第4話
駒吉が言ったように、江戸は働き口に困ることはなかった。
今度の火事以来、江戸は大きく町割りを変えることになった。大名屋敷や寺社地の移転が相次ぎ、道が広げられ、橋が架けられ、ほうぼうで新しい家が建てられた。普請にかかせない大工にも、所帯道具をこさえる指物師にも、いくらでも仕事は見つかったのである。
それでも、銀次は指物師としての仕事を探す気にはなれなかった。親方に認められ、腕に覚えがあった。闇雲に仕事を引き受けて、いい加減な物を作りたくはなかった。
いや、そうじゃない。
銀次にはわかっていた。
働くことが、出来ないのだ。以前のように、腹の底から力が湧いてこない。
どんな小さな道具でも、ひとつのものを作り上げるには、仕上げるための情熱がいる。その情熱が、様々な工夫を生み出し、ときには思った以上の出来を見せてくれる。
以前は、そんな情熱がいつも体中に溢れていた。それが腕のしびれるような単調な磨きや、眉間が痛くなるような細かい細工にも耐えさせてくれた。
ところが、新しい朝を迎えても、今日を昨日とは違うものにしていこうと思えなくなった。おたかと二人、御救い小屋で三度の食事は事欠かないし、そのほかにも、人の目さえ気にしなければ、料理屋の余り物や市がたったあとの拾い物で、腹が膨れることのほうが多かった。
眠る場所は、上野山下の崖に沿って伸びた大木の影に、拾ってきた板を組み合わせて小屋を建てた。小屋というにはおこがましい、屋根と壁が支えあっているだけの粗末なものだが、どうにか雨露だけはしのぐことができる。
このまま、ただ、生きてさえいればいい。
銀次はそんなふうに思いながら、日々をやり過ごしている。食って寝て、そうして新しい朝を迎えている。
それにひきかえ駒吉は、火事からこっち、人が変わったように生き生きしていた。
動作がきびきびし、世間に気が回るようになった。
男は、何をきっかけに変わるかわからない。駒吉と顔を合わせるたび、銀次はそう思う。駒吉も銀次も、あの火事ですべてを失ったが、駒吉は失ったものと引き換えに、新しい自分を手に入れた。
それは失ったものよりも、尊いものじゃないか。
銀次はそう思う。
それは、わかっている。だが、動き出せない。今日もとうに日は昇っているが、銀次は寝転がったままだ。土の上に敷いた板の上で、何度も寝返りを打っている。
表で銀次を呼ぶ声がした。
駒吉だ。
「まだ、六ツ半だぜ」
そう言ったまま起き上がらない銀次の代わりに、おたかが小屋の衝立をはずした。
崖っ淵の暗がりに、まっすぐ朝日が入ってきた。
駒吉は深川の茶屋の主人から、煙草盆の注文を貰ってきたという。
ほうぼうへ普請に行きながら、駒吉は銀次のために、仕事の口を探してきてくれる。いくら江戸には仕事が溢れているといっても、その分諸国からそれを目当てに職人たちが来ているというから、駒吉は汗をかいて探してくれたのだ。
わかっているが、ぞんざいな返事になった。
「おいらには、やれねえ」
「おめえの腕はおいらが保証した。神田の知り合いの指物師の親方がな、この注文といっしょに来いって言ってくれてるんだぜ」
おたかが横に来て、ちょこんと坐った。駒吉が仕事の話を持ってくると、おたかは必ず銀次のそばへやって来る。置いていかれるのを恐れているのかもしれない。
「それより、池之端の八百屋が、棚が欲しいといっていただろう。それならやれそうだ」
「だったらよ、こうしようぜ」
駒吉はしゃがみこんで、銀次に視線を合わせた。
「これから、すぐだ。すぐに行くんだ。これから行って仕事に就けば、昼前には終わるだろうよ」
そしたら、その手間賃で、おたかもうまいものが食えるぜと、駒吉はわざとらしいほど明るい声で言った。
菜っ葉を並べる棚といっても、素手で造るわけにはいかない。まずは道具が必要だ。
手頃な値段で手に入る店があると、駒吉に連れられたのは、浅草の門前町にある古道具屋だった。
陽気のせいか、道行く人の顔ぶれは、晴れ晴れと見えた。江戸が焼けてから、いつしか三月が経とうとしている。
もう誰も、焼ける前の町のことなど覚えていないかのようだ。
店が軒を連ねている。
明るい顔をした人々が行き交う。その合間を、棒手振りが呼び声を上げながら通り過ぎていく。
寺の門も大名屋敷の塀も新しくなり、焼け残った木には、新しく伸びた枝に若葉が輝いている。新しい着物に袖を通したかのような清清しさだ。
目当ての古道具は、櫛や簪を並べた小間物屋の隣にあった。
「あっちに団子屋の幟が見える」
おたかがそんなことを言うのを聞きながら、銀次は店の中に入り、そしてその場で棒立ちになった。
目の前の棚に、
「なかなかいいもんを揃えているだろ?」
駒吉が、後ろから声をかけてきた。
「気に入った物を選んでくれ、銭のことは心配いらねえ」
だが、銀次に、そんな駒吉の言葉は、耳に入ってこなかった。手にした道具の感触に、ただただ懐かしさがこみあげている。
鉋を板に当てる真似をしてみた。音や匂いが蘇ってきた。知らず知らず息を整えている。鉋を当てるときそうしていたように。
ああ、やっぱりおいらは、指物師だ。
そう思ったとき、銀次の感慨は、おたかの叫び声で打ち消された。
驚いて表に出ると、おたかが人ごみの中で恰幅のいい初老の男に引きずられていくのが見えた。男は必死にあがなうおたかの肩を掴んで、何やら喚いている。
「何するんでえ!」
銀次が怒鳴りながら駆け寄ると、男は案外落ち着いた目で振り返り、凄みをきかした声で言った。
「おめえはこいつの仲間か?」
男の腰には十手がある。
「この娘が本妙寺に火をつけたことは、調べがついてるんだ」
「火をつけた? この前の大火事の?」
ふいに足元に大きな水たまりを見つけたような、そんな気がした。
逃げて暮らした村での、おたかの様子が蘇った。寺のかがり火に当たりながら、誰かが火事の様子を話したときだ。おたかは急に泣き出して、気がふれたようになった。
あのときだけじゃない。駒吉が火事の話をしたときも、おたかは様子がおかしかった。
「この娘が、本妙寺に火をつけるのを見たと、ある筋から訴えがあってな。その娘は、上野山下にいると知らせが入った。それで後をつけて顔を確かめた。訴えた者から聞き出した人相書きとぴったりだ」
そして十手持ちは、掌でおたかの頭を押さえると、
「老中阿部忠秋さまのお屋敷に奉公していた、おたかに間違いないな」
そう言って、腰から縄を取り出した。
「阿部様の、奉公?」
白い米を食べていたと言ったおたかの言葉は、嘘ではなかったのだ。
老中阿部忠秋といえば、江戸で知らない者はいない。銀次も名前だけなら聞いたことがあった。えらいお方だということだが、人徳のある方だと人々に人気がある。
「本妙寺は、阿部様のお屋敷と隣りあわせだ。あの日、おめえが屋敷を抜け出したのは、奉公人たちからも裏を取ったぜ」
おたかはもがきながら、顔をくしゃくしゃにして、泣きじゃくっている。
「待ってくれ!」
銀次は十手持ちの腕を掴んだ。
「これは何かの間違いだ」
銀次は咄嗟に思いついた嘘を、早口でまくし立てた。
「――旦那、この娘はおたかじゃない。おいらの妹のおみつってんだ」
「なんだと?」
十手持ちは、銀次の顔を見据えて、それからもう一度おたかを見た。その隙に、おたかはぐいと体をひねって十手持ちの腕を逃れ、銀次に取りすがって着物の袖に顔を埋める。
「おいらは今でこそこんななりをしているが、元は湯島天神下で指物師をしていた銀次ってもんだ。自分で言うのもなんだが、なかなか腕はいいほうでね。稼ぎがよくなって、妹を生まれた村から呼び寄せた。生まれた村は上州倉賀野のずうっと奥にある笠立村というんだが、山ん中の貧しい村だ。おみつは人買いに売られるところだったんだが――」
銀次の口上が真に迫っていたのだろう。十手持ちが肩から力を抜いたのがわかった。それに乗じて、
「おみつ、江戸では兄ちゃんから離れるなと言ったろ」
そう言って、銀次はおたかの頭をこづいて見せた。
おたかは銀次の袖で涙を拭きながら、うんうんと頷く。銀次はしゃがんで、おたかの裾に付いた土埃を払ってやった。
十手持ちはじっとそんな様子を眺めていたが、
「もし嘘なら、ただじゃあすまねえぞ」
そう言って踵を返した。
十手持ちの、前かがみの厚い肩が人ごみにまぎれていくのを見送ってから、銀次は思い出したように大きく息を吐いた。まだ後ろのおたかは、強く銀次の袖を掴んでいる。
その手を振り払って、銀次はおたかに顔を向けた。
「おめえ、何者だ? 江戸で何をしていた?」
おたかは強情そうに口をへの字に曲げて、銀次を睨み返す。
「こんな往来で話はできめえ」
駒吉にうながされて、銀次は強くおたかの腕を引っ張った。
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