時代は変わる(5)
その晩の空襲は山の手一帯を焼き尽くした。
あっちでもこっちでも焼夷弾がぼかぼか落とされ、たちまち四方が火に包まれる。逃げ惑う人たちに押され、突き飛ばされて、父と田崎とひたすら走る。とはいえ、どこへ向かっているのか、どこが安全なのかも分からない。ただ、足をとめたら死ぬとばかりに走った。
火の粉が風に舞って防空頭巾や衣服について、走りながら人が燃えている。空の色は真っ赤だ。炎がごうごうと渦巻いている。父が所蔵している画集で見たゴッホの描いた糸杉を思いだす。昼間よりずっと明るく、現実とは思えない光景が広がっている。気のふれた画家の目に映る世界のよう。
いつの間にか田崎とはぐれ、父と二人になっていた。何かにつまずいて転倒すると、真っ黒に焦げた子どもだった。そこここで人が焼け死んでいる。倒れて死んでる者、座ったまま死んでいる者。炎の玉がすぐ目の前を転がり抜けていって、前方を走っている人にぶつかり、ぼうっと燃える。
と、燃えさかっている鉄筋アパートのすぐ横に、防火水槽があるのを見つける。
「あそこに入ってやりすごそう」
父が言う。水槽は深かった。そして水はやけにぬるぬるしていた。立ったまま胸もとまで水に浸かる。飛んでくる火の粉に頭を焼かれないよう、防空頭巾を外して水に浸してかぶり直す。
水槽のなかから道路を逃げ走る人たちを見る。こっちにやってこようとする人がいたら、必死になって手を振って追い払う。二人だけでいっぱいなんです、ごめんなさい、と。
そんな自分が恥ずかしくも情けない。あれほど着ないと言い張っていたもんぺを着るようになり、人を押しのけてまで助かろうとしている。ほんとうにみっともない。こんなふうにして、人はあさましくなっていくのだなあ……。
そんなことを思いつつ、夜明けがくるのをひたすら待った。水のなかで何度か眠りかけ、そのたび父に起こされて溺れずにすんだ。
一夜にして街全体が舐めるように焼き尽くされた。ビルディングから家屋から何もかもが燃え崩れ、残っているのはがれきばかり。道路のあちこちに消し炭状の死体が転がっている。
明け方。父も自分も身体から水をしたたらせ、ふらふらの態で邸へ戻ると我が家もまた、焼けていた。
敷地をぐるりと囲んでいる塀は崩れ落ち、外からなかが丸見えだった。本館も隠居所も使用人宿舎も全焼している。池があったところには、巨大なスプーンで抉ったかのような大きな穴がぽっかりできている。たぶん爆弾が落ちたのだろう。
庭の林も全滅していた。あの桜の大木をはじめ何十本もの樹々はすべて灰燼に帰している。みごとなくらいにやられてしまった。
本館の内部もすっかり燃え落ちて、壁は崩れ、柱や土台の石が剥きだしになっている。靴を脱ぐ必要もなく、土足のまま廊下を歩く。菊野の部屋だった場所へ向かう。
い草の焦げたにおいがする畳の残骸の上に、熱でぐにゃりと変形したブリキ缶があった。それしかなかった。父の写真も貢の葉書も自分の書いた手紙も、ない。燃え殻らしきものすらも。
ほんとにあれらは、あったのだろうか。幻ではなくて。今となっては確認できない。
貢の葉書をもう一度、読み返したい。どんなことが書いてあったのか、もう一度。せめて一通だけでも持って逃げたらよかった。だけどもう遅い。すべて消えてしまった。もうどこにも。
「まったく……もう」
目の奥が熱くふくらんでくる。
「菊野のばか、ばか……なんなのよ、あんたはっ。いったい何さまのつもりよっ。たかだか女中の分際で。あんたなんかクビよクビ。死んじまってせいせいしたわっ」
濡れた声で菊野を罵る。
「貢も貢よっ。ちゃんと手紙を書いていたのなら、そう言いなさいよ! 言ってくれなきゃ分からないじゃないっ。貢のばかっ、大ばかっ!」
目からも髪からも、もんぺからも水滴が落ちる。
「クニのばかっ。なにが『代わりにお手紙をだしておきます』よ。あんたが一番ひどいわよっ。ばか、ばか、ばかぁ」
会いたかった。自分に何も教えてくれなかった、この三人に会いたかった。直接ばかと言いたかった。まだ熱の残っている畳に額を押しつけてべそべそと泣いていると、ぐるるるる……と腹が鳴った。
こんなに悲しいのに腹を空かせている自分に、涙がすう、と引いていく。
「御前さま、お嬢さま。かぼちゃがよう焼けておりますぞ」
田崎の声がする。菜園の方へ目を向けると、田崎がいた。顔じゅう煤だらけで、だけど無事な姿で。焼けたかぼちゃを頭の上に掲げている。
「そうか。腹ぺこだし、ひとまず食べようか」
飄々とした口ぶりで父が答える。田崎はズダ袋から小刀を取りだし、こんがり焼けたかぼちゃを切り分けてくれる。
今日もいい天気だった。五月晴れの空の下、手づかみで食べるかぼちゃは、ほくほくとして甘い。お腹のなかがじんわり、あたたかくなる。
「今日は勤めはどうするね」
普段と変わらない朝食の席の会話のように、父が言う。
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