第2話
土間の隅のツユクサの葉がたっぷりと水を含んで、朝日に輝いている。
その横に、欠けた茶碗が転がっていた。
目を覚ました銀次は、茶碗を手に取り、荒れ家の裏に向かった。そこに屋根から落ちた雨が溜まる穴がある。
穴を覗き込むと、ちょうど鏡のように自分の顔が見えた。ずいぶん頬が痩せている。そう思ったとき、背後で人の動く気配がした。おたかも目を覚ましたらしい。
「おめえも、飲むか」
振り返らずに、銀次は言った。おたかの返事は聞えなかったが、草を分ける音がして、こちらに近づいてくるのがわかった。
一口飲み干したとき、おたかが傍らに立った。
「いくつだ?」
水を入れて茶碗を差し出すと、おたかはおびえたように後ずさり、ぽそりと呟く。
「九つ」
「江戸のどこから来た?」
おたかはじっと水の入った茶碗を見つめている。
朝日の中で見ると、汚れた頬や指先にいくつもかすり傷があった。村のどこで雨風をしのいでいたのか。犬コロのように命をつないできたにちがいない。
「親や兄弟は、どうした? おめえのことを心配しているんじゃねえか?」
「死んだ」
そうかと、銀次は頷いて、顎をしゃくった。
「飲め」
ごくっと音を立てて、おたかは水を飲み干した。そして、ぺたりと体を折るようにしゃがみ、両腕を畳んだ膝の前で合わせ、顔を埋めた。
「どうした?」
銀次もしゃがんだ。
「――腹が減った」
「そうだな」
だが、食べるものなど、この荒ら家のどこを探したって見つからない。夜を待って、寺で粥を貰うまで何も口にすることはできないだろう。荒ら家のまわりに生えているのは、ドクダミやハコベで、煎じれば薬にはなるだろうが、腹の足しにはならない。
銀次は立ち上がり、アケビの蔓を払いながら草っ原を進み、村の道に立った。
うねったあぜ道の先に、数人の子供の姿が見えた。わぁわぁと騒ぎ立てながら、土手のほうへ駆けていく。
また、川に行ってみるか。
魚が獲れるかもしれない。といっても、小さな村の川には、それぞれ村の者の縄張りがあって、釣れる場所には入れない。日の当たる、魚が避ける浅瀬でしか、銀次は獲物を探すことが許されなかった。そのせいか、一昨日、一日川に入っていたものの、小魚一匹捕まえられなかった。
土手に向かってあぜ道を進むと、朝日を背にこちらにやって来る者たちがいた。男が一人、女が三人。寺で見かけたことのある顔ぶれだ。
「どこへ行くんだ?」
駆け寄って、銀次は声をかけた。
「どこって、江戸に戻るさ。今夜から粥の施しがなくなるんだ」
応えたのは、先頭を歩いていた初老の男だった。男は火から逃げたときに怪我をしたのか、少し脚をひきずっている。
「浅草門近くの河岸端では、まだ御救い小屋があるらしいぜ。江戸はえらく景気がいいって話だ。もっともっと大きな町になるって噂だ」
そう言った初老の男を、女たちが追い越した。もともと、知り合いではないのかもしれない。
「――もっと、大きな町」
立ちすくんだまま、銀次は彼らの背中を見つめた。あれほどの火に包まれた町が、もう生まれ変わろうとしているのだろうか。
道は先で下り坂になり、また上り坂になる。
とうとう一行が小さくなって田んぼの先に見えなくなったとき、銀次はようやく踵を返した。もう、心は決まっていた。
荒ら家に戻ると、おたかはまだ裏の水たまりの前でしゃがみこんでいた。指先に、小さな枝を持っている。何をしているのかと思ったら、足元の土の上に猫の絵が描いてあった。丸く太った猫は、おたかよりもずっと生き生きしている。
うまいもんだな。そう言う代わりに、
「おらあ、江戸に戻る」
おたかが顔をあげた。
「今夜から寺の施しがなくなるらしい」
見上げたおたかの目が見開かれた。
「そういうわけだ。短い付き合いだったが、おめえも達者でな」
小枝を乱暴に投げ捨てて、おたかは立ち上がった。
「いっしょに、連れてってくれよ」
銀次は首を振った。
「悪いが、それは無理だ。江戸であてがあるわけじゃねえ。おめえの面倒までは、みられねえ」
かわいそうだとは思ったが、いい加減なことは言えなかった。自分だけでも生きていけるか保証がないのだ。
するとおたかは、頭に手をやって、髷をほどき始めた。
ぎょっとした。おたかはまだほんの子供だ。女の欠片さえない。
「何のつもりだ?」
汚れた鳥の巣のようだった髷が徐々にほどけ、そして頭のてっぺんから何かを取り出した。
「――これは」
おたかが取り出してみせたのは、象牙の形彫り根付だった。しかも、彫られた布袋は緻密でよくできている。
いい仕事だった。見れば、わかる。おたかのような娘が持っているものではない。
指先で根付を撫でながら、銀次はおたかを見据えた。
「なぜ、こんなものを持ってやがるんだ?」
おたかが、村人の握り飯を盗んだことが蘇った。
「まさか、おめえ、子供の盗っ人か?」
答える代わりに、おたかは銀次の掌の根付の上に、自分の掌を強く押し付けた。
「貰ってくれ。代わりにいっしょに連れてってくれよ」
おたかの目に涙が滲み、見る間に見開いた大きな目に溢れた。
「置いていくな、連れて行け」
涙が頬を伝って、唇に入り、それからおたかの顔は真ん中に引っ張られたかのように、歪んだ。鼻水を大きな音を立ててすすり、肩を揺らした。えっえっと声も漏らす。
銀次は根付をおたかに戻すと、両手で自分の顔を撫でた。
答は決まっている。食い物もない荒ら家に、こんな子供を置いていけるはずがない。
銀次は崩れた天井越しに空を仰いだ。眩しい薄い青色が広がっている。
「行くぞ」
威勢のいい声にはならなかった。だが、おたかは弾かれたように、肩をそびやかした。
田んぼのあぜ道を進んだ。ヒバリが二人を追いかけるように飛ぶ。
行く道々、おたかは何度もしゃがみこんで、道端の草を摘んだ。いつのまにかおたかの手は、野の草でいっぱいになった。
早く来いと銀次が急かすと、困ったような顔で立ち止まった。
「めずらしいもんじゃねえだろ」
おたかの手にある花は、どこにでも生えているものだ。名前はなんといったか。
そうだ。
たしか、かたばみ。
銀次が思い出したとき、叱られたかと思ったのか、おたかは花の束をぽいと道端に捨てた。
「捨てることはねえ」
言ってみたが、おたかには聞えなかったようだ。慌てて、転がるように駆け寄って来た。
段々畑を登りきり、村はずれの草っ原に出た。そこからは村を見渡すことができる。
振り返ると、暮らした荒ら家が見えた。半分屋根のない、葛の蔓がからまった小屋が、朝日の中で草に埋もれていた。
銀次は、浅草門近くの河岸端にできたという御救い小屋を目指した。
浅草までは三河島から山谷堀を通って七里。日の暮れる前には着けるはずである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます