犯罪証拠消去許可

島丘

犯罪証拠消去許可

 自動ドアの開く音に顔を上げる。

 入り口には赤い斑模様の服を来た一人の男性が立っていた。よく見るとそれは返り血で、元は白い服だったことが窺える。

 床に小さな血溜まりができていた。手に持つ包丁から滴るものだ。

 血走った目でカウンターに一直線に向かって来ると、掠れた声で言った。


「消去許可がほしい」

「ほい。当館の登録カードを拝見させていただきます」


 男性は首を振って、聞こえないくらいの声で「持ってない」と答えた。


「でしたら、二階のカウンターで登録を先にお済ませください」


 荒い呼吸でうんうんと頷き、血の道標を残しながら二階の階段を上っていく。半円を築く階段の向こうに姿が見えなくなると、隣の藤川ふじかわさんがわざとらしいため息を吐いた。


「また汚れちゃったよ。せめて拭いてから来てほしいよねぇ」


 そう言うとカウンターの奥に引っ込んだ。

 藤川さんの姿が消えて間もなく、新たな利用者が現れる。


「消去許可が欲しいんだけど」


 今度は年配の女性だ。色の剥げた茶色い鞄から、ペットボトルのお茶と醤油煎餅の袋、白とピンクのかまぼこを取り出した。

 折り畳まれた黒い財布から、長方形の登録カードを手渡される。

 野々田敦子ののだあつこ。バーコードを読み取ると、今月三回目の使用だった。

 商品をわざわざ並べて見せたことから、消去希望犯罪もまた同じものだろう。直接尋ねると嘆くか怒鳴ってくるので、使用制限の確認だけにとどめた。


「野々田様は今月三回目の消去となります。今月はもう使用できませんが、よろしいですか?」

「はいはい」


 鬱陶しそうに手を振られる。早くしろとでも言いたげだ。内心「四回目を使わせろ」などと言わなければいいけれど、と思いながら処理を済ませる。

 四カ月ほど前に四回目の使用をさせろと粘ったこのお婆さんは、ブラックリストに入っていた。こんな年寄りが刑務所に入って心でも痛まないのか! お前達のせいだぞ! そう叫んでいたらしい。

 そのとき自分はシフトに入っていなかったので知らなかったが、ちょうど担当していたのが新人の笹山ささやまさんだった。押しに弱く声も小さい彼女は、圧に負けて四回目の消去許可を出してしまったらしい。

 後で知った主任に大層怒られて、翌月には責任感からか罪悪感からか、はたまたストレスからか辞めてしまった。真面目な働き者だったのに残念だが、あの性格を鑑みるにどちらにせよ長続きはしなかっただろう。

 カウンター横に置いてあるレシートプリンターから、だみ声の鳥のような音が鳴る。ビッビと音を立てて印刷し終えると、紙を引っ張って切り取った。

 二階A棚、第四種。証拠No.1と書かれた紙と、使用許可を出した登録カードを渡す。交換するように、お婆さんは醤油煎餅を渡してきた。


「あげるよ。休憩時間にでも食いな」

「いえ、利用者様からの贈り物はお断りさせていただいていますので」


 丁重に断ると舌打ちが返ってきた。せっかく親切で言ってやったのに、とぶつぶつ文句を言いながら帰っていく。

 カウンターの奥から、濡れ雑巾を手にした藤川さんが戻ってきた。


「さっきのってブラックリストのお婆ちゃん?」

「はい。万引き常習犯の。今月三回目です」

「笹山ちゃんが断れなかった人だよね。あー、やだやだ。まだ月の半ばだよ。絶対また来るね。この前は四回目も消去できたのに、何でできないんだーって」


 同じ考えだったので深く頷いた。担当したくないなーとこぼしながら、藤川さんがカウンターの外に出る。

 点々と続く丸い赤を一つ一つ拭き取っている後ろ姿をぼんやり眺めていると、二階から先程の男性が戻ってきた。

 手にはビニール袋を持っていて、中に血のついた包丁が入っている。恐らく二階の職員に渡されたのだろう。

 背中を丸めて血を拭き取る藤川さんの横を足早に通り過ぎ、男性はカウンターまでやって来た。つくったばかりの真新しい登録カードを受け取って、バーコードを読み込む。


「はい。平田真吾ひらたしんご様ですね」


 そうだ、そうだと、何かに怯えながら何度も答える。


「消去希望内容は?」

「こ、殺した、人を」

「殺人ですね。失礼ですが死亡確認はしましたか? 未遂の可能性は」


 確認すると、平田さんはぐっと黙り込んで、目玉を右に左に忙しなく動かし始めた。

 もしかしたら殺していないのかもしれないと、過去の自分と被害者に期待しているようだ。けれどすぐに思い至ることがあったのか、項垂れてぼそぼそと呟く。


「ちゃんと殺した」


 ちゃんと殺した、という言葉のおかしさにむずがる口を叱咤して、真面目な顔で「わかりました」と答える。

 殺人手続きは面倒だ。大きな案件だし、殺した人数や対象によっては許可を出せないこともある。

 確認すると、平田さんは初犯で、相手も同年代の男性一人だと言う。これなら大して面倒なことにならなさそうだ。

 形式的に殺害動機を尋ねると、金を返すのを待ってくれなかったと答えた。

 ビービッビッ。打ち出した紙は、先程のものよりも数センチ長い。下の空白欄に『金銭トラブル』と書き込む。


「どうぞ。殺人の消去許可は三階D棚、第一種となっております。日中の金銭トラブルは消去No.6となりますので、まずは三階に上がっていただいて」

「違う」


 説明の途中で遮られた。男性は違う、違うと繰り返し、私は何が違うのかと尋ねる。


「日中じゃない。夜、夜に殺したんだ。昨日の夜に殺して、庭に埋めた」

「おや、そうなると死体遺棄の消去許可も必要になりますね」


 時刻こそ問題にならないが、死体を埋めていたとなると話は別だ。

 手渡そうとした紙を引っ込め、カウンター下のゴミ箱に放り投げる。また登録し直さないといけない。面倒だ。


「平田様は初犯ですから、二つの消去許可を利用するにはもう一つ手続きをしていただく必要があります」


 カウンター横のファイルスタンドから、黄色いファイルを引っ張り出す。一番下の方に重ねていた、A4サイズの薄緑色の紙を手渡した。二枚重ねのカーボン紙だ。


「こちらに住所、氏名、年齢、生年月日、犯罪動機、犯罪時刻、犯罪場所、犯罪内容の詳細をお書きください。太枠部分だけで結構ですが、今回の消去希望は殺人ですので、一番下の被害者の詳細欄もお願い致します。こちらは住所、氏名、年齢、生年月日のみで結構です」


 ポケットから抜いたボールペンで、一つずつ示しながら説明する。被害者の詳細欄を叩いたところで、平田さんは力なく言った。


屋代やしろの誕生日なんて知らない」


 殺した相手は屋代と言うらしい。

 誕生日を知らないとは、たいして仲がよくなかったのだろうか。いや、友人でも誕生日を覚えていない人はたくさんいる。自分だって記憶力がいいとは言えない。

 そこまで考えて「おっと」と思考を止める。必要以上に利用者のプライベートについて考えることは、よしとされていないのだ。


「一先ずわかるところだけで結構です。こちらで詳しく調べます」


 自省しつつ、ペン立てから鉛筆を取り出す。先が潰れて書けそうになかったので別の鉛筆を取ると、芯が折れていた。三本目でようやく、ほどよく丸まった鉛筆を引き当てる。

 手渡すと、平田さんはその場で黙々と書き始めた。記入用のカウンターは別にあるけれど、今は特に忙しい時間でもなかったので何も言わないことにする。

 書き終えたらしい。取りこぼしたように鉛筆から手を離し、無言で突き出してきた。鉛筆はほんの少しカウンターの上を転がって、すぐに停止する。

 字が汚くて読めない箇所があるものの、肝心なところは確認できそうだ。開いたままだった平田さんのページと照らし合わせながら、ざっと目を通す。

 犯罪動機は『金を返せと』までしか読めなかったが、先程聞いていたので把握することができた。

 犯罪時刻、九時二十分くらい。開いたスペースに午後と付け加える。犯罪内容の詳細を見るに、体を切ったり溶かしたりはしていないようだ。

 続いて被害者の詳細欄を確認する。氏名、屋代林二郎。年齢は三十。住所や生年月日は空欄だ。

 名前のフリガナは潰れていたのであてにせず、そのまま素直に読んだ。


屋代林二郎やしろりんじろう様ですね。今お調べします」

「違う、林三郎りんざぶろうだ」

「失礼しました。屋代林三郎様ですね」


 二つ目の横線と三つ目の横線が重なって見えたせいで、名前を誤ってしまった。

 検索機に名前を打ち込む。画面にずらっと並んだ姓氏姓名。下にいくにつれて整合性が下がっていくその一覧の、上から二番目に見つけた。


「おや、屋代食品の血縁の方でいらっしゃいますね」


 驚いた。屋代食品と言えば、CMでもお馴染みの大企業だ。


 ハラヘリヘラリ! 味方は、ヘラリ! 屋代のヘ・ラ・リ! カップ焼きそば!


 軽快なメロディと共に珍妙なダンスをする女優が頭を過る。


「そうだ、そうだ、あいつは金持ちなのに、金を返せとうるさくて、ケチな野郎だ、殺されて当然だ」


 ぶつぶつと独り言を言う平田さんを無視して、生年月日と住所を記入していく。年齢は一つズレていたので、三十一と書き直した。


「被害者が著名人や社会影響を及ぼす一族の血縁者の場合、許可が下りないケースもあるのですが」

「そんな、嘘だ!」


 嘘ではありません、と訂正してから言う。


「しかし屋代様は、幸いにも第三子。跡継ぎの可能性もなく、戸籍上では親子の縁も切られているご様子。これなら問題ありません」


 放蕩息子だったのだろうか。何にせよ、これなら騒がれる心配もなさそうだ。よかったですねと声をかけると、平田さんは両手で顔を覆っていた。


「そんな、じゃあ本当だったのか……でも、あいつは気前よく貸してくれたじゃないか。本当に金に困ってるなんて、思うわけないだろ……」


 屋代さんが親子の縁を切られたのは一ヶ月前だ。それより前に金銭の貸し借りをしたのだろうが、黙っておいた。

 空白を埋めた一枚目を切り取る。二枚目を控えとして手渡すも、平田さんは受け取らなかった。仕方なくカウンターに置く。

 改めて登録カードのバーコードを読み取り、死体遺棄の消去登録も処理する。平田さんのページには、あっという間に二つの犯罪歴が残った。

 ビービッビッ。紙を切り取る。三階E棚、第二種。死体遺棄は消去No.15だ。


「殺人及び死体遺棄は、ともに三階となっております。場所がわからなければ、カウンターの者にお聞きください」


 差し出した登録カードを緩慢な手つきで受け取ると、そのまま去ろうとした。控えもお持ち帰りくださいと呼び止める。

 平田さんはやはりゆっくりと振り返ったが、突然何かに堪えられなくなったのか奇声をあげた。物凄い勢いで、カウンター上のA4用紙を奪い取る。

 噛まれたガムのように皺だらけになった紙を片手に、左右に大きく揺れながら去って行った。


「ああぁぁぁぁ! うわぁぁああ!」


 平田さんの姿が階段向こうに見えなくなった頃、入れ違いに藤川さんが戻ってきた。濡れ雑巾は赤く染まっている。


「やっと拭き終わったよ」

「お疲れ様です」


 肩を回しながらカウンターに入ってくる。奥に引っ込んですぐ、水の流れる音が聞こえた。しばらくすると、まだ濡れている両手をエプロンで拭きながら戻ってきた。


「さっきの人長かったね。第二種も書いてなかった?」


 正式名称は第二種犯罪証拠消去許可証明書と言う。長いので、職員は全員第二種と略していた。


「殺人と死体遺棄だったんです」

「あー、多いよね。その組み合わせ」


 確かに多い。殺人の消去許可を希望する人の約三割が、死体損壊もしくは死体遺棄、またはその両方を併せて希望する。

 適当に世間話をしていると、次の利用者がやって来た。

 綺麗な女性だったけれど、慌てて来たのか髪がボサボサだ。フラフラとした足取りでカウンターまでやって来る。袖口に血が付いていた。


「あっ、あの、あの」

「はい。如何なさいましたか」


 女性は腕にかけていた小さな黒い鞄からスマホを取り出した。カタカタと震える手で操作して、随分と長い時間をかけて目当ての画面を見せてくる。

 二人の男性が映っていた。肩を組んで、顔は真っ赤だ。酔っているのかもしれない。


「この、この人、この人知りませんか?」


 二人とも見覚えがあった。というよりつい先程見たばかりだ。

 右が平田さんで、左が屋代さん。少し若いけれど、面影がある。

 少し悩んでから、答える意思がないことを伝えた。


「申し訳ございません。こちら犯罪証拠消去管理センターでは、特定の個人を指した質問にお答えすることは」

「殺されたのよっ!」


 キィンと耳鳴りがするほどの大声。藤川さんがこちらを見た。厄介な奴を引き当てたなぁと同情するように苦笑する。


「り、りんくんが、りんくんが殺されたの! 殺されたのよ!」

「落ち着いてください」

「こ、ここ、犯罪者がたくさん来るんでしょ、ねぇ、来たんじゃないの? こいつが来たんじゃないの?」


 こいつ、と言いながら平田さんを指す。私はできるだけゆっくりと答えた。


「大変申し訳ありませんが、そのような相談はこちらでは承りかねます。犯罪証拠消去相談センターには」

「行ったわよ!」


 バァンとカウンターを叩かれる。違った。スマホを投げられた。バウンドして床に落ちる。


「そしたらお答えできませんって、み、みんな、みんな同じことばっかり。犯罪者を庇うなんて頭がイカれてる! 何が犯罪消去許可よ! どうして加害者が守られるの!」


 体を屈めてスマホを拾う。画面がひび割れていた。平田さんの顔が真っ二つに裂けている。


「申し訳ありませんが、こちらも仕事ですので」

「加害者がそんなに大切なの? なんでよ、なんで、りんくんは殺されたのに……」


 ついにわぁわぁと泣き始めてしまった。先程の平田さんのように両手で顔を覆って、とめどなく涙を流し始める。血で汚れた袖口で雑に拭うせいで、顔のあちこちにうっすらと赤が伸びていた。

 スマホはカウンターに置いた。階段を見る。誰も降りてはこなかった。


「どうかご理解ください。犯罪消去許可とは、いわゆる一時的な措置です。加害者の人権を守ると同時に、被害者の人権を守る意味合いもございます。裁判を起こす際は、こちらで無償に犯罪証拠の提供を」

「うるさい!」


 館内にいた数人の利用者がこちらを見た。鬱陶しそうに眉をひそめ、近くにいた職員の馬場ばばさんに何か言っている。黙らせろと言いたいのだろう。


「証拠証拠って、証拠なんかなくたってわかるわ、あいつが殺したに決まってる!」


 女性はその場に泣き崩れた。視界から消えたのはよいけれど、泣き声だけが耳に響く。藤川さんが面倒そうに立ち上がった。

 こうして感情をあらわに職員に詰め寄る人は少なくない。セクシャルハラスメント対策のため、相手が女性なら女性の職員が、男性なら男性の職員が対応するのが決まりだ。

 藤川さんが側に膝をつき、どこか投げやりに宥める。

 先ほど馬場さんに何か言っていた男性がやって来た。ぶっきらぼうに「消去許可を」と登録カードを渡してくる。

 足元の女性を鬱陶しそうに見下ろして、聞こえる声で「邪魔なんだよブス」と言った。途端に立ち上がった女性が、男性に掴みかかる。


「あああぁぁぁ!」


 ヒステリックに叫びながら男性を押し倒した。登録カードのバーコードを読み取る。牛乃松造うしのまつぞうさん。先月に器物損壊の消去許可を希望していた。今回も同じだろうか。


「牛乃様、消去希望内容は?」


 カウンターの下を覗き込んで尋ねる。牛乃さんはそれどころではないようで、めちゃくちゃに顔を引っ掻いてくる女性の髪を引っ張っていた。藤川さんが腕を組んで見下ろしている。


「警備員呼ぼっか」

「ですね」


 ゴンっとカウンターが揺れた。殴られた女性がカウンターにぶつかったらしい。

 牛乃さんは乱暴に女性を蹴りつけ、「このイカれ女!」と罵倒していた。肩で息をしながら立ち上がる。


「器物損壊」


 画面に入力していく。先月と同じだった。

 乱れた髪を撫でつけながら、牛乃さんは言う。


「なぁ、これって傷害に入るか? だとしたらそっちも一緒に消去したいんだけど」

「どうでしょう。和解すれば問題はありませんが。相手の方が警察に駆け込むつもりもないのでしたら、そのままでよろしいかと」


 牛乃さんはしゃがみ込んで、カウンターにもたれかかる女性の顔を掴み上げた。誰にも言うなよ、と言って、財布から取り出した一万円札を膝に落とす。

 結局牛乃さんは器物損壊だけ消去を希望した。藤川さんがカウンターに戻ってくる。


「大丈夫そうですか?」

「鼻血出てたけど、まぁ大丈夫でしょ」


 しばらくすると、二階から平田さんが戻ってきた。

 きょろきょろと辺りを見回して、所在なさげに階段を降りてくる。カウンター下に座る女性を見て一瞬ぎょっとしたけれど、顔までは確認できなかったらしい。そのまま出口へ消えていった。

 閉館一時間前になって、ようやく女性は立ち上がった。おぼつかない足取りだ。

 ちょうどそのとき、証拠整理をしていた馬場さんが駆け足で戻ってきた。垂れ下がった長い前髪を耳にかけながら、カウンターを挟んで言う。


「すみません、さっき整理していたら、三E第二の十四番がなくなっていて。滅多に貸し出されないから、気になったんですけど」


 三階E棚、第二種。消去No.14は、確か墳墓発掘罪ふんぼはっくつざいだ。確かにここ最近で貸出履歴はないはず。確かめてみると、やはり誰にも貸し出していなかった。

 そこではたと思い出す。そういえば平田さんが希望した死体遺棄は、隣のNo.15だ。間違えたのかもしれない。


「平田さんが間違えて持ち出したのかも。ちょっと連絡してみるよ」

「平田?」


 馬場さんの声が随分と低く聞こえた。違う。それは向こうにいる女性の声だった。

 しまったと口を塞ぐが遅い。馬場さんを押しのけて、掴みかかる勢いでまくしたてる。


「やっぱりここに来たんじゃない!」

「落ち着いてください」

「わっ、わぁ」


 馬場さんが後ろでおろおろしている。藤川さんはトイレ休憩で席を外していた。


「嘘つき! 嘘つき野郎! 犯罪者!」


 警備員を呼ぶように馬場さんに促す。こくこくと何度も頷いて、彼女は駆けていった。入れ違いで戻ってきた藤川さんが、額に手をあてている。やれやれといった様子で、女性を止めてくれた。


「大丈夫ですかー、落ち着いてくださいねー」

「許さない、許さないからな!」


 駆け付けてきた警備員に羽交い締めにされ、女性は去っていった。


「威力業務妨害じゃんね」


 藤川さんが言う。


「手続き面倒だから警察には言わないけど。ほんとどうにかしてほしいよね。こっちだって仕事なんだから」


 ねー、と同意を求められた馬場さんが、赤べこみたいに何度も頷く。

 乱れた襟元を正したところで、カウンターに置かれたままのスマホを見つけた。


「返すの忘れてました」


 というより受け取ってくれなかったのが正しい。忘れ物入れにでも入れておこうか。


「いいじゃん。どうせ明日も来るよ」

「えっ、えー、やっぱり来ますかね? やだなぁ」


 馬場さんが心底嫌そうに言うのが、少し面白かった。


「そりゃ来るよ。加害者がここに来たってわかったんだし」

「そうなると面倒だから、警察に届けた方がいいかもしれませんね」


 確かに、と三人で頷き合う。


「主任に相談しますか」

「だねぇ。場合によったら館長に掛け合ってもらうしかないかも」

「館長って、明日から出張じゃありませんでした?」


 馬場さんが自信なさげに手を挙げる。


「そうだっけ」


 事務所に戻って確認すると、馬場さんの言う通りだった。

 スケジュールを書き込むための職員専用のホワイトボード。一番上の館長の欄には、明日から二日にかけて出張という文字が並んでいる。

 主任は主任で、今日は熱が出た子供を引き取るべく午前中に帰っていた。もしかしたら明日も来ないかもしれない。

 今から館長に相談しようと提案したが、藤川さんに却下された。想定の範囲内を過ぎない事柄について、直談判することは難しい。

 三人でうんうん頭を悩ませても、よい解決方法は見つからなかった。仕方ないので、一先ずは明日の朝礼会議で皆に相談しようと決める。その日は特に何もせず解散した。


 翌日、予想通り例の女性は現れた。

 朝礼では館長の判断を仰ぐまで保留することに決まり、頼みの主任も休んでいる。本来ならばどう帰ってもらおうかと頭を悩ませるところだ。

 だが女性の姿を見る限り、その悩みは杞憂に終わりそうだった。よかったよかった。

 忘れ物入れからひび割れたスマホを渡すと、彼女はべっとりと血に汚れた手で受け取った。


「殺人の消去許可が欲しいんだけど」

「はい。初犯ですか? でしたらまずは二階カウンターにて、登録手続きをお願い致します」

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犯罪証拠消去許可 島丘 @AmAiKarAi

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