幼馴染からの告白を保留している女が幼馴染に対して「どうして幼馴染は負けヒロインになりがちなのか」を熱弁する百合

4kaえんぴつ

第1話




「一周まわって、幼馴染キャラもそこまで悪くないと感じるんだ」


 日も暮れて薄暗い私室、ノートパソコンと見詰め合ってそんなことを言う女子高校生が居た。名を赤尾あかおこう。画面の中で頬を赤らめている、恋愛シミュレーションゲームの幼馴染キャラからの告白に対して、数分間唸った末の独白めいた言葉がそれだった。


 高校の制服を着替えることもなく部屋にお邪魔し、ベッドの上で漫画を読んでいた赤毛の少女――水瀬みなせしずくは立ち上がって部屋の照明を点け、紅に胡乱な眼差しを投げて返した。


「急にどうしたの?」

「いやね、思ったんだよ。昨今のオタク向けコンテンツだと幼馴染キャラが一番人気になるケースって少ないじゃんか。ギャルゲー、ラノベ、漫画、アニメ――媒体を問わずにね。一昔前まではメインヒロインと言えば幼馴染が鉄板だったように思えるんだけど、不思議なことに、今では負けヒロインの代名詞にまで成り下がっている」


 饒舌に語りだす紅に「……ふむ」と雫は相槌を打って「続けて?」と繋げた。


「でもさ、ちゃんと向き合ってみると存外に悪くないんだよ。やっぱり主人公を理解して寄り添ってくれるキャラには相応の良さがあると思うんだ」


 熱弁する紅を冷めた目で眺めつつ、雫は漫画を紅の書架に戻す。


「そこで私は考えた。なぜ幼馴染は負けヒロインになりがちなのか。そして解を得た」

「一応、聞こうかな」

「最初から惚れてるのがいけないんだよ。そのまま勝つと話にならないからね」


 回転椅子にあぐらをかいて振り返る紅を、「……はぁ」と雫は半眼で静かに睨み付ける。そんな視線を受け止めつつ、紅は「後は『最初から惚れている』時点でヒロインレースに強制出馬なのも駄目だね。別ルートだと出馬しないヒロインは『負け』扱いされないし」と続ける。


「つまり、最初から惚れてる時点で負けやすい体質だとは思うんだけども、幼馴染キャラの打率自体はそこまで悪くないんじゃないかって思う訳さ」


 そこで主張を区切った紅は、テーブルの端に置かれた緑茶入りタンブラーを呷って一息を吐く。タンブラーが持ち上げられてから再び机に尻を着くまでの光景を黙して眺めていた雫は、半眼で虚空を眺めて不満を整理した後、切り出す。


「高説は立派なんだけども、紅。――それをさ」

「うん」

「自分が告白を保留している幼馴染の前で、よく言えるね?」




 水瀬雫が小学校からの幼馴染である赤尾紅に想いを告白したのは、中学三年生の話だ。卒業式を間近に控えたある日、赤尾紅が『どちらかというと同性愛者な気がする』と性的指向の自認を呟いたから、溜め込んだ感情を真っ直ぐに言葉にして伝えた。


 結果は玉砕。『雫をそういう風に見たことがない』という紅の一言で終わった。


 だが、それでも雫は諦めきれなかったのだろう。これから特に誰かと交際したりする予定が無いのであれば、意中の相手が出来るまででも返答を保留してほしいと依願してきたのだ。紅は速やかに未練を断ち切ってやる為にも承諾は渋ったが、恋愛感情はなくとも深い友愛を持っている雫からの懇願を無下にはできず、頷いて――それから二年が経過している。


 高校二年生になって、紅の身長は伸びた。背丈は平均よりも少々高めで、顔立ちは美形に分類されるだろうと自覚している。だがそれは、あくまでも平均と比較しての話だ。


 対する雫は平均的な身長ながらも身体に女性特有の起伏があり、容姿も目を引くほど美しい。美人と呼ぶよりも可愛いと表現する方が的確な愛嬌を持っており、地毛の赤毛は艶やかに映え、様々な点で人の目を奪う女だった。彼女が男子生徒から言い寄られている姿を何度も見てきた。女子からも可愛がられている節のある彼女が、どうして自分なんぞを、とも紅は思う。


 彼女から向けられる恋愛感情の理由は分からないが、どちらにしても、紅にとって彼女は大切な幼馴染であり、それ以外にはならない。


 同性に対する性的欲求の類はあるが、それが雫に向くことはないのだ。


 ――さて。紅は雫から向けられた不満の一言に、肩を竦めて返す。


「ギャルゲーやってて、ふと思っただけなんだ。他意は無いよ」

「それじゃ余計に悪いでしょ」

「そう言われたって。恋人ができるまで保留してくれって、頼んできたのは雫だろ」


 紅が前髪を掻き上げながらくたびれた調子で呟くと、雫は怯んだ様子で口を噤む。


 それから、少々退屈そうな、うんざりしたような紅の顔に怯えの色を見せると、腰の前で手を組んで俯いた。眉尻を下げて弱々しく唇を噛んでいる。


「そうだけどさ」


 ポツリと雫が呟くから、紅はその表情を盗み見る。無理を言っている側の罪悪感を抱きつつ、それでもやるせない感情を持ってしまった者の顔だった。紅は露骨に溜息をこぼす。彼女の頼み事を聞き入れている立場だったが、それでも承諾したからには配慮するべきだったか。


「……分かった分かった。悪かったよ、配慮が足りなかった。もうしない」


 紅が折れてそう謝罪をすると、雫は申し訳なさそうに瞳を伏せるばかりだった。


 紅は気取られない小さな嘆息をこぼし、困り顔をノートパソコンに向けて隠す。雫のことは幼馴染として、そして友人として確かに愛情を抱いているが、どうにも色恋沙汰に発展させたいとは考えられない。つい先刻まで和気藹々と談笑をしていたというのに、自分の話題がきっかけであったとしても、こんなにも空気が沈んでしまうのだから。


 恋愛とは何なのか。友人では駄目なのか。


 噤んだ口の中で呟きながら、頭に入ってこないゲームのテキストをクリックで押し流す。


 その時、雫が視線を足元に落としながら重い口を開く。


「あのさ、その――まだ、気持ちは変わらないかな」


 具体的に何の話かは聞くまでもないだろう。紅も確かめない。


 紅は静かに肺の中の空気を吐き出すと、ゲームをセーブして終了する。ギャルゲーのCGを壁紙にしたデスクトップを一瞥した後、クルリと椅子を捻って雫に向き直る。少し重たくなっていた空気を弛緩させるように、努めて軽い口調を心掛けた。


「君こそ、まだ私なんかに惚れてるのかね。物好きだなあ」


 軽薄に笑って肩を竦めてやると、雫はムッと唇を尖らせて己の膝を叩く。


「ほ、本気だよ。茶化さないでよ」


 そう訴える雫の様子は子供っぽく可愛らしく、そういう様に庇護欲の類を感じることはある。だが、例えば手を繋いだりだとか唇を交わしたりだとかは――身近な存在故に、想像することも難しい。ある種、妹や姉のような存在でもあるのだ。


 紅は苦笑をして言葉を探した後、彼女を傷付けないように返答する。


「それなら私も本気で応えるけど……返事は昔と変わらないよ。私にとって雫は大切な幼馴染で友達でもあるけど、性愛の対象としては認識できないな」


 ゆっくりと腰を浮かせてそう言い切る紅を、雫は揺れる眼差しで見た。


「確証は無いけど、私はたぶん女の子が好きだよ。情欲はあるからさ。でも女性が好きだとしても、君だけは特別。家族のように愛してはいるけど、女性として愛することはできない。泣いてる君を抱きしめることはできても、ベッドの上で抱くことはできないわけ」


 ――「そもそも、愛なんてよく分からない」


 そうはっきりと伝えると、雫は分かりやすく肩を落とした。


 彼女がこの話題を出す度に、言葉を変えて何度も断り続けてきた。大切な宝石に少しずつ傷を刻み付けているようでいい気分はしなかったが、宝石がそれを望む以上は仕方がない。落ち込む彼女の姿を細めた瞳で眺めた後、開け放たれていたカーテンを閉める。


 その背中に、落ち込んだ雫の声が掛かる。


「私は……ずっと、好きだからね」


 その言葉に対する返事を、紅は持ち合わせていなかった。







「先輩、なにかあったんですか? 柄にもなく悩ましそうな顔をしちゃって」


 紅がゲーム愛好会の部室でスマートフォンを弄っていると、長机を挟んだ向かい側の後輩、八神やがみ祈里いのりがこちらを見た。茶髪の女子生徒だ。小柄で愛想が良く、小動物的な可愛らしさが男子生徒に人気。スカート丈は笑えるほどに短い。紅と同様にゲーム愛好会の所属で、部員は紅と彼女の二人だけ。部長は一年生の彼女だ。元々は彼女が設立した愛好会だったが、ひょんなことで知り合った縁から恋愛シミュレーションゲームの存在を教えてもらい、挙句にこうして愛好会に誘われる運びとなった。そんな関係だ。


 「柄にもなくとは失礼な」と紅は肩を竦めつつ、スマートフォンを背面向きで置く。


「……で、お悩み相談でもしてくれるのかね?」

「任せてくださいよぅ。何人の女を口説いてきたと思ってるんですか。ゲームの中で」

「なるほどそれなら適任だ。さて、どこから話すか――」


 紅は、自分が知る全人類の中でも比較的言語化の上手い後輩を頼るべく、昨日の私室で行われた雫との会話の一部始終を抜粋し、彼女との関係を明かす。水瀬雫という名前は伏せつつも、幼馴染から想いを伝えられて二年弱保留にし続けており、それでも諦めてもらえないこと、そして諦めることを強要したいとも思えないこと。五月雨のように散発的に語った。


 実に一分にも及ぶ説明を静聴し終えた八神は、「ふむ」と顎に手を添える。


「つまり、先輩の中では友人に過ぎないような幼馴染から恋愛関係を望まれていると」


 首肯を一回。


「そして一度は断ったものの、新しい恋人ができるまででいいから、と保留を懇願された」


 首肯を二回。


「先輩からしても大切な人であることは間違いないから、無下にはできなくて引き受けた。で――やっぱり断るべきじゃないかと思い直し始めたと」


 首肯を三回。両手で輪を作ってダブルオーケーサインを繰り出した。よくもまあ、あれだけ散らかった説明を上手に整理したものだ。そんな賞賛の感情を知らず、八神は「なるほどねえ」と愉快そうな、困ったような表情で腕を組んでこちらを見る。


「でも、二年弱もそのままだったんですよね。なんで今更、関係を解消しようと?」

「二年弱もそのままだったから、だよ。いつまでも未来の無い希望を抱かせたくはない」

「なるほど。まあ、確かに。先輩にその気が無いのであれば無駄な時間ですね」


 八神は腕を組んでうんうんと唸って考え込んだ後、駄目で元々といった顔で言ってくる。


「――それならいっそ、付き合ってみればいいじゃないですか。先輩は女性愛みたいですし、恋愛感情はなくとも、その人を嫌いって訳ではないんでしょう?」

「私は女をエロい目で見ることはあっても、好きだって感情を抱いたことはない。理解もできないんだよ。そのまま交際しても、相手を傷付けるだけだと思う」


 「難儀だなあ」と呆れた顔で言った八神は、「交際なんて抜身の刃で愛撫し合うような関係ですよ。傷付かない交際なんて見たことが無い」と吐き捨てるが、話半分の紅を見て肩を竦める。


「まあ、先輩に交際の意思がないことは分かりましたよ。意思の固さも受け取りました」

「何とかならんかね。恋愛マスター」

「何とでもなりますよ、任せてくださいな」


 八神はそう言って己の額を親指でコツコツ叩く。一休さんのルーティンワークのようなものだろうか。じっくり三十秒ほど静寂の中で黙考して、結論を出す。


「最終目標が現状の関係を壊すこと――つまり保留を解消することであれば、私から先輩にできる提案は二つですね」


 そう言って八神は指を一つ立てる。


「一つ目。この際、ハッキリと迷惑だと伝えて諦めさせてしまいましょう。婉曲な伝え方をしたところで結局のところ拒絶の意思は届いてしまいますし、『気を遣わせた』と却って気に病ませてしまいます。直接的な表現も時には必要かと」


 紅は分かりやすく渋面を作って抵抗の意を示した。


「一度は保留を了承した立場だからさ。ちょっと気が引けるんだよね。それに、迷惑だとまでは言わないよ。ただ少し、困ってる程度だから」

「ま、確かに約束を反故にするのは良くないですしね。じゃあ二つ目の案でいきますか」


 頼っておきながら我儘を言う紅に気を悪くする素振りも見せず、八神は二本目の指を立てた。


「誰かと交際をしてしまいましょう。それで万事解決です」


 不敵にサムズアップする八神を、紅はしばし呆けた顔で見詰めた。


「交際」

「そう、交際。誰かと付き合いましょう。だって『誰か意中の相手ができるまでは保留にしてくれ』って約束だったんでしょう? だったら、その場凌ぎでもいいから、傷付けても構わないような相手と交際してしまいましょうよ。で、頃合いを見計らって別れたらいい」

「おいおい八神ちゃん。そりゃ――」


 ――倫理的にどうなんだ、と言いそうになった口を閉ざして考え込む。確かに、この関係を解消することができる一手ではある。それに雫との約束に則ったやり方であり、それが偽装であるという一点を除けば非常に真っ当な手段だ。何より、その問題点だって雫に露呈さえしなければ事実と変わらない。彼女を不当に傷付けるよりはマシに思える。


「――そりゃ、名案かもしれない。流石は恋愛マスターだよ」

「んふ、褒めてもおすすめ新作ゲームタイトルしか紹介できませんよ」

「よっ、恋愛博士! ギャルゲー大学恋愛学科首席卒業」

「んふふ、後でリストを送っておきましょう」


 八神は満更でもなさそうな調子でスマートフォンをぽちぽちと触り始める。


 傍ら、紅はパイプ椅子の背もたれに肘を置いて天井を仰いだ。偽装交際。ゲームではそこから本当の恋愛へと発展するケースが多いが、実際のところはそこまで浮ついたものでもないのだろう。『そうまでしなければ解決できない問題』を恋愛に抱いている人間が、そう易々と誰かと恋愛関係になりたがるだろうかという疑念すらある。


「……誰に頼んだもんか」


 半ば独り言のように紅は呟く。雫には自身が同性愛者である旨は明かしているため、相手は女性でなければならない。クラスメイトには友人が多いが、誰も彼もが口の軽い人間だ。どんな場所から裏事情が流出するか分かったものではない。


 そうして紅が困っていると、呟きを聞きつけた八神が顔を上げる。


「お困りのご様子ですね? お相手が居ませんか」

「探せばいるだろうけど、決めあぐねているって感じかな」

「でしたら、私がお付き合いしましょうか?」


 面食らった紅が唇を引き結んで黙ると、八神は柔和に笑って胸に手を置いた。


「先輩のことが性的に好きな訳じゃありませんし、かといって人として嫌いでもありませんから。交際を噂されても困りませんし、破局しても傷付きません。このやり方を提案した手前、作戦の完遂に協力する一定の義務はあると思うので」


 あっけらかんと、何も気負わずに言い切って見せる八神を、紅はしばらく唖然と眺めていた。彼女の言葉を聞き終え、紅は机に頬杖を突きながら熟考。悪友とも呼ぶべき友人とそのような関係になる気まずさはある程度あるものの、相手としては上々だ。何かあっても相談をすることが可能で、経緯を最初から説明せずに済む点も魅力的だ。


 結論を下し、紅は微かに笑う。


「悪くないね。頼んでもいいかな」

「もちろん。バイト代は週に一度のスイーツで」

「お安い御用だよ。交渉成立だ」


 週に五百円前後の出費が一か月前後。それで雫が要らぬ心労から解放されるのだとすれば、安いものだろう。軽く相好を崩す紅に、八神は唇を曲げて見透かしたような笑みを見せる。


「じゃあ、これから私の名前は好きに使って構いません。頑張ってくださいね」


 頑張るとは何を。そう尋ね返そうとした矢先、八神は笑って続けた。


「けっこう堪えると思うので」







 八神の言いたかったことを本当の意味で理解したのは、いざ動き出そうとした時だった。


 つまり、『第三者と交際を始めたから保留していた返答の続きを言わせてくれ』と、雫に提案しようとした時だ。大事な話がある、と改まって徒歩十数分の自宅に彼女を招くとき、文字を打つその手が強張った。緊張と呼ぶと仰々しいが、それ以外に適切な表現は思い当たらない。


 そうして部屋を訪れた雫の表情は同様に緊張を宿していたが、その理由は紅とはまるで違う。何かを期待するようなそんな緊張が表情の向こう側に垣間見え、その期待を今から踏み躙ると思うと、舌の根が乾いて仕方がない。それでも望みの無い期待を抱かせ続ける訳にはいかない。


 部屋に招いてから数分、軽い雑談と世間話を交わした後、紅は改まって切り出す。


「本題に入るけど」


 途端、ベッドに座していた雫は表情を強張らせながら「うん」と掠れた相槌を打つ。魚の頸に包丁を差し込むのと同じだ。要らぬ苦痛を徒に感じさせる趣味は無い。紅は、雫が浮かべるだろう悲痛な表情から目を背けたくなりながら目を瞑り、明かした。


「部活の後輩と付き合うことになった。だから、保留していた返事をしたい」


 それを聞いた時の雫の表情は、呆然という言葉で表現するのがこの上なく適切だった。彼女は紅の発した短い言葉すら理解が及ばない様子で瞳を丸くし、口を閉じて考え込んだ。だが、沈黙の中で段々と、フィルターを重ねていくように血の気が引いていき、青褪めた顔に酷い動揺と畏怖が滲む。呼吸が乱れ、抑え込むように唇を噛む。うん、だか、いや、だか。判然としない呟きが口の中で紡がれていた。目を開けてそれを視認した紅は、表情を殺して続ける。


「ごめん。雫とは付き合えない」


 中秋。空調を動かしていない私室は嫌に寒く感じられた。


 薄暗くなりつつあった部屋の中で、雫は顔を真っ白に染めて揺れ泳ぐ眼差しを部屋のあちこちに向ける。何か返事を紡ごうと開かれた口からは不安定な呼吸の音だけが漏れ出た。


「……女の子?」


 遂に零れ落ちた言葉はそんな質問だった。大事なことなのだろうか、と紅は訝しむが、大事なことなのだろうと思い直す。最初から選択肢に入っていなかったのか、含まれていた上で選ばれなかっただけなのか。選ばれなかった人間は特に、それが喉に引っ掛かるだろう。


「女の子だよ。八神祈里。ゲーム愛好会の一年生」


 借りた名前をここで出すと、「そっか」と諦観を含んだ落胆の声が震えながら出てくる。


「分かった。ありがとう、教えてくれて――応えてくれて」


 雫はスカートの裾を摘まみながら俯いてそう呟いた。顔を合わせようとはしないし、薄暗い部屋で俯いた彼女の顔はもはや判然としない。だが、想定していたよりもあっさりと理解して引き下がってくれた。彼女も心のどこかで察していたのだろうか――そう思った矢先。


 俯いた彼女から小さな嗚咽が聞こえてきた。しゃくり上げるようにして肩を震わせながら両手で顔を覆って、不安定な呼吸を小刻みに繰り返す。顔を覆った手の隙間から落ちた涙がチェックのスカートに染みを作った。「ごめんね」という濡れた謝罪が最初に聞こえた。そして、「ありがとう」と、紅がその意味を理解できない感謝の言葉が続く。


 紅は臓器が鋭利な刃物で突かれたかのような、張り裂けるような胸の痛みを覚えた。二年弱も蓄積させてきた淡い期待と自らの無情が今、雫の心を蝕んでいる。傍らで思い出すのは先日に彼女に伝えた『泣いてる君を抱きしめることはできても、ベッドの上で抱くことはできない』という言葉。蓋を開けてみればどうだろうか。抱き締める腕すら持ち合わせていないではないか。どんな顔をして、どのような言葉を掛けながら慰めて抱き締めればいいのか、紅にはそれが分からなかった。


 失恋に涙を流す女を抱き締める心と言葉があるのなら、それこそが愛の正体なのだろう。


 紅は遠巻きに雫を眺めながら、そんな空虚な己の心を俯瞰した。




 翌日、雫は瞳を腫らせて登校してきたらしい。彼女とクラスが違うことにその日ほど感謝した日は無かった。お陰様で顔を合わせずに済んだ。隣のクラスの友人曰く、放課後には泣き疲れた様子ながらも穏やかに受け答えできるようになっていたらしい。同じ口で何があったのかを聞かれたが、紅に返す言葉は無かった。知っていても話すことなどできない。


 更に翌日にもなると、表面上ではあるものの、雫は普段通りに振る舞っていた。


 三日目を迎えると雫の方から紅に声を掛けてくるようになった。少しの寂寥感と気恥ずかしさを孕んだ彼女の顔は、しかし未練など感じさせず、どこか吹っ切れた様子だった。


 昼休みの生徒達が行き交う廊下でばったりと遭遇した彼女は、少々気まずそうに言う。


「この前はごめんね、変なところを見せちゃって」


 まさか雫の方から謝罪が来るとは思っていなかった紅は、思わず押し黙って言葉を探す。彼女が謝るようなことではない。少なくとも、傷付けて謝罪をするべきはこちらの方だろう。紅は「いや」と素直に謝罪を受け取ることはせず、「こっちこそ、二年間も引き伸ばして悪かった」と、口頭だけではあるが謝意を示した。雫はそれに、苦笑を返してきた。


 その応酬を見る限り、彼女はもう本調子に戻った様子だった。そして、それはつまるところ二年前、彼女から告白をされる前の、元通りの幼馴染に戻ったことを意味する。


「おーい、水瀬! こっち来てー!」


 彼女のクラスの教室から、女子生徒が手招きをしてきた。そちらを見た雫は「あ、うん!」と足を浮かせながら応じた後、紅に手を振る。


「また近い内、一緒に遊ぼう。今度は君のお部屋以外で。――彼女さんに悪いからね」


 笑って手を振った雫の背中を、紅は静かに手を振り返して見送った。


 心臓が痛い。罪悪感の棘が巻き付いた心臓を掴むように胸を押さえ、深呼吸を挟む。じゅくじゅくと傷口が化膿したような、痒みを孕んだ鈍痛。肺の半ばに負い目が膜を付け、浅い呼吸を繰り返す。背負っていたものをようやく下ろせたというのに、気分は晴れなかった。


 この感情の名前は知っている。罪悪感だ。彼女を欺いたことへの負い目。


 だが、彼女を想えばこそ必要な嘘であった。紅はそう自分に言い聞かせる。


 教室に向けて歩き出す。ふと見た廊下の窓ガラスに映る自分の顔は険しかった。


「おや、酷い顔をしていらっしゃる」


 そんな風に茶化してきたのは、珍しく二年生の階に昇ってきていた八神だった。


 紙パックの乳酸菌飲料をじゅるじゅるとストローで飲みながら、短いスカートから生足を覗かせて歩いてくる彼女は、紅の顔を見ると他人事のように、愉快そうに手を挙げてきた。


「そんなに」

「ええ。写真でも撮りましょうか?」

「いいよ、物憂げな私の顔に惚れてしまいそうだから」


 ナルシズムを示すと八神は噴き出すように笑い、気管に入った乳酸菌飲料を勢いよく咳き込んで吐き出す。「げほ、ごほ」と喉を押さえながら涙目に繰り返した彼女は、口を手で覆って扇情的に笑った。


「もしかして、後悔してるんですか? 逃がした魚は大きい、って」

「……いや、そうじゃないよ。ただ、つくづく悪いことをしたと実感しているんだ。友人として心から大切に思っているのは嘘じゃないからね」


 これで正しかったはずだ。と自分に繰り返し言い聞かせているが、正しいことをしたとき特有の充足感が訪れる気配が一向に無い。それどころか罪悪感が滲むばかりだ。


 八神はブレザーの両ポケットに手を突っ込み、そんな紅の姿をしばらく観察した。「ふむ」と何やら思わしげな様子で顎に手を添えて黙考した彼女は、「ふーむ?」と何かに勘付いたような声を上げる。更に考え込むこと数秒、「ははーん」と八神は指を鳴らし、その指で紅を指す。


「先輩! 私達まだ付き合ってますよね」


 「ん? ああ、そろそろ――」別れるか、と紅が声を上げた時には既に、八神は妙案を思い浮かんだとばかりに向こうへ駆け出していた。顔には悪戯を企む笑み。


「明日土曜日、十二時に渋谷駅のレリーフ前に来てください。デートしましょう! 断ったら諸々、全部言いふらしますんで。よろしくお願いします!」


 「ちゃんと準備してきてくださいねー!」と、ドップラー効果を錯覚するような速度で走り去りながら言い残した八神に、紅が何かを言い返すような隙など無かった。紅は暫し唖然とした後、周囲の不思議そうな視線を鬱陶しく思いながら、小さく呟いた。


「……何なんだ?」







 虚飾の為に名前を預けてもらった借りを返すのだと考えれば、仕方がないとも割り切れる。


 土曜日。紅はクローゼットの中から比較的フォーマル寄りな衣類を取り出して袖を通す。普段は雑でカジュアルな服を好むが、『ちゃんと準備をしてきてくれ』と言われたからには、借りを返す立場として真っ当に応じなければならない。


 着替えを済ませた紅は、どうにも落ち着かない自分のファッションを部屋の鏡で見る。


 ふと、昔を思い出した。母親に叱責をされて渋々と洒落た服を買った紅は、どうにも自分には似合っていないのではないかと、気分が乗らずに袖を通さないでいた。そんな話を紅の母親から聞きつけた雫が『見せて』と言い出し始めた。何度断っても引き下がらなかったから、紅は彼女に、今着ている服を渋々見せたのだ。感想が――


『わ、凄くいいじゃん! 似合ってるよ、自信もって!』


 嬉しそうな笑顔でそう言った。それが母親に頼まれたが故のお世辞で、演技なのかは今でも分からない。だが、長年幼馴染をやっている立場としては本心なのだろうとも思える。


 改めて鏡を見た。そして雫の言葉を思い出す。


 彼女が似合っていると言ったのなら、それを疑う理由は無いだろう。紅はただ一人の幼馴染のたった一言を信じ、最後に財布とスマートフォンを持って部屋を後にした。




 土曜日の渋谷駅はうんざりするような群衆に覆われていた。人混みを縫って渋谷駅近くのレリーフ広場を訪れると、そこにはやけに人目を引く少女が居た。驚くほど可愛らしいモノクロームな私服で自分を着飾った八神祈里は、スマートフォンを眺めている。何のつもりかは分からないが、しっかりとデートをするつもりで彼女もここに来たようだ。


「八神ちゃん」


 呼びかけると彼女の顔が持ち上がり、双眸が紅を捉えた。そして、その目が見開かれる。


「赤尾先輩。……驚いた、そういう私服なんですね」


 夏から数か月ほど彼女と同じ部活に所属していたが、こうして校外で会うのは初めてだ。八神は初めて見る紅の私服に驚きを隠せない様子で呟いた後、「様になってます」と続ける。紅は「どうも」と薄手のコートを羽織り直す。内側には黒の襟付きシャツを着て、下はデニム調のズボンだ。動きづらいことこの上ないが、歯に衣着せない彼女が賛辞を贈るなら、やはり雫が言う通りに自信を持ってもいいのだろう。


「幼馴染に太鼓判を捺してもらったものでね」


 紅は呟くように応じて、それ以上はお互いの衣装に関して言及をしない。八神はまるで何かを見透かしたように「ふーん」と目を細めて笑うが、それに留めておく。


「それで、どこに行くの? 何のつもりで呼んだわけ?」

「やだなあ、何も企んでなんていませんよ。それどころか何も考えていません。どこに行きましょうか。取り敢えずご飯くらいは食べようと思ってるのですが」


 本当に、何のつもりなのだろうか。紅は白い目で八神を一瞥した後、「まあ、私もお昼は食べてきていないから、適当に済ませたいね」と肩を竦めて返した。


 そうして二人は駅から徒歩で十数分ほど離れた場所まで足を運ぶ。少し疲れてきたな、という頃合いになって見えてきた店は一般的なファミリーレストランだ。如何にデートといえども、高校生の行楽の延長線上で豪奢なランチなど選べる筈もない。


 紅が選んだのはコストパフォーマンスに優れたランチセットで、八神は体型維持が云々と言いながらパスタを注文。同じ口でそのままスイーツを注文した時は二重人格を疑った。


 そうして注文の品が届く。八神の前には美味しそうなたらこスパゲッティ。紅の前にはライスとハンバーグプレートが置かれた。八神は早速と手を合わせて「いただきます」と食事を始める。だが、紅は微かに表情を強張らせたままプレートを睨んでいた。


 プレートの右上にニンジンが置いてあったのだ。黒鉄のプレートに赤々とした彩を添える緑黄色野菜だが、紅はこれが大の苦手だった。何故これが――ランチのメニュー表を改めて見ると、ちょうど吹き出しのポップアップに隠されていて視認しづらい位置にあった。


「先輩、どうかされました?」

「……いや」


 挙動不審な紅を訝しがる八神だったが、紅はこんな些事で文句を言う気にもなれず、好き嫌いを克服する良い機会だと割り切って真っ先にニンジンを口の中に突っ込んだ。舌に触れないように奥歯で咀嚼して、持ってきたドリンクバーの紅茶で流し込む。


 ふと思い出すのは、やはり雫のことだった。中学生時代、今と同じように雫と食事をすることがあったのだが、彼女は八神の表情を見ただけで苦手なものがあることを看破し、『食べてあげようか』などと意地の悪い笑みを見せたものだった。そうして茶化したかと思えば、何かの機会で行楽に行った際、彼女の用意した弁当にニンジンは使われていなかった。しかし――安堵したかと思えば、食べ終わった頃にしたり顔で『すりつぶしたやつがコロッケに入ってたんだ』などとも言った。言われるまで、本当に、まるで気付かなかったのだ。


 言い得ぬ郷愁を感じながらランチを食べ終える。


 その後、食後のスイーツに八神の注文したガトーショコラが届く。彼女は満面の笑みで「ご馳走になります」と食べ始めたから、「はいはい」と苦笑してそれを見守った。当初の約束通り、名前を借りた礼に奢ることになっている。ガトーショコラに、懐かしさから思わず目を細めていると、パクパクとそれを食べる八神が隙間を縫うように雑談を呟いた。


「私、家でもけっこうお菓子とか作るんですけど、ガトーショコラって自分で作っても案外上手く焼けるんですよね。不思議なお菓子です」

「へえ、私も好きだけどそれは初耳だ。だったら自分で焼いた方が安そうだね」

「いやー、どうでしょうね。手間賃を考えるとプラスアルファで時給が発生しますから。それにチョコレート菓子という区分で考えると、単に溶かして固めるだけのお手軽なものに比べて手間が掛かります。実はけっこう面倒くさいんですよ、これ」


 紅は思わず頬杖を突いて聞き入り、「……へえ」と憂いを孕んだ目を窓の外に逃がす。


「赤尾先輩?」


 口にお菓子を詰めた八神が尋ねてくるから、「いや」と何でもない旨を適当な言葉にして返す。


 バレンタインデーは、毎年のように雫からチョコレートが送られてきた。それも、紅がガトーショコラを好んでいるから、律義に彼女が焼いて持ってくるのだ。手間の大小で感謝の大小は変わらないが、当たり前のように食べていたそれらが雫の善意の労力によって作られていたものだということを実感し、堪らず口を噤んだ。


 そうしてガトーショコラを食べ終えた八神は「さて」とフォークを置いた。


「――罪悪感は拭えましたか?」


 唐突な第一声だったが、驚きよりも納得が先に来た。やはりその手の話題だったか。


 紅は瞳を逸らして窓の外にある都心の景観を眺めること数秒、目を瞑る。


「全然。君の言った通りに堪えたよ。彼女の泣き顔が網膜に焼き付いている」


 「あは」と愉快そうに笑った八神は、それからしばらく声を押し殺してクスクスと笑い続ける。何が可笑しいのか、一頻り笑った彼女は紅茶を一口含んで語る。


「まあ、嘘も方便という言葉がございますので。そこまで気に病む必要も無いのでは?」

「……正直、嘘であるかどうかはこの際、どうでもいいんだよね。事実として私の行動が彼女を傷付けたというのが、想像以上に効いている。初めて見る顔だったんだ」


 だが、それでも――保留を続け、例えば三十歳、四十歳まで返答を引き伸ばすようなことがあったとすれば。その時まで雫が尚も紅への愛を貫いていて、その時になって紅に交際相手ができて、雫を切り捨てたとすれば。それは取り返しが付かない誠実さだ。その誠実に意味を見出せなかった紅としては、嘘を吐いてでも彼女を拒むしかなかった。


「難儀ですねえ」


 八神はそう笑った後、不意に口を閉ざして熟考の素振りを見せる。


「……でもね、先輩。私は思う訳ですよ」


 八神は机に両肘を突いて手を組むと、そこに顎を乗せて不敵に紅を見る。


「本当は貴女も愛情を理解できているんじゃないかって」


 紅が少々人相悪く目を細めるも、八神は微かも臆さずに瞳の奥を覗き込む。


「今年の夏。私のクラスメイトが先輩に告白して――私がそれを目の当たりにしたのがこの関係の発端でしたね。茶化しに来た私に、貴女は言いました。『恋愛というのがよく分からない』と。だから私は処方箋として『WHITE ALBUM2』をお貸ししました」

「懐かしいね。君に医者にはならないよう勧めたのもその時期だった」


 しばらく寝込むほどに胸を抉られる名作であった。


 八神はどこ吹く風で肩を竦めると、軽薄に笑って続ける。


「貴女が今まで、それらを理解できずに苦しんでいたことを疑いはしません」


 そう前置きした八神は、「でもね」と笑って続ける。


「先輩。愛を理解できないのなら、どうして貴女が苦しんでいるんですか?」


 どこか浮世離れた高校一年生の双眸が真っ直ぐに紅を射抜いた。


 まるで半端な嘘など通じないぞと脅迫するような、肝の据わった視線だった。紅は数秒、押し黙って彼女と睨み合った末、嘘ではない、自分自身で導きだした本心を語る。


「……彼女を、友達だと思っているから。傷付けた罪悪感だよ」


 それは、嘘ではないはずだ。そう、友人を、幼馴染を傷付けたから落ち込むのは人間として正常な反応のはずだ。そう思い込みながら八神を見ると、彼女は微笑む。


「それが本心であれば大いに結構です。この話はここで終わります」


 責めることも、肯定することもなく、ただ、彼女は鏡としてそこに座り続ける。


 自分を通して自分自身を見つめ直せと主張するようなその佇まいに、紅は目を瞑る。穏やかな喧騒が包み込む休日昼間のファミリーレストランの音を聞きながら、思考に耽った。どれだけ考え込んでも、八神は決して返答を催促することはなく、まるで紅が考え込み始めた時点で自分の役割は達したとばかりに紅茶を啜り始めた。


 昼下がりを往来する群衆を窓の外に見る。差し込んだ陽射しがテーブルを侵食していく。


 紅の頭の中をぐるぐると埋め尽くすのは、自分の大切な幼馴染だった。彼女を女性として愛することができるかは、未だに分からない。それでも友人として、そして家族として大切に思う気持ちは嘘ではない。彼女が困っていれば、いつだって助けたい。


 紅は強く目を瞑って天井を仰いで、顔を下ろして肺の中の空気を全て吐き出す。


 目を開けて、それでも静かに言葉を待つ八神から、照れ隠しに顔を背けた。


「――私、ニンジンが嫌いなんだ」


 八神は驚いたようにぱちぱちと瞬きをした後、微かに唇を緩める。「なるほど、それで」と先ほどの挙動不審に合点がいった様子だった。「子供っぽいだろ」と紅が苦笑すると、「いえいえ、誰にだって多少はありますよ。それで?」と八神が続きを促した。


「……面と向かって伝えたことはないのに、彼女は私の態度でそれに気付いたんだ。私の分の弁当を作るときは、気付かないように小さく砕いたものをひっそりと忍ばせてくれていた。お母さんかよって言いたくなるけどね、惜しまずにそこまでの手間を掛けてくれたんだ」


 そのエピソードが呼び水になるように、固かった口が段々と滑らかに語り始める。


「いつだったか彼女とこうして食事に来た際、デザートでガトーショコラを注文した。好きだと言ったんだ。それから毎年のように、バレンタインは好物のガトーショコラを律義に焼いてくれたよ。意外と焼くのが面倒くさいなんて、今まで考えもしなかった」


 紅は目を瞑り、椅子の背に寄りかかって続ける。


「新しい服に袖を通すと、彼女は必ず『似合ってる』と言ってくれた。少しだけ髪を切った時も、頼んでもいないのに必ず言及して、わざわざ褒めてくれた」


 思い出せば出すほど、今まで自分が当たり前のように受け入れてきた多くの物事に含まれている物を感じ取る。それらが乾いた紅の心に雫を落とす。熱砂に雨が降るように、渇望したものを幼馴染から貰っていたのだ。


「八神ちゃん、さっきの言葉は嘘じゃないよ。本当に、恋愛なんてできない。ただ――」


 紅は一息を挟んで、今一度、自分の心を見詰め直す。


「今更になって」


 そこに嘘や誤解が無いことを確かめたから、事実を噛み締めるように伝えた。




「――愛されていたんだということを、痛感した」




 言葉にすると、途端に水瀬雫が恋しく感じられてきた。彼女に会いたかった。


 八神は茶化すことも共感することもせず、ただ、紅の出した回答に満足したように笑って頷き、それ以上、その答えを否定も肯定もしなかった。紅は苦笑してそれを指摘する。


「口と、やり方が上手いね、君は。今日のこのデートが無ければ気付かなかったよ」

「言ったでしょう、私は恋愛マスターですから。男女の生態を熟知しています」


 艶めかしく己の胸に手を置いた八神は、朗々と語る。


「『灯台下暗し』『岡目八目』『秘事は睫』……古来より人々は近すぎるものを正しく認識できておらず、それらは教訓として言葉に残っています。当たり前のように傍にあるものを有難がるのは難しいでしょう。でも、今日、向けられた感情の意味に気付くことができた」


 八神はテーブルに肘を付けた方の指でクルクルと紅を示して笑う。


「先輩が幼馴染さんの告白を蹴った理由が『好みじゃない』ならそれでいいと思います。『他に好きな人が居る』でも同様に。しかし、『愛することができないかもしれない』というのが理由だったのなら、断るのは時期尚早かもしれませんよ?」


 「どうだか」と肩を竦める紅の表情に決意が見えたから、八神は笑みを深くする。


「金輪際、誰も愛することができないのか、愛に気付いていないだけなのか。真実は分かりませんけれども、確かめる方法は一つしか無いと思います」


 紅は氷の溶け切った紅茶を口に含む。まだ少し冷たかった。


「それが、相手を傷付けるかもしれないとしても?」

「傷付けるなんて上等じゃないですか。私なら、愛した女に穴を開けられたいですけど」


 誰も彼もが八神のように傷に肯定的でないとは理解しつつも、その言葉に少し救われた。


 最後に一つ、それでも尚残り続けた葛藤を押し出すように紅は溜息を吐いた。自分を見つめ直すように瞑目して黙考した後、改まって、儀式的に八神に切り出した。


「八神ちゃん。今日で別れてもらえるかな」


 その婉曲的な意思表明は、しかし下手に言葉を弄するよりはずっと明朗だった。八神は目を細めて唇に弧を描くと、徐に頷いてそれを受け入れた。


「喜んで。楽しい時間をありがとうございました」







 その翌日。紅は強張った手で、雫へと家に来てほしい旨のメッセージを送った。


 間もなく部屋に訪れた彼女の顔には困惑の色が宿っていた。そこには期待など微塵も存在しない。昼の穏やかな陽気が差し込む部屋に踏み入った彼女は、いつものようにベッドに腰を掛けようとして、何かを考えたようにそれを思い留まり、立ったまま紅の応対をしようとした。見かねて、紅はベッドに着座するよう視線で促す。


「何してんのさ。座りなよ」

「あ、いや」


 雫は不安そうな目を紅に向けてきた。


「その……ベッドはやめといたほうがいいかなって。だって、彼女さんが――」


 その件についても改まって説明をするつもりだったが、彼女がここまで律義なのであれば先んじて話すほかはあるまい。紅は後ろ髪を掻いてしばらく逡巡した後、観念して語る。


「昨日別れたよ。だから今は、誰に義理を通す必要も無い。座って」


 そう伝えると雫の双眸が驚きに見開かれ、一瞬、期待に揺れた。だが、先日のことを思い出した彼女は瞳を伏せてそれを押し殺し、唇を噛んだ後、そっとベッドに腰を落とした。


「随分、早いね?」

「それについても諸々、説明をしようと思って呼んだんだ」


 無論、八神との間で交わされた取引と嘘についても明かすつもりだ。


 戸惑う雫を真正面に、紅はしばらく沈黙を貫く。彼女を呼び出す前に言葉を用意してきたつもりだったが、いざとなると何も出てこない。中学三年生のあの日、雫が紅に想いを告白した時のような表情をしているのだろうか。だとすれば、少し、嬉しい話だ。


 紅はぴしゃりと両頬を叩いて気合を入れた後、順を追って説明を始める。


「私は同性愛者だと思う。だけど、性的欲求はあっても恋愛的な欲求を抱いたことがない」


 散発的にその情報を伝えたことはあっても、こうして改めて言葉にしたことはない。雫は知っていた事実ではあっても、少々躊躇いがちに頷いて返す。


「だから恋愛関係になったところで相手の望むことをしてやれる自信がなかった。特に、雫に対しては劣情以上に幼馴染としての親愛の情が勝ったから、万が一に性欲で女と付き合うとしても、君だけは私の中で候補に挙がらなかったんだ。だから――保留し続けるのは酷だと思った。早く君の想いを断ち切ってやるのが優しさだと思ったんだよ」


 それが彼女の望んでいないことであること、そしてそれ故に独善であることは自覚している。改めて伝えることで彼女の傷口を抉ることも理解しているから、揺れる彼女の目に目を合わせるのに苦労した。それでも、紅は腹を括って雫と見詰め合う。


「だから嘘を吐いた。交際は君を諦めさせるための、その子との間で交わした嘘だった」


 雫は眉尻を落として顔を歪めるも、涙を飲み込むように固唾を飲んだ後、おどけたような笑みをこぼす。


「そ、っか。そっか、うん……ごめん。しつこかったよね。でも、理解できたよ。それで目的を達成したから、別れようって話になったんだね」


 否定をして、少しでも彼女の心に絆創膏を貼りたかったが、生憎と事実だ。


「先ずは君に、それを伝えるべきだと思った。嘘を吐いてごめん」


 否定をすることもできず、紅は頭を下げて謝意を示す。だが、雫はふるふると首を左右に振ると、「――ううん、説明してくれてありがとう」と心からの感謝を示した。


 筋金入りのお人好しだ。紅は我が友人ながら心配になる。


「それで、ここからが次の話」


 雫が顔に疑問符を浮かべて眉根を寄せた。「……次?」と呟く彼女に紅は頷く。


 指先が嫌に冷えるような感覚がした。そろそろ暖房を付ける季節だろうか。口の中も乾燥する。じっくりと唾液を飲み込んで口内に水分を補充し、手を開閉して感覚を確かめ、告げる。


「誰かに愛されたいという願望は私の中には無いと思う」


 それは事実だ。誰にも否定できないが、誰かに否定してほしい事実。


「だけど――誰かを愛したい。私の中にもそれがあるんだと思いたい」


 そしてこれも、事実だ。できる事とやりたい事が同義でないのであれば、できないからといってやりたくない訳でもない。赤尾紅は誰かを愛したい。親愛や友愛ではなく、恋愛の意味で。


 そう告げる紅の顔を見た雫は期待を隠せずに瞳を揺らし、しかし、そんな理想を裏切られた痛みを思い出すように瞳を伏せて膝の上で拳を握る。


「それを知るために、私は交際という手段を使いたい。互いへの愛を確かめ合うための関係を、自分の中に愛が存在するか知るためだけに使おうと思う」


 期待が雫の顔に滲み、彼女はそれを振り切るように唇を噛んで首を左右に振る。


 紅は、自分がどれだけ身勝手なことを言おうとしているかを承知の上で、それでもどうか、やり直せるのであれば。そう願いを込めて想いを彼女に吐露した。




「そして、もしも誰かに愛を教わるなら、それは雫が良いと思った」




 雫が徐に顔を上げ、強張った顔に嵌められた綺麗な双眸を、丸く見開く。口が微かに開き、空気が浅く出入りする。瞳が動揺に揺れ、現実を疑うように己の片腕を抱く。熱と震えを確かめて、これが現実だということを実感した後に、顔を歪めて涙を堪えた。


 気付けば、手が汗を握っていた。紅は溜息を吐いて膝にそれを擦り付ける。紅は血の気が引くような、それでいて肌の表面が熱いような不思議な感覚を味わう。高揚とでも言おうか。単に緊張と表現するのが適切なのか。分からなかったが、嫌いじゃなかった。


「今更、虫の良い話だってことは自覚している。断ってくれても構わない。世間一般の尺度で愛してあげられる保証は無いし、傷付けてしまう可能性もある。それでも――」


 口が嫌に乾く。噛んでしまわないか心配になりながら、紅は彼女に告白した。


「――君と交際したい。私に愛を教えてほしい」


 雫は唇を引き結び、涙を堪えるように顔を背けて逃がそうとして、逃がす場所がなくて紅の方へ戻す。堪えようとした涙が落ちた。雫は涙に歪んだ笑みで、弁明をするように声を絞り出す。「ちゃんと諦めたの。嘘じゃないよ」――紅は「知ってる。ごめんね」と応じた。


 雫は静かな嗚咽を上げ、濡れた顔を隠すように俯いて、目尻を手の甲で拭う。


「……私でいいの?」


 もちろん。紅はそう言おうとした口を開きかけで止めた。


 不意に脳裏を過ったのは、数日前に彼女に語った言葉。あれから一度目に見た涙を前に、紅は何をすることもできなかった。掛ける言葉も同情も持ち合わせず、傍観するしかなかった。


 今でも正直、どうすればいいのかは分からない。


 ただ、誠実に応じようと思った瞬間には、椅子から立ち上がっていた。泣いている相手を抱きしめて慰められるものが愛だとすれば、これはその真似事に過ぎないのかもしれない。だが、真似事も上等だろう。なんだって初心者は真似から始めるのだから。


 紅は雫の前に膝を突いて、少々遠回り気味に質問に答えた。


「愛を理解できたならその人を生涯かけて愛すると思うし、理解できなければその人を傷付けることになる。でも、愛すにしても傷つけるにしても、人生で誰か一人を選ぶなら君がいい」


 雫は涙に歪めた顔を持ち上げ、濡れた目で目の前の紅を見た。


「誰でもいい訳じゃないよ。君がいいんだ。それは嘘じゃない」


 雫はポロポロと粒の涙を落とすと、崩れ落ちるようにベッドから降りて、膝立ちする紅に抱き付く。華奢で、繊細で、温かい幼馴染の身体を、紅はしっかりと強く抱き締める。その体温を確かめ、その涙を止めるように。







 紅と雫が交際を始めてから一か月が経過したある日の朝。


 冬も顔を覗かせてきたせいか、昇降口も少し冷える。紅と雫は「冷えるね」「ね」などと他愛のない会話をしながら靴を履き替えて教室へと向かおうとする。だが、昇降口を抜けた辺りで共通の友人である女子生徒がこちらを見付け、囃すように騒ぎ立てた。


「おはよう、ご両人。今朝も一緒に登校? お熱いね」


 交際が学年に広まってから数日間は、毎日のように友人達がこうして茶化してきたものだった。だが、一か月ともなると――紅も雫も白けた表情で友人を眺め「ああ」「うん」とだけ呟き、それから二人の間で雑談を再開して教室へと歩いていこうとする。


「ちょいちょい! なんだよその淡白な反応!」

「いやだって、付き合って一か月にもなるからね。流石に飽きてきたというか」


 紅が呆れた顔で鋭く指摘すると友人の顔が歪み、雫も「いじりってギャグと同じだと思うよ。同じネタを一か月擦るのはちょっと……」とダメ出しをする。


「なんだよ熟年夫婦みたいな空気出しやがって。どうせキスもしてないくせに!」


 そう吐き捨てて逃げていく友人の背中を、紅と雫は黙って見送った。それから顔を見合わせる。紅は心底から呆れた顔だが、雫は何か思うところがあったのか緊張の面持ち。どうかしたかと視線を向けるも雫は気まずそうに顔を背けるから、話したくなるのを待とうと判断し、紅は歩き出そうとする。だが、一歩目を踏み出した紅の制服の袖を、雫が掴んだ。


「そっ…………そういえば、してないね。その、キスとか」


 第一声で上擦って噛んだ雫は段々と顔を赤く染めながら、本人はさり気ないと思っているのだろう調子でそう呟いた。落ち着きなく目を泳がせながら、癖のように前髪を弄る。


「私は別に、無理にはしてほしいとは思わないよ。その、紅の事情とかあるから。でも、したくなったらいつでも付き合うからね。私はっ、心の準備はできてるから」


 あまりにも不自然なアピールに、紅は思わず笑ってしまう。彼女から言われるまで気付かなかったが、こうして仄めかされると欲求も湧くというもの。友人だ姉妹だなんだと、情欲が湧かないように関係にレッテルを貼っていたが、一か月も付き合うと性欲も出てくる。


 紅は追加で悪戯心が湧くのを感じながら雫を振り返った。


「じゃあしようか。今」

「え、あの」


 彼女が何か言い訳を口にする間もなく、紅は肉薄して彼女の顎を摘まみ、持ち上げる。身長差八センチメートル。雫が少し踵を浮かせて、紅が少し腰を折れば唇が触れ合う差だ。登校してきた生徒達が奇異の目で見てくる朝の昇降口前で平然と顔を近づけると、雫の身体が強張る。


 互いの視線が唇に注がれ、意識した雫は唇を巻き込むように噛んで目を逸らし、紅は犬歯を覗かせるように笑う。「いい?」と問うと、瞑目という無言の了承が返ってきた。


 傍目には俗に言うバカップルだろう。事実もそうだ。


 そんなことを思いながら、少し腰を折る。


 そして、一生懸命に踵を浮かせた雫と、唇を重ね合わせた。唾液が交換される。粘膜と粘膜が性行為を行った。このまま舌まで入れてみようかと思ったが、紅の舌が雫の唇に触れた辺りで、酸素の限界を迎えた雫が「ぷは」と口を離して踵を下ろす。


 濡れた唇の端を、紅は舌で舐めとり、雫は丁寧にハンカチで拭いた。雫は耳まで顔を真っ赤に染めて今のキスの味を噛み締めていたが、飄々としている様子の紅を見ると、少し不満そうにした。「ファーストキス?」と尋ねると雫が頷くから「私も」と紅は頬を緩めた。


 注がれる奇異の眼差しから逃げるように雫が教室へ歩き出し、紅は半歩後ろを追う。


「そういえばさ、雫はどうして私なんかに惚れたわけ?」


 ふと、こんな悪戯を仕掛けても愛想を尽かされない理由が気になって、紅はそう尋ねた。告白の際もそうだ。二年弱も保留した挙句に嘘を吐いてまで拒んだ紅からの告白を、雫は受け入れた。よほどの愛が無ければ成し得ない寛容さだろう。


 尋ねられた雫は少しだけ歩調を緩めると、躊躇いがちに己の前髪を摘まんだ。


「……紅が覚えてるかは分からないんだけど、私さ、この髪のせいで小学校時代苛められてたでしょ? 主に男子から」

「あったね。好きな子に悪戯をしちゃうアレだ」

「それはよく分からないけど……」


 ばっさりと切り捨てるように苦笑する雫。憐れ、彼が雫に想いを寄せていたと知っている紅は密かに同情をしながら話の続きに耳を傾ける。


「あの時、けっこう本気で困ってた。でも真っ先に、躊躇いなく庇ってくれる人が居たの」


 確かにあの時、ワーワーと騒がれて半泣きだった雫を見かね、口を挟んだ記憶がある。だが、そこまで鮮明に覚えている訳でもない上、素直に認めるのも気恥ずかしい。


「小学生にそんな立派な奴が居るなんて。そいつは将来有望だね」

「はいはい、照れ隠しね。無駄だよー」


 幼馴染には通じなかった。薄笑いを浮かべた雫が知ったようなことを言うので、口の中で舌打ちをして唇を尖らせた後、紅は肩を竦めて話を切り上げようとした。


「……で、理由はそれだけ?」

「それはあくまで切っ掛けかな。細かい部分だと色々あるけど、聞く?」

「いや、いいかな。むず痒くなってきた」

「ふふ、聞きたくなったらいつでも言ってね。ちゃんと答えるから」


 どうにも褒められるのに慣れない紅は、今際の際にでも聞こうかと心のメモに記す。


「ねえ、紅」


 ふと訪れた沈黙を破ったのは、少々神妙な雫の声だった。


「うん?」


 普段とは少しだけ様子の違う声に彼女の顔を見ると、そこには微かな不安の色が滲んでいる。


「……私じゃ駄目だと思ったら、ちゃんと言ってね」


 交際の目的は愛の意味を知ることだ。雫は紅の傍に居たいという願望を成就するだけだが、紅は恋愛感情を知るための交際をしている。その認識と目的の違いがどのような不和を生むかは分からない。言葉にできない不満が蓄積して、いつしか修復不能なほどに関係を壊す爆発を起こすのではないかと、雫は不安なのだろう。


 それ自体が既に認識のズレだ。紅は後ろ髪を掻いて苦笑すると、雫の手を拾うように握る。握った先から硬直が伝播するように表情へと伝わり、雫が上気した顔を固めた。


「今はもう、君以外の女と過ごす未来が想像できないよ。責任取ってね」


 紅が精一杯の誠実さと真似事の愛情を込めて笑うと、雫の赤い顔が少しずつ、けれども確実にだらしなく緩んでいく。やがて、満面の笑みを浮かべた雫は紅の腕に抱き付いた。肩に頬を擦り付け始めるから、そんな彼女の頭を撫でたくなって――思い留まった紅は、これが恋愛感情なのだろうかと自問をする。そして、自答は『知るか』の一言だった。


 正解は分からない。考えるのも億劫だった。


 今は心地よくて温かいこれを愛情だと定義して、甘受することにした。




 それを後方から眺める人物が一人。


「……何してんの、八神」


 紅と雫のやり取りを観測しながらメモ帳を動かしていた八神祈里に、同級生の女子が度し難いものを見るような目を向け、そう尋ねた。見られていたことに気付いた八神は「ああ、いや」と弁明をするようにメモ帳とペンを持った手をそれぞれハンズアップした後、呟く。


「やっぱり幼馴染も悪くないなあ、と」


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幼馴染からの告白を保留している女が幼馴染に対して「どうして幼馴染は負けヒロインになりがちなのか」を熱弁する百合 4kaえんぴつ @touka_yoru

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