第5話 初恋

夕陽。夕陽が……もう亡くなっている……?

事実を理解できないまま、僕は雨の降る道を歩き続ける。

気付けば、いつもの路地へと辿り着いていた。

そこには、雨の中傘も差さずに佇んでいる夕陽の姿があった。

「一希…くん」

服も髪も、全く濡れていない。いや、その前からちょっと不自然なことがあった。

僕と同じ高校に通っているはずなのに、着ている制服は全く見覚えがなくて。

記憶を失っているというには、それに対する焦りみたいなものが見えなかった。

「……そっか。気づいちゃったんだね」

「……ああ。そうだよ」

否定はしない。きっと、夕陽だって察していたんだろう。いや、もしかしたら、自分がもう幽霊だということを知られたくなくて、必死に隠そうとしていて。

彼女の諦観のような表情からは、そんなものが読み取れた。


「……私、本当にずるいよね。一希くんとは、生きる世界も何もかも違うのに。私、本当は何もかも覚えてたの。いや、思い出しちゃったの。一希くんがここに来てから」

感情が何も感じられない、機械のような声で、夕陽は僕の方に語りかける。

「これまで、誰も来てなかったのか?」

「この近くに住んでる人、霊感がないみたいでさ。…ね、一希くん。一つだけ教えてくれないかな?今って、何年?」

「2023年。令和、5年だよ」

「令和かぁ。初めて聞いたなぁ。私が亡くなったのはね。平成10年の話。それより前のこと、覚えてないから」

「僕の生まれる前だね。僕が生まれたのは、平成21年の話だから」

「そんなに歳、離れちゃってたかぁ。でも、そうだよね。もう何年ここにいるのか、私にはわかんなくなっちゃってたもん」


その日はいつものように、通学路を歩いていた。

友達と、今日受ける授業の話。放課後に遊びに行く場所の話。その日のアルバイトの話。

何でもない話を…もう中身は覚えていないけれど、とにかくそんな感じの話をした気がする。

ただ、交差点を渡ろうとした瞬間に、それは来た。

その時の光景は、鮮明に思い出せる程にはっきりと焼き付いている。


「危ない!」という声と一緒に、周囲からものすごいざわめき。

そして、私の身体は宙に舞って、交差点の真ん中に、叩きつけられた。

それが「車に轢かれた」ということを理解した瞬間には、もう何もかもが手遅れだった。

視界の先にあった夥しいほどの赤黒い液体が、自分の身体から出ていたことが、信じられなかった。

手も足も折れ曲がってるのか、動かそうとしても動かないし、視界もほとんど霞んでて、交差点の灰色と、自分の身体から出た大量の血しか、前には映らなかった。


気付けば、私はあの路地裏にいた。

こんな歳で交通事故なんか遭ったんだ。未練なんていっぱいあったに決まってる。

まだやりたいことがいっぱいあったに決まってる。

でも、それらはどんどん、私の心から消えていって。

それでも、長い間、気の狂う程の長い間、よりにもよって帰るべき家の近くに、私は縛り付けられた。


そんな時、私に気づいた一希くんの姿があった。

けど、幽霊だなんて言ったら、驚いちゃうだろうし、きっと私を見る目は変わる。

だから、私はそれを隠して、一希くんと会話をすることにした。

それにどことなく一希くんからは、見覚えのあるような雰囲気がしたから。


「……そうか」

きっとまだ僕と同じ歳だったろうに、未練を残したまま同じ場所にずっと縛り付けられるだけの存在になるなんて、僕には想像も出来ないようなことだ。

それに、交通事故なんて日本のどこにでも起きているから、きっと他人事でもないだろう。

「…やっぱり、一希くん。私が幽霊だったなんて知ったら、私のこと」

「そんなわけない」

思わず、僕の口から出たのは否定の言葉。彼女のそれを、遮るようにしてそれは出た。


「僕には…友達がいなかったんだ。僕はずっと独りだった。そんな僕を見つけてくれたのは君だけだったんだ。

毎日君と話すのが楽しみだったんだ。だから…そんなこと言わないでくれ。

そんなこと言われたら……君と話すのをこんなに楽しみにしてた僕は…どうなるんだよ……!」

頬を何か液体が伝う。それが雨水なのか涙なのか、僕にはわからなかった。

「……一希、くん……」

今日初めて、夕陽が笑ったような気がした。

僕はそれが、たまらなく嬉しかった。


「そんなこと言われちゃったら、私……」

「おい…夕陽!」

夕陽の身体から、近くのアスファルトが透けて見えた。

「もう……」

「何でだよ!これからもっと、僕は君のこと、知りたいんだ!こんな、こんな形でお別れなんて、そんな……!」

「ごめんね。こんな風に付き合わせちゃって。でも私、一希くんみたいな人と、もっと早く、出会いたかった…な…」

「僕だってそうだ!もっと早く夕陽に出会ってれば…こんな……」


その瞬間、僕は自覚したことがある。

僕はずっと寂しかったんだ。

独りでいる方がいいなんて思いこむことにして、その感情に蓋をしていたんだ。

そして、そんなことを思った、その瞬間には、もう。

路地には夕陽の姿はなくて。ああ、きっともう、彼女は消えてしまったんだと。


雨水だか涙だかわからないものが、ずっと頬を伝い続けている。

僕は一体、彼女に何をしてやれたのだろう。

気付けば、彼女は満足してどこかに行ってしまった。

いや、これでよかったんだ。だとしたら、僕は……。

そもそも、何でここまで僕は彼女と話すことに、執着していたのだろうか。


その後のことは、よく覚えていない。

話によれば、ずっと道で立ち尽くしていた僕のことを、近所の人が発見して、わざわざ家まで連れてもらっていたらしい。

何を馬鹿なことをしたんだと笑われたけれど、僕にはもうそんなこと、どうでもよくなっていた。

そして少し落ち着いたその時、僕は気づいてしまったんだ。

僕は夕陽という女の子に、恋愛感情のようなものを抱いてしまっていたんだと。


まさか初めて恋をした相手が幽霊だったなんて、そんなバカバカしいことは、きっと僕の胸にずっとしまわれることだろう。

けれど、僕はこの苦い初恋の経験を、ずっと忘れることはない。

誰かが言っていた。人が真に死んでしまうのは、人から忘れ去られてしまった時だったんだと。

だとすれば、僕が夕陽のことを忘れなければ、夕陽はきっと、ずっと『生きている』のこと同じことなのかも、しれない。


僕の心の中には、あの雨の日のじめじめとした空気とは全然違う、爽やかな風が吹いていた。

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孤独な狼に陽は咲う 八十浦カイリ @kairi_yasoura

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