第3話

 街道に出ると、人の行き来が多くなった。

 すれ違う誰もが、生き生きとして活力に溢れているように感じられる。

 もちろん、襤褸を纏っている者も少なくない。だが銀次には、自分たちだけが惨めな風体をしているように思えた。


「何か口に入れないと、これ以上は歩けないよ」

 箕輪を過ぎたあたりで、おたかが半泣きになった。途中で使い物にならなくなった草鞋を捨てたために、裸足のつま先は土埃にまみれ、血が滲んでいる。


「よし、ちょっと待っていろ」


 商家の軒先におたかを坐らせて、銀次は食べ物を探しに行った。

 路地に入って、町家の間をさまようと、どこからか魚を焼く匂いが漂ってきた。

 ふらふらと匂いに誘われて、銀次は長屋の軒先を伝っていった。

 果たして、路地の奥で煙が上がり、ひとりの老婆がしゃがみこんで七厘の上に魚を並べていた。網の上にのっているのは小さな痩せた川魚だったが、焦げた皮がちりちりとうまそうな音を立てている。

 老婆が振り向き、叫び声を上げた途端、銀次は老婆を突いて、網の上の魚を掴んで走り出した。走りながら、銀次は魚を口に頬ばり、残った魚を懐に入れた。


 通りに戻ると、往来の向こうに、おたかが泣きそうな顔で、人の行き来を眺めているのが見えた。

「走れ!」

 弾かれたようにおたかが走り出した。銀次もさらに走った。懐の熱い魚を両手で抑え、ときどきおたかを振り返った。

 すれ違う人が驚いて道を開けた。道端にしゃがんで遊んでいた子供が二人、一緒に走り出して、走るおたかを囃し立てた。

 

 どれくらい走っただろう。

 二人はいつの間にか大きな寺の門前に来ていた。市がたっていた。いくつもの屋台が並び、物売りの声が響いている。熊手や竹箒などを売る屋台の横に、樫の大木があった。銀次はその木の根元におたかを坐らせ、懐から魚を取り出した。魚は身が崩れ頭がもげていたが、うまそうな匂いはそのままだ。

 銀次の手から魚をむしり取り、おたかは勢いよく口に入れた。


「あんまり急ぐと、喉をつまらせるぞ」

 思わず笑った銀次に、おたかは返事もせずに口を動かし続ける。

 ふいに妹のおみつの顔が浮かんだ。おみつは別れた頃七つか八つだったが、今のおたかのように食べるときは無心に、まるで親のかたきかなにかのように口を動かす子供だった。

 

 生まれた村では、いつもひもじい思いばかりしていた。それが江戸に出て、食い物に困らなくなったのだ。それが銀次を江戸に留めていたいちばんの理由だったかもしれない。

「白い飯が食いてえもんだ」

 銀次が呟くと、骨をしゃぶりながら、おたかは目だけこちらに向けた。

「そんなもの、めずらしくもないよ」

 おたかはしゃぶり終えた骨を、ぽんと足元に捨て、蹴り飛ばした。

 


 浅草に近づくにつれて、何とも言えない嫌な臭いが漂ってきた。泥と腐った食べ物が混ざったような臭いだ。そこかしこに、土まんじゅうが作られ、位牌代わりの小枝が挿されている。その周りには、瓦礫が積み上げられたままだ。

 

 それなのに、さびしい景色ではなかった。建てかけの家があった。むしろを広げて商いをしている者がいた。そのまわりで遊ぶ子供たちが、元気のいい声を上げている。物売りの声が響いてくる。この焼け野原で誰が買うのか、朝顔の苗を売る者が行き過ぎていく。

 

 御救い小屋が見えてきた。丸太によしず張りの粗末な建物だったが、御救い「小屋」というにはそぐわない大きさだ。そこに幾人もの人々が出入りしている。

 御救い米は一人三合。ほかに味噌と梅干が半紙に包まれて配られる。

 長い、長い行列だった。江戸は人で溢れている。

 

 そのとき行列の先のほうに、銀次は見覚えのある男を認めた。大きな男だ。


 あれはたしか、大工の下働きの……。

 間違いない。銀次の仕事場の隣の普請場で、兄貴分に叱られながら仕事をしていた――。

「駒吉!」

 行列を離れるわけにはいかないから、その場で銀次が叫ぶと、駒吉は泣き笑いのような顔で振り向いた。


 生きていたんだな。

 銀次は胸が詰まるような、泣きたいような気持ちになった。あの日、途中までは駒吉といっしょだったのだ。駒吉に声をかけられながら、火を逃れて走り続けたのだ。


 火の手が上がったとき、駒吉は屋根に上っていた。たっぱがあることを見込まれて、屋根に使う板を上げたり下ろしたり、梯子を使って親方の指図を受けていた。

「火事だああ」

 転がるように梯子を降りてきた駒吉の声に、皆がいっせいに仕事の手を止め、瞬間耳を澄ました。早鐘がけたたましく鳴り始め、あたりは騒然となった。昼飯のあと、八ツ半の鐘が鳴った頃だった。昼間の弛緩したような町は、いっぺんに地獄と化した。

 

 一緒だったのは、入谷まで。そこからは、追いかけていた駒吉の大きな背中が、人波に紛れてわからなくなった。

 駆け寄ってきた駒吉は、人目もはばからず、銀次に抱きついてきた。

「……」

 銀次の肩に顔を押し付けて、何か言っている。だが、何を言っているのか、聞き取ることができない。

「生きていたんだな」

 銀次は何度もそう繰り返した。駒吉も、ただそう言っただけかもしれない。

 ようやく駒吉が銀次の肩から顔を上げたのは、おたかが、

「誰だい?」

と声をかけたからだった。


 我に返ったように、駒吉はおたかを見、それから銀次にこれまでのことを話し始めた。

 駒吉は千住の御救い小屋にいたという。銀次が逃れていた村の、案外近い場所で命をつないでいたらしい。

「ずっとあっちにいてもよかったんだが、戻ってくれば働き口があると思ってよ」

 そう言った駒吉の顔には、たくましい男の貫禄があった。いや、凄みが出ているのだ。火事からこっち、駒吉は人には言えない苦労をしたのかもしれない。


 三人で小屋の隅を陣取った。人で溢れた小屋の中は、息をするのも窮屈なほどの混みようだ。ようやく見つけたその場所は、風が淀んで饐えた臭いがした。

「仕事はいくらでもある。江戸は火事のあと、大工が足りねえからな」

 そのとき、隣にいた一団のひとりに、駒吉が肘をぶつけた。

 なんだてめえは。相手はそんな表情で振り返ったが、駒吉の顔つきと体の大きさを見て、何も言わずに顔を戻した。


「親方は死んじまったしよ」

 銀次は頷いた。駒吉も銀次と同様、親方も兄貴分も亡くしたのだ。

「振袖火事っていうらしいや」

 駒吉がぽそりと言うと、それまで無心に味噌を嘗めていたおたかが、ぴくんと体を震わせ、目を閉じた。


 どうした?

 そう訊こうとしたとき、駒吉に肩を揺すられた。

「それより、嬉しい知らせだ。おしなさんは、――生きてるぜ」

 銀次はゆっくりと駒吉に顔を戻した。



「つい四日前だ。元の魚屋のあった場所に掘建小屋ができていた。そこに、親爺さんとおしなさんがいた」

「――そりゃあ、よかった」

ようやくそれだけ言って、銀次は俯いた。いろんな想いが溢れてきて、言葉が続かない。おしなは同じ町内に住む魚屋の娘で、銀次とは好きあった仲だった。

「なんだ、嬉しくねえのか?」

 駒吉の声に、銀次は我に返った。

「まさか。ただ、驚いちまって」

 うんうんと、駒吉は頷いた。

「運がよかったんだ。真っ黒焦げで落ちてきたに柱の向こうで命が助かったってんだから、よほど運に恵まれてたんだろうよ。あの界隈、助かった者はほとんどいなかったんだからな。だがな、何もかもなくなっちまっただろ? 親爺さんはすっかり老け込んじまってよ、おしなさんが懸命に慰めてるんだが。なんだか毛をむしられた鳥みてえに、二人とも情けない風体で」

「誰も助けてやれねえのか?」

「町内の者も散りじりだ。見てられなくてよ。おいらが着るものを持っていったり、小屋を住みいいように整えたり」

「おめえがいて、よかったな」

 駒吉が目を剥いた。

「何を言ってやがる。おしなさんは、おめえが会いに行ったら喜ぶぜ」

 銀次は駒吉の目を見ることができなかった。銀次には、おしなに会えないわけがあった。

 あの火事のときだ。無我夢中で逃げていた銀次は、闇雲に走りながら、おしなの暮らす魚屋の前を走った。そのとき、聞こえたのだ。助けてと叫ぶ、おしなの声を確かに聞いたのだ。だが、銀次は助けに行かなかった。人に押されていたせいもある。火焔が激しく、建物に近寄れなかったせいもある。だが、そうじゃない。銀次はわかっていた。怖かったのだ。死ぬのが、怖かった。おしなの命よりも、自分の命が大事だったのだ。

 会うわけにはいかねえ。会う資格がねえんだ。

そう言おうとしたとき、銀次は小屋の入口に立つ、一人の男に気づいた。男は柱にもたれて、胸の前で腕を組んでいた。職人風の身なりは、なんの印象も残さないが、動かない視線がそう思わせるのか、どこか暗い翳をまとっている。人の輪に入っているようで、よく見ると独りでたたずんでいるのがわかる。

そして銀次が不気味に感じたのは、その男が、じっと見つめている先だ。男は、駒吉の隣で、所在なげに坐るおたかを見つめていたのである。

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