第45話 花の香りとともに
「ふぁぁぁ。眠いな……」
看守の男は牢の中を確認して回る。
その階の確認が済むと、ゆっくりと階段を上がっていった。
「どうせ見回りなんかしなくても、この塔から逃げ出せる人なんているわけないのになー」
この塔は強い魔力の持ち主であろうと壊せない堅牢な作りをしている。実際、ここから脱獄できた者など今までに一人もいない。
「まあ、楽な仕事だからいいけど」
ポケットに手を突っ込むとチャラリと金属音がする。中には数枚の金貨が入っていた。
今日は知り合いの騎士を通して侍女を中に入れるように頼まれ、おかげで臨時収入も手に入った。
「そういえば一昨日連れてこられた罪人はえらく美人さんだったな。身なりも良さそうだったし。こんな塔に入れられるなんて一体何をしでかしたんだか……」
螺旋状の階段を上り、次の階層へと辿り着く。そして牢へと近付き――男は固まった。
「…………え?」
牢の中には娘が横たわっていた。
娘の口元からは血液が流れ、床を赤々と染めていた。
「なっ、何が……」
「……けて……」
「え?」
「助けて……苦しい……!」
娘は瞳を涙で滲ませながら、助けを乞うようにこちらに手を伸ばす。
「お願い。助けて……」
エルシャは潤んだ赤い瞳で上目遣いに見つめる。その瞬間、看守の心は撃ち抜かれた。
「お兄さんが今すぐに具合を見てあげよう。ちょっと待っててくれ!」
看守は腰に付いた鍵束を手に取り、素早く解錠する。そしてエルシャの側に近寄った。
「お嬢さん、具合は……」
「……ごめんなさい!」
エルシャは隠し持っていたソースボトルを力一杯絞り、中のマスタードを看守の顔面にぶちまけた。
「うわあああ! 目がああああ!!」
看守は両目を押さえてのたうち回っている。
その隙にエルシャは牢から飛び出し、拾った鍵束で施錠をした。
「……ふう。何とかなったわね」
エルシャは手の甲で口元を拭う。赤い血液――ではなくケチャップは綺麗に取れたようだ。
後はここを出るだけだ。
エルシャは螺旋階段を下り始める。そのとき、複数の足音が階下から響いた。その音はだんだん近付いてきている。
(誰かがこっちに来てる!?)
エルシャは慌てて来た道を引き返し、階段を上っていく。その途中で牢の中の看守の声が響いた。
「罪人が逃げ出した! 捕まえろ!!」
「――!!」
迫り来る足音から逃れるように、エルシャは夢中で階段を駆け上がった。
そして、開けた場所に出た。
「まぶしい……」
陽光に照らされ、エルシャは目を細める。
爽やかな風が長い髪を揺らす。その行方を追うように顔を上げると、そこには蒼穹が広がっていた。
「ここは……屋上?」
周囲をぐるりと見渡すが、遮蔽物が一切見当たらない。せいぜい、塔を囲むように肩ほどの高さの手摺りがあるばかりだ。
遠くに王宮があり、そのまた向こうには王都の街並みが見える。
つい立ち止まっていると、すぐに足音が追い着いてきた。
「待て!」
「……っ!」
そこに現れたのは王立騎士団の騎士達だった。ざっと数えたところ五、六人はいる。
思ったよりも大人数だ。
「エルシャ・ガーランド。我々と同行しろ。アンブローズ殿下がお呼びだ」
「私を使ってオズヴァルドを呼び寄せるつもりなんでしょう。そんなのお断りよ!」
エルシャは手摺りの元へと駆け寄り、下を覗き込んだ。はしごの一つでもあるかと思ったが、逃げ場はどこにも見当たらなかった。
(た、高い……)
全身がぞわりとする。
地上があんなにも遠い。ここから落ちれば決して無事では済まないだろう。
背後を振り返ると、騎士達はゆっくりとこちらに近付いてきていた。
(そうだ、魔法! 魔法であの人達を攻撃すれば……!)
これまで意識的に魔法を使ったことはなかったが、いつも感情が昂ったときに魔法が発動していた。
強く念じればきっと魔法が使えるはずだ。
(あの時の感覚を思い出すのよ)
エルシャは目を閉じ、強くイメージする。雷があの騎士達を蹴散らす光景を。
「抵抗しても無駄だ。大人しくこっちに来るんだ」
「……」
「おい、聞いているのか。早く……」
(――今よ!)
エルシャはかっと目を見開く。その瞬間空が光り、雷鳴が轟いた。
次の瞬間には騎士達がその場に倒れていた。
「ほ……本当にできた! 私、思ったよりもすごいのかも……!?」
エルシャはキラキラと瞳を輝かせる。
しかしそれも束の間、足元でパラパラと何かが崩れる音がした。
「……え?」
地面に亀裂が走っている。
そう気付くのと同時に足場が崩れていく。
「きゃっ……!?」
慌てて離れようとしたが遅かった。崩れゆく地面とともに、エルシャの身体も宙に投げ出された。
(落ちる……!)
視界いっぱいに、目が眩むほど美しい青空が広がっていた。無意識に伸ばした手のひらは空を切り、背中から真っ直ぐに落下していく。
青空が、遠ざかっていく――……
そのとき、青一色だった視界にひらり、と赤い花びらが映り込む。
そしてどこかから花の香りが漂ってきた。
(……あれ?)
そのとき、落下が止まっていることに気が付く。
……いや、違う。
誰かに身体を抱き留められたのだ。
自分の身体を支えているのは誰かとそっと視線を動かし――エルシャは目を見開いた。
「……嘘……」
青空と同じ色の髪が風になびき、青空と同じ色の瞳がこちらを優しく覗き込む。
花の綻ぶような微笑を浮かべたまま、彼はこう告げる。
「ただいま。エルシャ」
「――っ」
言いたいことは山ほどあった。
聞きたいことだって沢山あったはずだった。
それなのに思いは何一つ言葉にならなくて、涙となって溢れ出た。
エルシャの身体は優しく地面に降ろされる。まだ空を飛んでいるようなふわふわした気分だ。だけど、目の前に立つ彼は夢でも幻でもない。
エルシャは潤んだ瞳で澄んだ空色の瞳を見つめ返す。そして泣きながら笑った。
「……おかえり。シアン」
それ以上は何も言わず、二人は抱擁を交わした。
私を絡め取る糸 庭先 ひよこ @tuduriri
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