かたばみ
popurinn
第1話
冷たい風に頬をなぶられて、銀次は目を覚ました。
昨夜から降り続いた雨が上がって、雲間から紅い夕焼けが覗いている。
朽ちた
かさり。
草が動く音。
犬だった。
痩せこけた犬だ。犬は俯いたまま家の前を横切り、そして人の背丈ほどもある草の中に見えなくなった。
まだ、おれは生きている。
銀次はそっと右肘をさすった。まだひりひりと痛むが、頭の芯はすっきりし、腰から下のけだるさもない。
ただ、腹が減っていた。
荒れ家で過ごして幾日たつのか、銀次にははっきりわからなかった。ただ、ずっと震えが止まらなかった体が、いまではすっかり元通りになっている。
銀次が焼け出されたのは、湯島天神下の仕事場だった。火に追われ、まわりで喚き叫ぶ人々の群れに押されながら、熱くないほうへ熱くないほうへと向かってきた。
闇雲に駆けただけだ。
十六のとき上州倉賀野の奥から江戸に出て、四年。指物師の親方の下で、懸命に過ごした日々には、江戸の町を詳しく知る余裕はなく、どっちへ行けば助かるのかわからなかった。
たどり着いた場所は、上野の北、尾久という名の村。
それ以来、この荒ら家で過ごしている。獣が傷を癒すように、日のあるうちから、かろうじて屋根の残った場所に横になり、ただ眠り続けた。
夜になると、村にある寺へ向かった。
寺では、焼け出された者たちに、粥の施しがなされている。
そこで耳にしたのは、江戸の酷い様子だった。お城も大名の屋敷も、寺も町屋も焼けたという。神田も深川も灰になったらしい。そこいらじゅう黒こげの死人だらけで、息をするのも辛いほど、嫌な臭いが漂っているようだ。
でも、おれは、生きている。
銀次は両手で顔を撫でてから、今日も施しを受けるために荒ら家を後にした。
どこからともなく現れた蝙蝠が、脇をすり抜けていく。夕焼けが消え、空には星が瞬きはじめている。
雑木の木立の隙間から、ちらちらとかがり火が見えた。
寺の境内の火だ。その火は、深くなる闇の中で、浮かんでは消える。火事以来吹き続けている風には、いまだ不穏な勢いがある。
寺の境内では、粥の入った鍋の前に、静かな行列ができていた。銀次は黙って列に並んだ。鍋から立ち上る湯気が、風向きが変わるとこちらに流れて、いっとき寒さを和らげる。まだ春は浅く、人々が吐く息は白い。
腹を満たしたあと、銀次は、焚かれたかがり火のそばへ向かった。見知らぬ者同士が寒さしのぎのために足踏みをしながら、今夜の不安を紛らしていた。銀次もまた足踏みをしながら、輪の端で聞くともなしに人々の話に耳を傾けた。
死んだ者を嘆く者、火の勢いの様を語る者。そして今夜も、昨晩と同じように一つの話に行き着いた。
「火元はどこだ?」
誰もが、今夜も耳を澄ます。吹きつける風が、かがり火を大きく揺らす。
「本郷あたりだって話だ」
「寺だっていうぜ」
「どこの寺だって?」
輪の中から、声があがった。火事には必ず火元がある。人々は恨む相手を探している。
「本郷丸山の本妙寺だ」
別の誰かが声を荒げる。そして昨日もその前もそうだったように、火元はそこかと、人々が口々に喚きはじめた。
本郷丸山本妙寺、本郷丸山本妙寺。
こだまのようにその名前が、人々の輪を流れていく。
寺の本堂から坊主の読経が聞えはじめた。本堂は風下にあり、坊主たちの声はときに大きくときに小さく、空の闇に消えていく。
そのとき、かがり火の向こうで叫び声がした。
「うあぁあ」
叫んでいるのは、肩上げをした幼女だった。小さな丸い顔を歪めて、空を睨んで叫んでいる。
だいじょうぶかと、隣にいた男が、子供の肩を揺すった。
「火で気がふれたんだよ」
銀次の横で、年増の女が呟いた。
子供の叫び声は徐々に小さくなったものの、大きな目からは涙が溢れ、それはすぐにしゃくりあげに変わった。
「かわいそうになあ」
誰かがそう言って、それに誰かが、
「ほんとになあ」
と、応えている。
ちょうどおみつとおんなじぐらいだな。
銀次はそう思った。おみつは故郷にいる、銀次と十違いの妹だ。
銀次はそっと人々の輪から離れた。これ以上ここにいても、もう粥の施しはない。荒れ家に帰って眠ってしまうのがいい。
境内を出ると、もと来た道を引き返した。胸の前で腕を組んで、ゆっくりと歩く。
青い闇の道は、ザワザワと草の揺れる音がした。遠くで鳴くふくろうの声が、誘うように響く。
――仕事がきっちりしてるじゃねえか。
ふいに、親方の声が蘇った。
――このぶんなら、そう遠くないうちに仕事がまかせられるかもしれねえな。
叱られたことのほうが多かったのに、蘇ってくる親方の声は、いつも銀次を誉めている。
この四年。銀次には、脇目もふらず働いてきたという自負があった。指物師の見習いに入るには、いい加減年を取りすぎていたから、その分を取り戻そうと懸命だった。仕事場には誰よりも早く行き、誰よりも遅くまで残って、少しでも仕事を覚えようと、目を皿のようにして親方や兄貴の手を見つめた。
そんな銀次に木削りをやってみろと、親方が言った。この前の秋のことだ。
木削りとは、板の表面を鉋で丁寧に削り、整えることだ。直線や直角を正確に出すことが必要で、指物を作る土台となる、肝心要の仕事だ。木削りをまかされるということは、腕を見込まれていることに他ならない。
目が出るかもしれねえ。
あのときの震えるような胸のうずきを、銀次は忘れることができない。
それからは、懸命だった仕事ぶりに、ますます拍車がかかった。
人というのは、認められると変わることができる。生まれた村で、気持ちをくさらせていた頃には有り得なかった、まわりの者に対する感謝の気持ちを持てるようになった。
もっと、もっと頑張って、立派な指物師になりたい。
ところが、あの火事だ。
湯島天神下の仕事場は、すっかり火に包まれた。親方が丹精込めた文机も茶箪笥も、燃えた。吟味に吟味を重ねて選んだ桑や桐の材料も、あっという間に火に包まれた。
前を逃げる親方や兄貴分が、焼け落ちてきた柱の下敷きになるのを、銀次はどうにもできなかった。表は雨のように火の粉が降っていた。身も毛もよだつような人々の怒号と、荷物を積んだ車長持に押されて、ただ、ただ、前へ進んだ。
上野から谷中へ。それから新堀村を走り抜けて尾久へ。
あとになって思えば、まるで火に向かって走っていたようなものだ。だがそれがかえってよかったのかもしれない。隅田川へ向かった者たちは、水を求めて、折り重なるようにして死んでいったという。
――いい仕事だ。
また、親方の声が蘇る。
だがその声は、追い風に煽られて闇の中に消えてしまう。
銀次はいっそう背を丸めた。
みんないなくなっちまった。親方も、腕を競い合った兄貴分も。
焼けちまった。頑張った日々も、熱い希望も。
足元の小石につまずいて、銀次は瞬間前にのめった。そのとき、後ろから男たちの叫び声が聞えてきた。
振り向くと、数人の黒い影が近づいてくる。
「もう、逃がさねえぞ」
ぐしゃっと潰れるように、先頭の者が土の上に倒れた。あとから来た者たちがその者を取り囲んだ。と思うと、地面にうずくまった者に、蹴りを入れはじめた。
「こらしめてやる、盗っ人め」
村人たちだ。うずくまった影は小さい。子供だ。
「やめろ!」
銀次は声をあげて、走り寄った。見覚えのある顔がうずくまっていた。
この顔はたしか、寺でかがり火に当りながら泣き叫んでいたんじゃないか――。
「何があったか知らねえが――、子供相手にあんまりだ」
「こいつは、盗っ人だ。おらの家から食べ物を盗み出した」
「そうさ、一度や二度なら村の者も多めに見るが、こう何度もやられたら、見過ごすわけにはいかねえ」
「懐のものを、出しな!」
村人たちの叫び声に、子供はようやく懐から何やら取り出した。小さな握り飯が二つ。汚れて形が崩れている。
男の一人が娘から握り飯をひったくると、ペッと地面に唾を吐いた。
「もう、かんべんしてやれ」
銀次は子供の肩を掴み、自分の方へ引き寄せた。それを機に、村人たちが踵を返した。来たときの威勢はなく、黒い影はなぜかひっそりと遠ざかっていく。
「流れ者に恵んでやる食い物は、もう村にはねえんだ」
誰かがそう言うのが、風に乗って聞えてきた。江戸の火事から村に逃げてきた者たちが、日に日に村人たちの負担になっているのだろう。
子供の着物の裾の泥を払ってやってから、銀次は歩き出した。寺の施しだけでは身がもたない。それは、焼け出されてこの村に逃げてきた者たち誰もが同じだ。
村を出る、潮時かもしれねえな。
ふたたび銀次は、胸の前で腕を組んだ。こうすると、少しは空腹が忘れられる。
と、後ろで足音がした。足音は、銀次と同じ方向へ向かってくる。銀次が止まると、足音も止まる。
さっきの子供だ。そう思ったが、振り返らなかった。知らない顔をしていれば、そのうち諦めて姿を消すだろう。
荒ら家の傾いだ引き戸の隙間を潜り抜け、中に入った。どうにか屋根が残った場所に、体を横たえる。
傾いた柱の向こうに、黒い草が月の光の中で揺れるのが見えた。
その柱の陰に、小さな影が動く。
「名前は」
「――おたか」
泣いているような声だった。
寝返りをうって、銀次は目を閉じた。
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