第6話 彼女の訪問

 夜の七時頃、部屋のドアをノックする音が聞こえた後、母が顔を出して言った。

「伊月ちゃん来てるよ」

「え?......え?どういうこと?」

母は困惑しながら首を小さく傾げる。

「私だって分かんないけど......紗耶香、取り敢えず出たら」

取り敢えず、なんて言われても。

私は唐突な訪問に焦って階段を駆け下りた。玄関の姿見で髪を整えて、ドアノブに手を伸ばす。

ドアを開けたら伊月が居る。その事実が信じられないまま、ドアを開けた。


 伊月がそこに居た。


 こんなにも久しぶりに会うのに、今目の前に居る伊月は記憶の中の伊月そのままで、全く久しぶりだとは思えなかった。数時間前に学校で会っていたんじゃないか、とすら思う。

街灯に照らされた伊月は、照れくさそうに「久しぶり」と目を伏せて言う。

「ごめん、いきなり」

私が口を開く前に伊月は言った。


 「でも言わなくちゃいけないことがあって。今日、進藤がここに来たでしょ」

その話か、と心が沈む。付き合っていることの弁解だろうか。どうでもいい。

「私、嘘ついた。普通に人の事好きになれるのに、嘘ついた」

「別に良いよ」

私があまり気にしていないことに驚いたのか、伊月は面を食らったような顔をした後、「でも」と何かを言いたげな表情を浮かべた。

「私、紗耶香が大好きだったよ」


 小さく心臓が跳ねた。

それどういう意味?と聞きたい私がいる。期待させないで、と警戒する私と昔の私が共存していた。

「それは恋愛的な意味じゃなかったけど大好きだったの。本当に大好きだった、私。それだけは分かってほしいの。『好き』が大きくなると恋愛感情に変わるわけじゃないの。ジャンルが違うけど、私は、本当に大好きで......告白された時に『友達として仲良くしたい』って答えるのが振ったと思われるのが本当に嫌だった。あなたが無理だから恋人にはなれない、とかそういう意味じゃないのに、勘違いされたくなかったの。私、もう夏樹と別れたよ。それくらい私達は薄っぺらい関係だったけど、紗耶香は、違う。恋愛感情を抱くことはないけど。」

伊月の涙の溜まった目が、月夜に照らされて輝いていた。

「でも......大好きなんだって......」

震える声で続ける伊月。鼻の先が赤く染められていく。

数秒後、伊月は堪えきれずに泣き出した。


 『悲しくなくても、感動したわけじゃなくても、感極まって泣いちゃう時ない?』

いつか伊月が言っていた言葉を思い出して、少し躊躇いつつも、伊月の細い体を抱き寄せた。

彼女の体は細くて、生暖かった。

「ごめん、私っていつもこう」

伊月は赤ん坊のように泣きながら言った。

「うん、いつもね」

「ごめん、本当に。迷惑なのは、分かってる、のに」

嗚咽を漏らしながら言う伊月。

「迷惑だと思ってたら好きになってないよ」

ぽろり、と心の声がふと出たように言っていた。

伊月はより強く私を抱きしめる。彼女の腕が、優しく『ありがとう』と言っていた。


 私と身長の変わらない伊月の肩から顔を出し、遠くで光る月を見つめる。もう春だけど夜は寒いな、とふと思う。


 彼女はしばらく泣いていた。涙が枯れるまで私の肩で泣いた後、「ありがとう」と伊月は言った。吹っ切れたような、あまりにも晴れやかな笑顔に『こちらこそ』と言ってしまいそうになる。


 数段の階段に二人で座った。

伊月は数年前のように、くだらない話をしてくれた。勉強の話、部活の話、家の話に友達の話。

鼻声で楽しそうに話す伊月が愛おしい。けれど、以前のようにその笑顔を手に入れたい、だとか、笑っている彼女を見て、やるせない気持ちが体を蝕むことは無かった。


 「ねぇ、学校には来たいの?」

私は少し考えた後、「いや、別に。行く必要も無いし、勉強は家でしてるから。ただ、もっと人と話せるようにならなくちゃとは思うよ。伊月とはこうして話せるけど、将来ちゃんと働きたいし」と答えた。

伊月はへぇ、と感心したように声を漏らす。

「すごくちゃんと考えてるじゃん」

「じゃんって何。上からだなぁ」

伊月は小さく笑う。


 「ねぇ、次、いつ会えるかな」

伊月は私を引き止めるようにそう言った。

「いつも何もないよ。友達と会う度そんな事考えてるの?いつでも会えるよ、これからは」

「会う度考えてるわけじゃないけど......紗耶香とは会いたいもん」

上目遣いで私を見つめる伊月。

「ほんとに人誑ひとたらし......」

私が息をゆっくり吐くと、伊月はきょとんとして「何、人誑しって」と言った。

この可愛い顔を独占していたのか、と思うと進藤夏樹が少し羨ましくなる。


 怒涛の一日だった。

私はため息をついて、疲れを夜風に流した。隣に伊月が居る事実が頭では信じられないけれど、彼女の息遣いが耳をくすぐり、目が伊月の横顔をくっきり映していた。


 進藤夏樹、私に伊月と会う機会を与えてくれてありがとう。伊月、来てくれてありがとう。大好きだと言ってくれてありがとう。




 満月が、どこまでも綺麗だった。

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クーリエ 有くつろ @akutsuro

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