相対主義的な物の見方をする人

Fair is foul, and foul is fair.

シェイクスピアの戯曲、マクベスの中の有名な台詞ですね。綺麗なものは時に汚く、汚いものは時に美しい。その評価は相対的なもので、自分と他人で違うとも同じとも限らないし、自分が下す判断すらも時と場合に応じて変動して、生まれてから死ぬまで一貫した判断基準を通じて世界を眺めるなんて不可能なんです。


不特定多数の価値判断基準に一貫性がないのは当たり前の事ながら、リアルな人間にもしばしば一貫性がない。そして記憶力が良い人、頭が良い人は自分が取る行動に一貫した原理が無いことに気付いており、自分の考え方がコロコロ変わることに抵抗がありません。それが信用ならない語り手の1つ「相対的なものの見方ができるがゆえに発言や行動に一貫性が無い」タイプの主人公ですね。


これが書ける人は頭が良いんだなって私は思います。語り手の性格デザインって、筆者の知能が滲み出ちゃうので気を付けた方が良いですよ。なろう系に多い、主観的かつ自分に都合の良いものの見方をしている癖に、現実世界との乖離が発生しないフィクションというのは自己実現の欲求に正直というか、理性が働いてない下品な性格デザインだと思っている。作品が良いか悪いか以前に、筆者の人となりが心配になる。そしてそんな人は社会にごまんといる。悲しいことに。脱線。


「ライ麦畑でつかまえて」とか「偉大なるギャツビー」。もうこのトラブルシューティングで名前挙げるの何回目かなと思うんですが、これらの作品は実に素晴らしい「相対的なものの見方をする信用ならない語り手」で描かれています。読んでみて下さい。私の具体例としては、「宝木遥乃」とか「美しき雪に捧ぐ」ですね。


「宝木遥乃」 https://kakuyomu.jp/works/16818093075924939266


「美しき雪に捧ぐ」 https://kakuyomu.jp/works/16818093074612084117


相対的なものの見方をする人物が語り手を務めれば、ナレーションには2つ以上のイメージを混在させることができるんですよね。具体例を作ってみました。

「おでこの氷嚢以外の全部がわたしを焼き尽くそうとしてた。よたよたと入った日陰で休む私は、未だグラウンドで走る彼等を見て、自分を情けなく思う反面、乾いて冷えた土の感触にホッとしていた。」

人間心理のリアルは相対的な感情への言及から始まる。特に最近はそう思っています。このテクニックを応用すれば、信用できない語り手ではなくとも、よりリアルでより複雑な、上手い心理描写ができるようになるとは思いませんか?そして心理描写に限らず、三人称の語りにおいても同様のテクニックを使えば、小説の中に2つの世界を混在させることができるんじゃないかって思いませんか?


最後のやつについて書いたのは「1つのナレーションに、2つの世界」 https://kakuyomu.jp/works/16818093075666037277/episodes/16818093077190717659 という記事で触れています。そちらもご覧ください。では今回はここまで。

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