第5話 優しくて、良い人

 彼から諏訪紗耶香の名前が出てくるとは思わなかった。

思わなかったし、出されたくもなかった。


 『今日配達しに行った家、諏訪さん家だったよ。伊月は元気かって聞いてきた』


 ずっと無視して生きてきた罪悪感が、再び私の胸をどろりと溶かす。

お前のせいで不登校になったのに、お前の事を心配しているよ。なんて優しい子なんだろう。不登校にしたのはお前だけどね。

胸が痛いほどに、心臓が大きく脈打つ。

鉛のように重たい身体を動かしながらゆっくりと文字を打ち、『私の話、した?』と返す。『したよ』と、彼の返信は短いものだった。


 『何の話をしたの?』

『俺と伊月が、付き合ってるって』


 こいつは、本当に自分の彼女の事を何も分かっていない。

私の誕生日は勿論、付き合ってから何ヶ月後記念だのカップルらしい事は覚えているくせして、いつも彼は表面上の付き合いだ。好きだった時は、こんな人じゃないと思っていたのに。


 『ごめんなさい。紗耶香は大好きだけど、私誰にも恋愛感情を持てなくて』

かつて口にした台詞が頭を過ぎる。

恋愛感情を持てない私が付き合っていると聞いた時、紗耶香は何を考えただろうか。私が人を好きになれる体質になったとでも思っていて欲しいけれど、シンプルに考えてその可能性は無い。私が彼女の告白を断る口実として『恋愛感情が持てない』と言った、紗耶香はそう思っただろう。


 ごめん。紗耶香、ごめん。私全然人の事好きになる。ごめん。全部、嘘。


 紗耶香は私に幻滅しただろう。きっと夏樹にも。

彼は善人だ。自分で考えられる最善を尽くせる素晴らしい人間だ。

だが、彼は人を気遣おうとしていても無意識に人を傷つける。ああ、この人は優しい人なんだ、と思うからこそ無意識の発言が周りを落胆させる。

彼のそんな不器用な優しさが愛おしくて仕方がなかった。けれど、付き合ってその優しさに直に触れてみれば、思っていたよりも表面上の善人だったと気づいてしまう。


 今の私はきっと、もう彼を好きじゃない。

彼の良いところを無理に見つけて、『好き』と心の中で唱えているだけで、以前のように『好き』が無意識に湧き出ない。ああ、好きだな、と恋に酔えない。


 高校生のカップルなんてそんなものだろうと思っていたから、そろそろ別れるつもりでいた。しかしその前に紗耶香に知られてしまった。

もうしばらく見ていない紗耶香の顔が頭に浮かぶ。

違う、違うの紗耶香。

何が違うのかは分からない。でも、何かを弁解しなければならない気がする。


 私は紗耶香が好き。ただ『好き』の種類が違うだけで、大好きなのに。


 そもそも付き合う事に意味はあるのだろうか、とふと思う。私は夏樹に告白されて、なんとなく良い人だからと思い付き合った。それから彼を追う私の目に嘘はなかったし、恋をしていたのは確かだったけれど、それが性欲に繋がることはなかった。手を繋ぎたい、抱きしめたい、キスしたい、なんて一度も思ったことがない。

ならば今までとは何が違ったのだろう。それは『付き合っている』という認識が二人の間にあるかないかだ。果たしてそれに意味はあったのだろうか。


 付き合う意味がない世界に生まれていたら、私と紗耶香はきっと永遠の親友だっただろう。お互いに『好き』の種類も意味も考えず、好きだな、楽しいなと思いながら時間を共に出来たのに。


 今彼女は私のせいで学校に来れない。


 ごめん紗耶香、本当に。

また息が苦しくなりそうだった。無駄な時間であることは分かっていても、どうしても定期的に紗耶香の事を考えてしまう。そして罪悪感に苛まれ、どうしようもないほどに落ち込む。


 馬鹿だ、私は。


 ベッドに寝転がりながらスマホを手に取った。

彼のトーク画面を開いて、『いきなりごめんね』と打つ。

『これから高二になって勉強も忙しくなるし、夏樹を優先できる自信が私にはないの。この関係についてもう一度考え直したい。』

送信しようとした。

これで、良いのだろうか。


 また同じだ。嘘の理由を並べてやんわりと断る。これから卒業までずっと誰とも付き合わないと言い切れるだろうか。俺とは別れたのに、と夏樹が思う事はあり得ないほどに勉強を優先できるのだろうか。


 デジャヴだ。


 文を消してから打ち直す。

『いきなりごめん。付き合ってからしばらく経ったね。二人で過ごした時間はすごく楽しくて、夢みたいだった。でも、最近私は夏樹の事自信を持って好きって言えないの。倦怠期じゃないと思う。お互い、合わないところも少しあったよね。この関係についてもう一度話し合いたい』

本心だった。


 いつも通り、既読がついた後にすぐに返信が送られた。

『思ってたことを話してくれてありがとう。』

『俺はずっと伊月のことが好きだよ。もちろん今も。でも、伊月がそうじゃないなら別れても良い。』

『色々負担かけちゃったかな。ごめんね』


 彼の優しさに後ろ髪を引かれそうになるけれど、確実に私はもう彼に恋をしていない。このままの関係を引きずるのは絶対に嫌だ。

『ううん。いつも優しくしてくれたし、不満は何一つないよ。でも少し合わないところがあったと思うの。人としてはずっと大好きだけど、彼カノの関係は続けられそうにないと思う。本当に、ごめんなさい。』

優しく、それでいてしっかり断る。

恋愛対象外になってしまっただけで、夏樹が嫌いな訳では無いと伝わっただろうか。


 『謝らないで。大丈夫だよ』

『分かった。じゃあ別れよう。今までありがとね』

ごめん、夏樹。そして、ありがとう。


 彼は本当に良い人だった。

貧乏な家庭に育ち、小さい頃から知り合いのところで働かせてもらっていたらしい。

今は宅配業をやっているけれど、それまでにも沢山のバイトをしてきたんだ、と話す彼の笑顔をふと思い出す。今日だって学校を休んで働いていたんだ。

ただ稀に出る発言がこちらを苛立たせるだけだった。少し価値観がズレていたんだ。

彼は本当に良い人だった。


 あと、やらなければいけない事が、一つだけある。

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