時代は変わる(8)

 結局、その日も省内ではなんの進捗もなかった。普段どおり電文を仕分けし、書類仕事に追われるうちに日が暮れた。帰宅すると、やけに家の中ががらんとしているように感じた。クニたちは昼過ぎには発ったという。

「そう」

 久々に会えたというのに、今朝は慌ただしく別れてしまった。もうひと晩泊まっていったら、と出がけに言えばよかったと今になって思うものの、いやいや、今夜こそ空襲がきたら大変だし、と思い直す。

 鉄兜をかけておく帽子かけに、見慣れない防空頭巾がかけてあった。

「ああ、クニがちゃちゃっと座布団をほどいて作っておりました。お嬢さまにと」

 田崎が言う。縫い目がきれいでさすがだった。二ヶ月前の大空襲でダメにしてしまったので、新しく作らなくてはと考えてはいたのだ。

 クニは夕餉まで作ってくれていた。ふっくらと炊けた、楠公飯とは思えないほどおいしい楠公飯だ。セミの佃煮と一緒にいただきながら、朝の疎開の件について父と語らう。

 クニはああ言ってくれたけど、親戚でもないのに父娘そろって転がり込むのも迷惑をかけやしないか、と。それになまじ疎開をして肩身の狭い思いもしたくない。

「それくらいなら、まだ東京で空襲に怯えている方がいいわ」

「広島か。どんなところだろうね。美しいかな」

 父は配給の金鵄きんしをふかしつつ、のんびりと言う。

「まあ、なるようにしかならないね。この家も空襲で焼かれたら、そのときにまた考えよう」

「そうですね」

 会話はそれで終わった。


 翌日は雲ひとつない晴天だった。昼食どきという中途半端な時間帯に、電信課から緊急の短波放送ショート・ウェーブが届く。海外ではなく国内ニュースだ。弁当のふかし芋をお茶で飲み込んでから、電信を手にとる。

『本日午前八時二十分頃、広島市ニ特殊爆弾ガ投下』

 特殊爆弾。初めて目にする単語だった。通常の爆弾より威力があるのだろうか。

 しばらくして第二信が届く。

『特殊爆弾ニヨリ広島壊滅ノ模様。死者甚大。タダチニ救護応援ヲ求ム』

 第三信、第四信と続くうち周りの職員が集まってくる。みな口々に何ごとかとざわつきだす。

 広島壊滅。死者甚大。

 字の上を目がすべる。壊滅だなんて大げさな。きっと大型の焼夷弾でもばら撒かれたのだろう。それに広島といっても広い。クニの実家の辺りにはめったに空襲もこないと言っていたではないか。大丈夫だ。きっと大丈夫だ。

 そう言い聞かせる。電信用紙を握りしめる手が冷たくなってくる。

 その日は、それから退庁時刻まで何をしていたか、よく憶えていない。ただ、日下部から一同に、政府の発表があるまでは広島壊滅について絶対に他言しないよう命じられたことだけは憶えている。

「この事態は大ごとだ。おそらく今、僕たちが考えている以上に大ごとだ」

 そんな大仰な言い方は普段の日下部だったらしない。異様に緊迫した表情も。日下部は最後に、こうつけ加える。

「きみたちの家族や親戚、知りあいが広島にいないことを切に願う」

 夕刻、帰宅するなり手帳をだしてクニの実家へ電話をかけるが、不通だった。戦時中だし、べつに珍しいことではない。再び自分に言い聞かせる。大丈夫、きっと大丈夫、と。

 翌七日の午後になって大本営が以下の発表をだす。


一、昨八月六日廣島市ハ敵B29少数機ノ攻撃ニヨリ相当ノ被害ヲ生ジタリ

二、敵ハ右攻撃ニ新型爆弾ヲ使用セルモノノ如キモ詳細目下調査中ナリ


 クニの家には電報も打ったけど宛先不明で戻ってきた。毎日電話をかけるものの、毎日つながらない。それでもかけた。手紙もだしたが宛先不明で戻ってきた。

 そうこうしているうちに気づいたら戦争が終わっていた。やはり上旬内には間に合わず、ちょうど八月の中旬に差しかかる頃に。“敗けどころ”もなにもない、めそめそした終わり方だった。

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