃい頃、同じように左右わからなくなっちゃう子だったから、母さんがそれをヒントにして、左足の靴紐の色、変えてくれてたんだ。それで、無事に間違えなくなった。」

顔に出てたかな。

懐かしそうに話すオレを、柔らかな表情で見つめるヤツ。

「へぇ。いい話じゃん。」

納得したように微笑んだのに、急にまた眉間にシワが寄る。

「ん?で、フレッドは?その映画に出てくる人?」 

ああ、そうだ。質問の答えになってなかった。

「うん。ヒロインがガーターしてないから左右分からない!ってなった時、ゴムバンド渡して左につけさせる。ダンスの相手で、そして恋の相手でもある。母さんが飾ってたブロマイド、もらったんだ。お守り代わりに。」

今度こそ納得して、ヤツは何度も頷いた。

「何かいいな。そういうの。家族の絆?みたいの…」

「穂高はそういうのないの?。名前の由来とか…珍しい名前だろ。やっぱジッチャンが考えたの?」

オレは前々から思ってた疑問をぶつけた。

「そう思うだろ。そう見せかけて、付けたのは親父なんだよ。」

「意外」

「だろ?高く積まれた稲穂みたいに、手塩にかけた自慢の息子ってことなんだってさ。」

今の親父さんから想像も出来ない。

まるで息子に興味ないように見えるのに。

そうは見えなくともきっと、穂高は自慢の息子に違いないんだ。

「親父さん、いいとこあるじゃん。」

「俺も稲も、手塩にかけられた覚えねぇけどな。」

確かに。

オレは遠慮なく笑った。

ヤツの笑顔に安堵する。

少しでも楽になれたなら、それでいい。


「俺、一回家戻るわ。苗の様子も見ないといけないし。今年は少し広く任されてるから、川島穂高、あきたこまちも増やしてみました!」

自慢気な笑顔が眩しいくらいだ。

「ホント、お前スゲーわ。」

そう、その小さな肩に目一杯背負い込んでも、それでも踏ん張って、俺ってスゲーぜって、自慢げに笑ってて。

オレには敵わねぇわって思わせる、そんな川島穂高

でいて。

























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