時代は変わる(4)

 五月の下旬のある夜。暁子は夕飯をすませると、菊野の部屋で遺品整理の続きをする。押し入れの隅にある古びた茶箱を引っ張りだして、中身を確認する。箱にはかび臭い羽織や襦袢が詰まっていた。

 念のためすべて確認していくと、いちばん下の方にミツワ石鹼の横長のブリキ缶が押し込まれていた。まるで宝ものでも隠すみたいに。

 もしかしたら、へそくりだろうか。好奇心に駆られて蓋をぱこんと開けてみると、思わぬものがあらわれる。

 若い頃の父の写真だった。

 まだ鼻ひげを生やしていなく、びんに白いものも混じっていない青年時代の父を写したポートレイト。庭の池を背景に、カメラのレンズに向かって柔和に笑いかけている。こぼれるような愛嬌がある笑顔。

 写真を見ながら、なにかがすとんと腑に落ちた感じがした。

 菊野は祖父の代から白川家に仕えていた。父より二歳年上だった。きっと若い頃は縁談だってあっただろうに、生涯独り身を貫きとおして我が家に――いや、父に仕えた。洒落者で遊び人で二度の結婚をして、”別宅さん”までいた父に。たぶん、なんの見返りもなく。

 気づかなかった。ずっと菊野を見ていたのに、ぜんぜん気づかなかった。父は気づいていたのだろうか。写真はかなり変色し、セピア色になりかけている。そこに菊野の父への想いの長さを感じた。

 ブリキ缶にはまだ何かが入っていた。輪ゴムでまとめられた葉書の束だ。菊野の、父への恋文だろうか。だとしたら見るべきではない。

 それでもちら、とほんの少し目を落として、そのまま視線が固まってしまう。なぜなら葉書の表に自分の名が書かれてあったから。自分の名前と住所が男文字で。消印は昭和十二年四月十日となっている。

 その葉書を引き抜いて裏返すと、こんな文章が綴られてある。

『拝啓 お変わりないでしょうか。もう学習院の新学期が始まったことかと思います。ご学友の方々と仲良く、楽しく学ばれますよう。お邸の桜は今が見頃かと存じます。ここ竜山はまだ寒く、春がくるのが待たれます。またお便り致します。どうぞお身体にお気をつけください。黒田貢拝』

 心臓が、どくんと鳴る音がした。

 震える手で輪ゴムを外し、葉書を一枚一枚、読む。全部で十六枚あった。最初の消印は昭和十一年の十二月。最後のものは昭和十二年九月だった。差出人はすべて貢で、宛先はすべて自分だった。

 どくん、どくん、どくん……という音がどこからか聞こえてくる。自分のなかからだ。

 昭和十一年から十二年といえば、貢が入営していた期間だ。現役兵として徴兵され、約二年間、朝鮮にいた時期。その間、何度も手紙を書いたけど返事は一通もこなかった。だから貢を恨んだ。嫌いになった。

 どうしてここに貢の葉書があるのだろう。どうして菊野が持っていたのだろう。

 さらに、葉書の束の下からは封筒の束もでてくる。垢抜けたデザインに見覚えがある。四隅を囲うようにして縞模様の線が走り、紙の色はあたたかみのあるアイボリー。かつて伊東屋で買い求めたものだった。

 自分が貢にだしたはずの手紙もすべてここにある。しかも全部開封されている。

 畳に座り込んだまま、茫然とする。いったいどういうことなのだろう。あの当時、手紙はたしかにクニに託し、切手を貼って投函するよう言っておいたのに……。

「ああ」

 喉の奥から呻きが洩れる。そういうことだったのか。

 やっと分かった。やっと、ようやく分かった。自分の手紙も貢の葉書も、堰き止められていたのだった。菊野とクニによって。

 もしや貢はそのことに気づいたのかもしれない。それでクニとの結婚を取りやめたのかもしれない。だとしたら、クニが唐突に邸を去ったのにも道理がいく。

 てっきり破談になったのを苦にしてのことだとばかり思っていたけど、手紙の件がばれて、だったのかもしれない。貢の口からそれを父や自分にばらされるのを恐れて。

 貢は、ちゃんとわたしに手紙を書いてくれていた。約束を守って。だったら、どうしてそれを話してくれなかったのだろう。話してくれないと、なにもわからないのに。

 う~う~う~。

 ずっと上の方からサイレンが鳴りはじめる。続いてカンカンカンカン、と半鐘の音も混じる。また空襲だ。早く避難しなければ。だけど、それらの音はどこか遠くから聞こえてくるような感じがして、立ち上がる気になれない。

 ドーン、と大きな音が炸裂して、窓の外がぱあっと明るくなる。近くに爆弾が落ちたらしい。どたどたどたっと荒々しげな足音が響き、勢いよくドアが開く。

「お嬢さま、ここにいらしたのですかっ。さあ早く!」

 田崎が土足で室内に入ってくる。畳に散らばっている葉書や手紙を拾おうとすると、

「そんなのはどうでもよろしい!」

 怒鳴られて手を引かれる。邸の外へ出ると、ざーっと雨降りのような音がして、上空を見上げたら焼夷弾が降ってくる。うち一つが本館を直撃し、ぼうっと火の手が上がる。


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