時代は変わる(3)

 それからしばらくして菊野は寝ついてしまう。

 子どもの頃から見ているが、菊野が体調を崩すなんて一度もなかった。医師に診てもらうと、胃腸が弱っているという。下痢が続いて食欲が落ちていく。少しでも消化がいいものを食べさせてやりたくて、ひえやあわの入っていないお米のお粥や、かぼちゃを裏ごししたものを作って食べさせる。

 だけど、容態はなかなかよくならなかった。それまでが丈夫だっただけに、一度寝ついたら、がくんとなった。

 微熱が下がらず、どんどん衰弱してゆく。立つのも難儀するほどに。空襲警報が鳴ると、田崎が近くにいないときは父が菊野を背負い、庭につくった防空壕へ運ぶ。

「御前さま、どうぞわたくしなど置いていってください」

 寝間着姿でおぶわれた菊野が、つらそうに訴えると、

「何をバカなことを言うかっ」

 父は心外な、という口調で怒鳴りつける。防空壕のなかで、暁子は菊野に毛布をかけて背中をさする。田崎は入り口近くで外の様子をうかがう。そんなことが何度も続く。

 空襲は日増しに増えてきて、朝となく夜となく警報が鳴るようになる。そのたびに全員が飛び起きて、菊野を守るようにして壕へ駆け込む。病人の身体にはさぞ負担だったろう。弱々しくなっていく菊野を見るのがつらかった。

 ある日曜日の午後のこと。

 父も田崎も不在で、暁子がひとりで菊野の看病をしていた。重湯を食べさせて、水で濡らした手拭いで身体を拭いて、肩を貸してご不浄まで連れていく。

「申し訳ありません。お嬢さま」

 恐縮する菊野はどこか新鮮だ。「いいから早くよくなってね」と返すと、菊野はふ、と笑ったような声を洩らす。

「そういうところは御前さまにそっくりでございますね」

「そうかしら」

「ええ」

 暁子にもたれるようにして一歩一歩、よろついて廊下を歩きながら、菊野は話し続ける。

「お二人とも、一見すましたふうなのに情味があっておやさしい。かたじけのうございます」

「菊野から褒められるなんて珍しいわね。そういえば初めてじゃないかしら」

「かもしれませんね。女の子はあまり褒めない方がよろしいのです。特にお嬢さまのように器量のよろしい方は。うぬぼれ屋さんにならないように」

「そうなの」

「それに、なんとも勝ち気でいらっしゃるので。うぬぼれ屋で勝ち気だなんてお嫁の貰い手がありません」

「ちがいないわね」

 菊野を支えつつ、苦笑する。部屋へ戻ると、白湯で薬を呑ませて菊野を寝かせる。掛け布団をかけてやり、枕の位置を直す。布団の傍らに正座し、老いた女中頭を眺めているうち、

「ごめんなさいね、菊野」

 そんな言葉が自然とこぼれる。菊野は仰臥したまま暁子を見上げる。

  かつて菊野は怖かった。厳しくて、邸内でただひとり自分を甘やかさない大人で、誰よりも長い間、自分を見ていた。もしかしたら自分自身より、自分のことを知っているかもしれない菊野。

「上杉さまの件では、がっかりさせてほんとうに……ごめんなさい」

 そう言うと、

「わたくしに謝ることなどございません」

 突き放しているようにも、すべてを受けとめているようにも聞こえる返事を返してくる。しばらく間を空けて、

「ですが、お嬢さまがお嫁入りをなさらなかったおかげで、最後に思わぬ生活ができました」

 そう重ねる。“最後”という言い方が悲しかった。

「御前さまとお嬢さまと田崎とわたくしの、四人だけの暮らしはなんともふしぎな感じがいたしました。もっと食べものがあれば、もっとおいしいものをお嬢さまのために拵えられましたのに」

「そんなことない。かぼちゃコロッケ、おいしかったわ」

 職場で周りからうらやましがられたのだ、と教えてやる。

「この次は一緒に作りましょうよ。パン粉の代わりに衣に何を使ったのか教えてね」

 と、痩せた腕が布団から伸びてきて暁子の手を捉える。菊野は言う。

「御前さまをどうぞよろしくお頼み申します」

 肉が落ち、棒みたいな手のどこにこんな力があるのだろうか、というほどの強さで握りしめられる。

「御前さまにはお嬢さましかいらっしゃいません」と。

「どうか、御前さまのおそばを離れないであげてくださいませ。御前さまを一人ぼっちにしないでくださいませ。お頼み申します、お嬢さま。菊野の心よりのお頼みでございます」

 お頼み申します、お頼み申します……と繰り返すうち、薬が効いてきたのか菊野は眠ってしまった。その迫力めいた懇願に圧倒された。掴まれている手をそろりと引き抜くと、手首にはくっきりと指の跡がついていた。

 それからさほど日を置かずして、菊野は息を引き取った。警報と警報の合間の静かな時間帯を選ぶように。

 防空壕のなかではなく畳の上で死ねたのはせめてもの慰めだ、と父は言った。


 岡山にある菊野の実家とは連絡がとれなかった。

 すでに親も他界してるであろうし、他に身内がいるのかどうかも分からない。菊野は亡くなる間際、自分の持ちものはすべて焼いてくださいと言い残していた。この家に仕えて貯めた貯金はこの家にお返しします、とも。

「御前さまとお嬢さまの今後の暮らしに、少しでも用立ててくださいませ」

 それが遺言となった。

 簡素な葬儀を終えると遺品を整理する。着物に下着類に化粧道具。さすがに男である田崎に任せるのも憚られ、暁子がすることにする。いざ作業にとりかかると、思っていた以上に手間がかかる。人ひとりが生きている間、こんなにものを持つものなのかとつくづく感じる。

 鏡台やちゃぶ台など、まだ使えそうなものは業者に引き取ってもらう。衣装箪笥の着物は行李に詰め込み、日記帳や出納長などの帳面類は紐で結わえる。故人の非常袋の中にあった通帳と印鑑には、手をつけない。もし親戚の誰かしらの連絡先が見つかったら、その人に送るようにと父から言い含められていた。

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