時代は変わる(9)
三
ぷぉ~ん、ぶぉんぶぉんぶぉん、ぶぉんぶぉぶぉ~ん。
ジャズバンドがステージで『Take The A Train』を奏ではじめる。下腹に響くようなサクソフォンの重低音に、軽快なピアノの音がまとわりつく。軍服姿の男たちはリズムにあわせて身体をゆらしたり、歌詞を口ずさんだりしている。ホステスの手をとり、おどけたステップを踏む者も。
バーカウンターの袖からその様子を眺めつつ、ちびりちびりと透明のカクテルを呑んでいると、
「This song is very famous in America.」
横にいる軍人から話しかけられる。声をかけるタイミングを見計らっていたのだろうか。先ほどから自分に当てられている視線を感じてはいた。
「Probably by……Duke Ellington?」
そう答える。たしかこの曲は有名な黒人ジャズピアニスト、デューク・エリントンの楽団が数年前に発表したナンバーだ。
「エリントンをご存じですか」
男は興をそそられたような笑みを浮かべる。アメリカ英語にしては品のいい発音だ。
「エリントンの曲では『Solitude』が一番好きです」
“Solitude”の最初の音節にアクセントをつけ、学習院で学んだイギリス英語の発音で答える。もの悲しくて陰鬱な曲調が、自分好みで美しい。直訳すると『独り』という意味。
バンドにも再三リクエストしているのだが、暗い曲でノリが下がるからとのことで、一度も演奏してもらえてない。しかし男はうなずいて、
「いい曲ですよね。私も好きです」
と同意してくれる。男はノームと名乗った。
「暁子です」
名乗り返すと、ドリンクを奢らせてほしいと申しでられる。
「ご迷惑ですか? お連れの方を怒らせるかな」
「いいえ。連れなどおりませんわ」
意識して感じのいい微笑をノームに向ける。バーテンダーに空になったグラスを戻して、「同じものを」とオーダーする。分かっているわね? という意味を込めて目配せすると、心得たようにうなずかれる。
カクテルの中身は実は水である。少しばかり炭酸水を混ぜて、酒らしく見せている。
かつての経験から、男に酒を勧められても不用意に口にしないようにしていた。さすがに下剤を盛られることなど、もうないだろうが、睡眠薬やヒロポンをグラスに仕込まれないとも限らない。
ここ、進駐軍御用達のクラブである「ザ・チェリー・オーチャード」の客筋は、将校以上の高位軍人ばかりだった。だが、みながみな紳士であるとは限らない。酔っぱらって喧嘩をはじめたり、女をトイレットへ連れ込んで狼藉をはたらこうとする輩もいる。
ここで働くようになって四ヶ月弱。今のところ自分の貞操は守られていた。
今夜の暁子の衣装はダークグリーンのロングドレスに真珠のネックレス。電気ごてでウェーブをつけた髪を背中に流している。
「なかなか雰囲気のいいお店ですね。新宿や銀座のクラブみたいに騒がしくない」
ノームがさらに話しかけてくる。
「あの辺りはG.I.の方に人気がありますわね。ここよりもっと気さくでにぎやかな感じでしょう」
暁子の言葉に、「そうですね。でも若い兵士に交じってスウィングをする年齢でもないのでね」彼は穏やかに首をふる。
濃い茶色の髪に緑色の目。目もとに小さなしわがあるので、三十代後半というところだろうか。落ち着いてまじめそうな顔つきだ。彼は暁子の顔に好意的な視線を落としてくる。
「 “
「マダム曰く、チェーホフの戯曲からとったとのことです」
当クラブの名前について暁子は説明する。元になったのはロシアの作家、アントン・チェーホフの代表作『桜の園』だ。貴族社会が崩壊せんとする帝政ロシア末期を時代背景に、ある大地主一家の没落してゆくさまを描いた悲喜劇である。
「それはまた、なかなか穿ったネーミングだ」
ノームはうなずく。これまでたくさんの将校と会話をしてきたが、店の名前に注意を払った人は初めてだ。だからだろうか、もう少し詳しく説明をしてやりたくなった。
「このクラブはもともと、マダムの自宅なのです。マダムはこの国有数の名家の生まれなのですが……」
ご存じのように、敗戦によって上流階級は身ぐるみ剥がされ、莫大な財産税を国に収めなければならなくなった。家屋敷を売却しようにも
このままだと一家そろって飢え死にしてしまう。だが『桜の園』の地主一家の女主人のように、ただ没落していくのを唯々諾々と受け入れるわけにはいかない。そこで思いついたのが、邸を米軍向けのクラブにすることだった。
「こちらのマダムはまだお若いのに、ずいぶんやり手だとうかがっています。それにたいそう美しいとも。もしや……あなたなのですか?」
暁子は笑って「いいえ」と答える。
「でも惜しいわ。マダムはわたくしの友人ですの。あら、噂をすれば当人がきましたわ」
ホール内の空気がゆったりと動き、深紅のベルベットドレスをまとった女性がこちらに近づいてくる。大きく開いた胸もとには、誇示するようにダイヤのネックレスが光っている。
「こんばんは。こちら、初めてのお客さまですわね」
マダムは大輪の花のごとき微笑みをノームに向ける。日々進駐軍のジェネラルを相手にしているだけあり、堂々たる貫禄がある。とても自分と同い年とは思えない。
「わたくし、ここのオーナーの春日井倫子と申します。どうぞ楽しんでいってくださいね」
流ちょうなアメリカ英語で倫子はノームに話しかける。マダムの登場で、壇上のバンドが演奏を切り替える。今大人気の『ビギン・ザ・ビギン』に。倫子のお気に入りの曲だった。
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