時代は変わる(6)
二
ミーンミーン、ミーンミーンミーン。
今年もまたセミの季節がやってきた。朝からミンミンとやかましい。捕まえて焼いて食べてやろうか。イナゴの佃煮みたいに案外いけるかもしれない。
茶の間ではラジオが朝のニュースを流している。
『本日より戦費調達のため、政府は宝くじ『勝札』の発行を開始。一枚十円、一等は十万円。来月八月十五日まで販売いたします……』
「十万円か。悪くないね。買ってみようか」
うちわをゆっくりと扇ぎつつ父が言う。
「どうでしょう。当たりくじなんて
暁子は身支度を整えると、右肩に通勤かばん、左肩に水筒を交差するようにしてかける。神棚にぱんぱんと手を合わせ、帽子かけに引っかけてある鉄兜をひょいと持つ。
「いってくるわね。田崎」
庭先で打ち水をしている田崎に声をかける。帰りは何時頃かと問われ、
「さあね、遅くなるようだったら電話を入れるわ。ひょっとして、また泊まり込みになるかも」
「お気をつけて。いってらっしゃいませ」
「ええ」
五月の大空襲から二ヶ月が経っていた。まだ東京で暮らしていて、お勤めも続けている。現在住んでいるのはなんと、父の元”別宅さん”の家である。かつて芸者置屋から
もともと旦那さまからいただいたおうちですので、勝手もようくご存じでしょうし、遠慮なくお使いくださいまし……と。
持っておくものは、よくできた妾である。
こぢんまりとした家ではあるが、立派な神棚や、その横に飾られた熊手など、そこここに玄人のにおいが残っている。バラック小屋で寝起きする人も多いなか自分たちは幸運だ。主だった家財や美術品などは、前もって沓掛の別荘へ送っておいて無事だったことも。
ここから霞が関まではバスを使って通っている。がたがたとゆれる窓の外には、銀座の目抜き通りが広がっている。炊きだしに群がる人びと、自転車の無料修理、行列ができている罹災者相談所……花の銀座も変わり果てた。
官庁街も同様に、無残なありさまになっている。あちこちの庁舎が今は容赦なく破壊され、外から丸見えだったり、間に合わせで建てた掘っ立て小屋で業務している課もあった。
「よお、今朝も無事だね。けっこうけっこう」
暁子が秘書官室に入ると、充血した目に無精ひげの日下部がすでにデスクについている。また徹夜でもしたのだろうか。
「昨日もお帰りにならなかったのですか」
持参した水筒のお茶を湯呑みに注いでだすと、日下部はずずっとすする。
「なあに、どうせ自宅に帰っても誰もいないんだ。いっそここのソファに寝っ転がる方が気楽でね」
日下部は妻子を田舎へ疎開させていた。このところ職員たちの士気が、これまでになく高まっている。みなどことなく昂揚し、目がぎらついている。終戦工作が大詰めに差しかかっているからだろう。
目下、ソ連を仲介としての連合軍との和平交渉が、外相主導で行われていた。もはや敗北は避けられない状況となり、陸軍にかつてほどの発言力はない。これ以上戦争を続けていても意味がない。今こそが“敗けどころ”を見つける最後の機会だった。
なんとしてでも今月中に、遅くとも来月の八月上旬までには戦争を終えさせる。そのため、かつて東条内閣打倒計画に賛同していたK公爵を、特使としてモスクワへ派遣しようとしているところだ。
一日でも、いや一分一秒でも早くこの戦争をやめさせること。これ以上空襲でやられる者や、戦地で斃れる者をださないこと。早く白旗を上げれば、それだけ人が死なずにすむ。
その一心で日下部はじめ外務省の職員たちは粉骨砕身で働いている。夏の暑さだけではない熱気と緊張感が省内に漲り、ある種、異様な空気を醸している。
暁子もまた男性職員らに交じり、たびたび泊りがけで勤務するようになっていた。働いていると現実のつらさや苦しさを紛らわすことができた。
しかしながら和平交渉は、なかなか進まない。
ソ連は特使の派遣を「それには及ばず」と撥ねつけてきた。一方で、連合軍からの降伏をうながす宣言に、ここへきて軍部は烈しく反発している。それに対する政治家たちも及び腰で、いたずらに時間ばかりが過ぎていってる。
そうこうするうちに七月が終わり、八月となって数日。思わぬ来客が柳橋の家にやってきたのは、四日の夜のことだった。
「ただいまあ」
暁子が玄関の戸を開けると、
「お帰りなさいませ、お嬢さま」
なつかしい声がした。小さな男の子を抱きかかえた女性に出迎えられる。愛嬌のある丸顔に、ぷっくりとした涙袋。もんぺの上にかっぽう着を重ねている。
「……く、クニっ!」
驚きのあまり声が裏返り、男の子がひくっと肩をゆらす。
「ずいぶんご無沙汰をしておりました」
クニだった。三年半ぶりのクニだった。
「ど……どうしてここが分かったの? クニ、赤ちゃん産んだの? かわいい子ね、抱かせて抱かせて」
両手を伸ばすと、見知らぬ大人に怯えてか、子どもはクニの腕のなかでもがく。ちょうど一歳になったところだという。
「主人のいとこが横浜におりまして。そこの子なのです」
いとこ夫婦に頼まれて、子どもを疎開させるために迎えにきたのだそうだ。
「あいにく夫は徴用中で動けないので、わたくしが代理でやってまいりました」と。
その帰りにお邸へ立ち寄ったら、跡形もなくなっていてびっくり仰天。敷地跡に転居先を記した立て札があったので、こうしてここへたどり着いたとのことだ。
「そうなのよ。すっかり丸焼けになっちゃったのよ」
「大変でございましたね。菊野さんも……」
クニは声を落とす。菊野が亡くなったことも田崎から聞いたそうだ。
「ええ。でも空襲に巻き込まれて死んだんじゃないだけ、よかったと思うわ。思いたい」
暁子の言葉にクニはうなずく。
「お嬢さまと旦那さまがご無事で、なによりでした」
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