第2話

 中学三年生、卒業を控えた二月ごろの話だ。


 当時、俺は喧嘩に明け暮れていた。別に特別な理由があったわけじゃない。そこらの不良と同じ、喧嘩をすることが目的だった。


 その事件の相手は隣町の高校生グループで、過去に一度、大きな喧嘩で叩きのめした相手だった。

 彼らは俺に再戦、報復するにあたって、人質を利用した。


 それが志乃架だった。


 俺としては、予想もしていない出来事だった。


 当時の志乃架と俺は、特に親しい関係ではなかったからだ。学校が同じだけの、半分疎遠な幼なじみ。同じ時間を過ごすどころか、会話することもない。


 だから、自分の喧嘩相手が志乃架に手を出すなんて、露ほども想像していなかった。


 俺は必死になって、志乃架を助けに行った。


 客観的に見れば、俺たちは疎遠な幼なじみだったけれど、俺からすれば、志乃架は初恋の相手で、今でもずっと好きな女の子だった。


 そして、だからこそ、喧嘩の時に弱点にならないように、そして彼女が巻き込まれないように、自分から遠ざけている存在でもあった。


 志乃架の危機を知ってすぐ、俺は宣告された廃倉庫のような場所に出向いた。


 そこには金属バットを構えた見張りが不機嫌そうに立っていて、俺はそいつに志乃架の安否を問いただす。


 返ってきた答えは、「黙ってついて来い」。


 俺はそいつに従って、倉庫の中に入った。


 そこで目にしたのは、汚らしいマットを囲う、十人弱の人だかり。


 その中心で、一人の女の子が数人の高校生に押さえつけられていた。制服をはだけさせ、高校生の一人が彼女に馬乗りになっていて。


 強姦の現場だと、すぐにわかった。


 俺は酷く動揺する頭で、女の子の顔を確認しなければと考え、それを凝視した。


 彼女は大きな抵抗を見せず、声も上げていない。


 隣で、見張りの男が下卑た笑い声を上げる。それが、酷く耳に障った。


 十数秒経ってようやく、女の子と目が合う。彼女の顔が悲痛そうに歪んだ。気がした。


 女の子は、志乃架だった。


 その瞬間、俺の頭の中で、何かがはち切れた。


 隣で笑っていた見張りの顔面を、ひしゃげるくらいに蹴り飛ばす。そいつごと吹き飛んだ金属バットが大きな音を立てて、倉庫中に反響した。


 それが開始のゴングになって、そこから先はよく覚えていない。


 俺は昔から、興奮すると記憶と思考が曖昧になる。そして、人格が変わると言っていいほど、暴力的になる。


 詳しい理由はわかっていないが、どうも他人ひとよりアドレナリンが大量に出る体質らしい。


 理性を代償に、異常に喧嘩に強くなる。殴られても痛みはさっぱり感じないし、反撃の拳には、信じられないほど力がみなぎる。運動神経は拡張されて、周りが妙にゆっくり見えるようになる。


 果てには、全能感のようなものに辿りつく。


 暴力装置として、完璧に自分の思考を表現してくれる身体。願った通りに沈み、倒れ伏していく敵。


 その瞬間だけ、俺の暴力で、世界を思い通りにできる。


 自分の存在が素晴らしく強調されて、恍惚とするほどの生きている実感を得られる。


 喧嘩に明け暮れていたのは、それが気持ちよかったからだ。


 今回は、志乃架のことでかつてないほど頭に血が昇っていた。


 俺は曖昧な思考の中で、留まることを知らない激情と高揚に導かれて、その場にいた高校生たちをことごとく半殺しにするまで止まらなかった。


 気がついた時、俺はマットに座り込んだ志乃架を見下ろしていた。


「……灘世」


 志乃架の振る舞いは、あまりに気丈だった。


 ボタンのないブラウスを見に纏い、寒そうに肩を抱いている。俺を見上げる視線は、とても静かだった。


 辺りには重症の高校生が転がり、あちこちが血飛沫に染まる。

 唯一そばに立つ俺も、返り血と自分の血が区別できないほど真っ赤。

 それだけで、普通の女の子なら泣き喚いて当然の状況だ。


 それなのに、志乃架の表情はいつも通りの涼しげな顔を微かに険しくしただけ。


 信じられないほどの、落ち着きようだった。


 俺の方がよっぽど尋常じゃなかった。感情がぐちゃぐちゃだった。


 目の前に好きな女の子がいて、彼女は今しがた犯されていて、俺はその相手を半殺しにしたばかりで、でも不快感は増すばかりで、その全てを彼女が見ていて、そもそも彼女が巻き込まれた原因は自分にあって。


 降り積もった吐き気を催すような苛立ちが、吹雪のように心を荒らす。


 だけど、身体は燃えていた。


 心臓は力強く脈動して、全身と頭の中では血が沸騰している。興奮状態は収まらず、理性と思考がかすみがかっていた。


 心は零下で、身体は烈火のように熱い。心身の乖離かいりは、自分が削り取られるような、酷い苦痛だった。


「……しのか……」


 ぼやけた意識の中で、俺はほとんど本能のままに、志乃架の頬に手を伸ばす。


「灘世……?」


 彼女の肌は雪のように冷たい。触れた指先から身体の熱が吸い取られていくみたいで心地いい。


 けれど、それだけじゃない。心には温かさが広がった。人肌に安らぎを感じるように、黒い感情が氷解していく。


 彼女に触れているだけで、歪んだ熱が溶け出して、心身の調和が取り戻されていく気がした。


──……もっと、志乃架に触れたい……。


 強くそう思った。


 俺は欲望に従った。志乃架をマットに押し倒して、その上に覆い被さる。


「灘世……!?」


 抵抗する志乃架の手を、無造作に押さえつける。


 空いている手で、再び志乃架の頬に触れた。


「……灘世……痛いから……」


 彼女は、顔を少しだけ背けて、口から白い吐息を溢す。


 俺の心はゆっくりと満たされていった。けれど、渇望は加速した。


──……もっと。もっと、志乃架に……。


 俺は、彼女のボロボロのブラウスをはだけさせた。


 露わになる、艶のある白い肌。下着は着けていなかった。


「……っ! 灘世!?」


 普段の様子からは考えれない、志乃架の大きな声も耳に入らない。


 俺は彼女の首筋に指先を落として、ゆっくりと撫で下ろしていった。浮き出た鎖骨をなぞり、胸の膨らみの間を抜けて、正中線上をへそまで下っていく。


 志乃架の身体はとても綺麗だった。全体的に肉に乏しいけれど、均整の取れた女性的な曲線は保たれていて、目立った傷もない。


 それは、俺に真っ白なキャンバスを思わせた。


 不意に、俺の中で一つの仄暗い欲望が生まれる。そして、それを実行できる道具が、たまたますぐそばに落ちていた。


 高校生の一人が振り回してた、バタフライナイフ。俺はそれを手に取って、刃を志乃架の腹に当てた。


「なに……!? やめて灘世!」


 志乃架の身体が強張る。俺はそれを無視して、ゆっくりとナイフを横に引いた。


「いたっ……!! 痛い! 何するの!? やめて! やめてよ灘世っ!」


 彼女の白い肌が薄く裂けて、真っ赤な線が描かれる。


「どうして!? なんで!? 灘世……!」


 悲鳴と共に志乃架が身をよじって、鮮血が溢れる。重力に引かれた赤い雫は、とても扇情的せんじょうてきに彼女の白を彩った。


「は、はは……!」


 俺は物凄く興奮していた。脳がとろけて、愉悦が心から湧き出してくる。


 瞬間的に、最高の気分だった。


 もしこの行為に名前をつけるなら、それはきっとマーキングだ。


 志乃架があまりにも綺麗だったから、傷つけたくなった。そして傷付けてしまえば、自分のものにできると思った。


 あるいは、高校生たちにつけられた以上の傷を、志乃架に刻みたかった。誰かが志乃架を傷つけるのは許せない。志乃架を傷つけていいのは俺だけだと、本気で思った。


 もっともっと、彼女を傷つけたい。今さっきのレイプを忘れてしまうぐらい、彼女を傷つけて、俺を彼女の一番にする。


 早鐘を打つ心に任せて、俺は再び志乃架の腹を切りつけた。


 一度、二度と、俺は志乃架に対する想いをのせて、彼女の下腹部を刻む。


 その度に、志乃架は悲鳴交じりの懇願を叫んで、身をよじった。


「はは! ははは!」


 生まれて初めて心の底から笑っている。俺はこの瞬間のために生まれてきたんだ。込み上げてくる喜悦を全身で感じて、俺はそう思った。けれど。


「……ごめんなさい……もうやめて、ゆるして……。おねがい、はやせ……」


 ついに志乃架が弱々しく涙を流し始めた姿を見て、俺の頭は急激に冷えた。


 ようやく、自分の行いを理性で直視して、志乃架の姿を認識する。


「……し、志乃架……。ごめん……」


 俺は慌ててナイフを捨て、志乃架から離れる。


 その時はじめて、俺は志乃架が血だらけだと気づいた。下腹部は彼女自身の血で、頬や四肢、ブラウスは俺から滴った血だ。


「……ごめんなさい……ごめんなさい……」


うずくまった血濡れの志乃架は、うわ言のようにそう繰り返す。


 とても痛ましい姿だ。


 俺はその姿にすら、言いようのない充足感を覚えていた。何か、ずっと探していたものを見つけたような、満たされていく感覚。


 冷えた頭で、溢れ出しそうなそれを必死に誤魔化す。


「…………志乃架」


 思い出したように、急に湧き出た罪悪感が、鉛のように心を潰す。


 次第に、興奮状態で忘れていただけの痛みが、全身を苛み始めた。


 ほどなくして、俺は立っていられなくなり、その場に尻餅をついた。


 血だらけの廃倉庫で、転がる怪我人と、泣いている女の子と、項垂れるだけの俺。


 充満している鉄の匂いがする空気は、冬の冷気を超えたナニかを持って、俺たちを凍えさせる。


 俺は何もしなかった。何もできなかった。何をすればいいのか、わからなかった。


 だから、ただ志乃架の啜り泣く声を聞き続けた。せめて、その声が鼓膜に焼き付くように。


 この罪悪感と痛みを、そして志乃架の心を刻んだ罪の重さを、決して忘れないために。



 事態を収拾したのは、騒ぎを聞きつけた警察だった。

 高校生も、志乃架も、俺も、もれなく警察によって回収され、それぞれに病院へと送られ、それぞれに聴取が行われた。

 

 その後。

 事件の顛末を手短に説明すると、法的責任を負ったのは高校生たちだけで、俺は罪に問われなかった。


 そして、幸いなことに、志乃架が事件の被害者として、強姦された少女として後ろ指さされるようなことにはならなかった。


 多分、警察の尽力なのだろう。それだけは本当に良かった。


 警察の聴取、調査が終わったあと、裁定とともに知らされた事件の概要は、ほぼ俺が知る通りの事実に則していた。


 高校生たちが志乃架を拉致、強姦し、助けに来た俺によって、血の惨状。動機は不良のくだらないプライド。罪のない女の子が巻き込まれた許しがたい事件。


 志乃架は被害者。高校生たちは紛れもない犯罪者だ。


 だが、警察は俺の扱いには困ったようだった。


 喧嘩の規模や高校生たちの怪我の具合を考えれば、暴行罪や傷害罪は当然成立し得る。しかし、喧嘩の動機はあくまで、志乃架を助けるため。


 おそらく、俺の知らないところで、いろんな大人たちが、それなりの時間をかけて審理したのだと思う。


 最終的に告げられた判決は、無罪放免だった。正当防衛が成立するらしい。


 聞いた話では、人数差が著しかったこと、高校生たちが一方的に凶器を用い、俺は素手だったこと、俺自身も相当な怪我を負ったこと、事情聴取中の俺の態度が殊勝で、精神的な問題が見られなかったこと、何より志乃架の証言が重く見られた結果だと言う。


 満身創痍のなか何度も聴取に呼び出されて、その度に、むかし世話になった警官に手酷く絞られたけれど、罰らしい罰は、それくらいだった。


 志乃架は、腹の切り傷のことを、俺のせいだと言っていないようだった。


 もし彼女が本当のことを告げていたら、こんな結果にはならなかっただろう。


 俺はほとんど、志乃架に救われたようなものだ。彼女のおかげで、前歴を免れた。


 正直、保護観察も望めないと思っていた。俺にとっては奇跡的な判決だと思う。

 

 けれど、それを素直に喜ぶことはできなかった。

 

 高校生たちに大怪我を負わせたことに罪の意識はない。当然の報いだと思う。だが、志乃架へ与えた傷は違う。


 あの傷はきっと完全には消えない。心の傷は尚更だろう。


 俺は裁かれるべきだ。


 ただ、誰に罪を打ち開ければいいのか、わからなかった。それに、志乃架が俺を裁かなかった以上、彼女の知らないところで勝手に断罪を受け入れるのは、間違っている気がした。


 当の志乃架とは、事件以来、直接話す機会を得られない。


 きっと志乃架も俺を避けていたのだと思う。当然だろう。俺自身も、あまり積極的に会いたいとは思えない。


 結局、俺は曖昧な罪を抱えたまま、放免されることになった。



 事件の後始末でごたついているうちに、中学は卒業式の日を迎えた。なんとか歩ける程度に回復していた俺は、半ば温情で出席を許された。


 志乃架も列席していた。

 卒業証書を受け取りに壇上へ上がっていく後ろ姿は、すっかりいつも通りに見える。


 事件を知らない人間は、絶対に想像できないだろう。彼女がつい数週間前に、理不尽な暴力の被害に遭ったなんて。とても残酷な形で処女を失ったなんて。


 それがなんだか、俺には苦しかった。


 卒業式が終わると、俺は志乃架と話すチャンスを完全に失った。幼なじみだから家は知っているけれど、訪ねていく気にはならなかった。


 もう志乃架と関わるべきじゃない。それが彼女を傷つけた俺が取るべき当然の態度だ。罪悪感は、墓まで抱えて生きていく。その頃にはそう考えるようになっていた。


 春休みの時間は、身辺整理に使った。


 もう二度と喧嘩はしない。自分を制御できなくなるような状況、誰かを不本意に傷つける可能性は絶対に招かない。そのために、いろいろな人間関係に区切りをつけた。


 高校の入学式は、違和感を覚えるほど、呆気なく訪れた。


 この年は例年よりも暖かい日が続いていたせいで、桜が入学式を置き去りに散る年だった。


 俺は近場の公立校に進んだ。生憎、志乃架も同じ学校だ。


 だから、俺は彼女の生活圏、心の平穏を侵害しないよう注意して過ごさなければならない。

 場合によっては、転校や退学も視野に入れる。


 そう決意して、入学式に臨んだのに。


「灘世」


 入学式直前、組分けが発表されて、クラスごとに男女で列を作るよう指示された直後のことだった。


「……志乃架」


 唐突に、あろうことか志乃架の方から、俺に声をかけてきた。


「同じクラスみたいね」


 事件以来、初めての会話だ。

 俺はどんな罵倒も、恨み言も、粛々と聞き入れる、彼女が望むならどんな罰でも受け入れると覚悟を決めた。しかし。


「とりあえず、一年間よろしく」


 志乃架は事件のことなど一切感じさせない、淡々とした調子でそう告げて、女子の列に紛れていった。


 俺はどう反応すればいいのかさっぱりわからず、困った様子の担任に声をかけられるまで、呆然と突っ立ていた。


 その日からだった。志乃架が俺に世話を焼くようになったのは。

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イビツアイ 〜クールな幼なじみと、壊れかけの異世界で〜 稲苗(いなえ) @inae_3180

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