時代は変わる(7)

 その晩の食卓はにぎわった。クニが米を持ってきてくれたので、かぼちゃの煮物と卯の花と一緒にいただく。にこにこ笑ってごはんを食べる子どもがなんとも愛らしく、父は「ほれ、もっと」と自分のかぼちゃも食べさせようとする。

 クニの膝にちょこんと座る子どもの足を田崎は掴み、

「この子は大きくなりますな。ほれ、足首が太い」

 犬でも評するように言う。自分が座の中心であるのが分かってか、子どもは「あ~」とまた笑う。

 夕食後はしばらくぶりに風呂を焚き、クニと子どもは暁子の部屋で一緒に休むことになる。布団を敷いて、蚊帳を吊るすと明かりを落とし、蚊が入ってこないようにせいのっ、でなかに入る。子どもを挟んで川の字になる。

 満腹になり、お風呂にも入ったせいか、子どもはたちまち寝入ってしまった。くうくうと規則正しい寝息を立てている。「お休みなさい」と言い交わしてから数分後。

「クニ……もう寝た?」

 子どもを起こさないよう、ひそひそ声でささやくと、「いいえ」と返事がくる。今夜は新月だった。障子越しに月明りすら射し込んでこない。鼻をつままれても分からないほど真っ暗だ。

「ね、クニのご主人さまってどんな方? 教えて」

「……普通の人でございます。ほんとうに普通の、ありふれた」

 闇のなかでクニがはにかむ気配がする。結婚したのは二年前。隣組の防空演習で団長を務めていた人だという。若い頃に病気をして、そのおかげで徴兵を免れたのだとか。

 そう語る声に夫へのいたわりがにじんでいる。

「そう、それがいいわ。病気でも怪我でもなんでも戦地にさえいかなければ、ね」

「あのう……黒田さんも応召されたそうですね……田崎さんが教えてくださいました」

 おずおずとした口吻で問うクニに、「ええ」と答える。

「どちらにいらっしゃるのでしょう。ご無事でしょうか」

「分からないわ。南方だとは聞いたけど、手紙のやりとりなんかもしてないから」

 できるだけ平静な口調で言ってから、“手紙”という単語を口にするのではなかったと悔やむ。

「そうですか」

 互いに沈黙する。子どもの呼吸音だけが蚊帳のなかを充たす。安心しきって眠っている動物の子のような、健やかな息の音。

 もし再びクニと会うことができたなら、「ばか」と言ってやろうと決めていた。よくもまあ、わたしを謀ってくれたわね。信じていたのに裏切って。あんたなんか最低。ばかばかばか、と。

 でも、いざこうしてクニと再会してみたら、ちがう言葉が胸に浮かんでくる。

「お嬢さま」

 クニが意を決したように口を開く。

「わたくし実は……お嬢さまにお詫び申し上げなければならないことがありまして……」

「いいのよ」

 クニの言葉にかぶせて言う。

「いいのよ。いいの。そんなこと言わなくっていいの。それより、またクニに会えて――よかった」

 胸に浮かび上がっていた言葉を声にだして伝える。

「来てくれてありがとう。嬉しいわ。クニにまた会えて嬉しい。クニが元気で、しあわせそうでいてくれて嬉しい。ほんとうに会えてよかった」

 すん、とはなをすする音がする。

「わたくしも、です」震える声が耳にあたる。

「わたくしもずっと……お嬢さまにお会いしとうございました。でも……合わせる顔がありませんでした……申し訳ございません。申し訳もございません」

「うるさいわよ、クニ」

 子ども越しに腕を伸ばし、手探りでクニの手をとる。がさがさしていて荒れた手だった。自分の手もまた。ぎゅう、と握りしめると、遠慮がちに握り返される。ふふ、と笑いあう。真っ暗で見えないけれど、クニの微笑の波動が手指から流れ込んでくる。

 そのまま、手をつないだまま眠った。どうか今夜は空襲警報が鳴りませんように、と祈りながら眠りに落ちた。


 翌日の朝食はクニが作ってくれた。米と野菜くずの雑炊だ。

 そして食事がすんだら意外な提案をされる。広島の方へ疎開してきませんか、と。

「江田島や呉とちがって、市内では警戒警報もあんまり鳴らないんです。広島人はアメリカにたくさん移民をしたから爆弾が落とされないんだ、なんてみんな言ってます」

 クニの実家は地元ではちょっとした豪農で、今は両親と、出征した兄に代わって家を守っている兄嫁、そしてクニ夫婦とで暮らしているという。東京より食糧事情はいいし、空いている部屋もある。

「先代の御前さまには家ぐるみで大変お世話になりましたし、父もきっとお越しくださいと言うはずです。わたくしが説得します」

 そうクニは力説する。昨日、屋敷跡を見てきて東京の惨状を思い知ったそうだ。

「こんな恐ろしいところに旦那さまとお嬢さまを置いてはおけません。どうぞうちへいらしてください」

 あまりに突然の申し出に、父ともども呆気にとられていると、

「よろしいかと存じます」

 真っ先に賛成したのは田崎だった。御前さまとお嬢さまがクニの実家へ身を寄せたら、自分も家族が疎開している田舎へ移ります、と。

「で、でもわたしはお勤めがあるし、お父さまだって議会が」そう言うと、

「もう、よろしいのではないでしょうか」

 へりくだった声で諭される。クニの言うとおり東京は危険地帯です。これ以上ここでがんばって職場や議会に義理立てしたとて、死んではなんになりましょう……と。 いつも腰低くもの静かな田崎の言うことだけに、かえって迫ってくるものがある。

 戦争はもうじき終わる。外務省内の見通しでは、今月の上旬までに終戦へもっていくとのことだった。

 だけどもう八月五日だ。だんまりを決め込んでいるソ連の反応を待ってるうちに、やがて取り返しのつかないことになるのではないか……。正直いうと、そんな不安も頭をよぎりはじめている。

 そろそろ出勤時刻だ。自分はもう出かけるので、話の続きは三人に任せることにする。

「ばたばたしててごめんなさいね、クニ。ちびちゃんも。この次はゆっくり会いましょう。昨日はほんとに楽しかったわ。身体に気をつけて。旦那さまによろしくね」

 時間を気にしながら早口でそう言うと、通勤かばんと水筒、鉄兜を小脇に抱える。

「お気をつけて。いってらっしゃいませ」

 クニの朗らかな声に送られて玄関を飛びだしてゆく。

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