時代は変わる(2)
現在、この家にいる使用人は田崎と菊野だけだ。東京への空襲が度重なるようになってきたので、田舎から出てきた者は
田崎は家族を妻の実家の方へ疎開させており、菊野の方は独り身だった。
かつて祖父母が暮らしていた離れや、使用人宿舎は閉めた。田崎と菊野には本館の空き部屋をあてがい、今は主従ともに同じ空間で寝起きしている。その方が電気代、ガス代の節約になる。四人分の食事づくりは菊野に任せ、それ以外の家内の仕事は田崎がしている。それでなんとかまわっている。
信州の
だが貴族院議員の父には議会があり、暁子にも勤めがある。結婚を棒に振ってまで選んだ職場だ。いまさら離れるつもりはない。なので、その別荘は疎開先がなくて難渋していた父の知人一家に貸していた。ちなみに父はいつの間にやら、長年世話をしていた”別宅さん”とは切れていた。
明かりを落としたダイニングルームで、雑炊の夕食を父と差し向かいで食べる。数日前、田崎が闇で米を買ってきてくれたので、久々に百パーセントの白米だ。家庭菜園で収穫したサツマイモも入っている。
この食卓で、かつてはクロワッサンを食べていた。ステーキもビーフシチューも、舌平目のムニエルも。それらの味が、自分の舌はもう思いだせない。今はこの、質素な雑炊がこのうえないごちそうに感じられる。
食事が終わると湯に入り、早めに二階の自室へ戻る。職場から持ち帰ってきた書類仕事の続きをする。
四月に組閣された新内閣は、日下部がいうところの“敗けどころ”に向けて動きだしていた。軍部は未だに「本土決戦」「一億玉砕」を主張しているが、新たな首相は外相に終戦の交渉を一任したとのこと。その下で動く日下部ら秘書官たちも、ますます多忙になりそうだ。
ランプを灯してペンを走らせていると、こと……と湯気の立つティーカップが机に置かれる。
「あまり遅くまで根を詰めませんように」
背後で、菊野が盆を手にして立っている。集中していて、部屋に入ってきたのに気づかなかった。
「ありがとう。いただくわ」
お茶は柚子茶だった。てっきり飲み尽くしたものかと思っていたが、まだ残っていた。芳ばしくてかすかに甘く、ほろ苦い。そういえば倫子がふっくらしたお腹でやってきたときも、菊野は柚子茶を淹れてくれた。真雪との結婚を勧めにきたときだ。
すでに一年近く音信が途絶えている。倫子は自分をけっして許さないだろう。土壇場で結婚を取りやめたいと言いだして、大事な従兄弟に恥をかかせ、傷つけた。多くの人に迷惑をかけ、父の顔にも泥を塗った。破談になるのと同時に、久遠寺家から養子を迎える話も当然のごとく流れた。
白川伯爵家の女がまたやった。また男絡みで不祥事をしでかした。
といった陰口が上流界では流れたようだが、世の人びとはもう華族同士の醜聞にかまける余裕も関心もなかった。
暁子がお茶を飲むそばで菊野は黙然としている。この一年で白髪が増え、口もとには刻んだようなしわができた。目つきのきつさは相変わらずだが、目の下が落ち窪み、手の甲には青い筋が浮かんでいる。
この菊野にも大いに落胆させてしまった。もしかしたら自分よりも父よりも、真雪との結婚を喜び、ほっとしていたのは菊野だったかもしれない。女中頭として長年この家に尽くし、跡取り娘である自分の婿が決まらないのに、じれじれしていただろうから。
真雪と婚約したときの菊野の浮かれようといったら、なかった。糸のように細い目をさらに細めて口もとをゆるませ、まるで自分が結婚するかのように頬を紅潮させていた。あんなに嬉しげな菊野を見たのは初めてだった。
すまないことをしたと思う。菊野がこんなに老け込んでしまったのは自分のせいだ。喜ばせておきながら、突き落とす真似をした。
婚約解消の申し出を上杉家は粛々と受け入れた。結納の返品も求めなかった。そのお返しに――というわけでもないけども――真雪から渡されたカメラは今も暁子が持っている。日下部に報告することも、出すところへ出すということもしなかった。
真雪からすれば、外務省への諜報行為が明るみにならずにすみ、暁子からすれば、一方的な婚約破棄への賠償責任を問われないかたちに落ち着いた。痛み分けというわけだが、それは自分たちしか与り知らぬことである。
「ごちそうさま」
お茶を飲み終えてティーカップを盆に載せると、菊野は顔をそむけてこほん、と咳をする。うす暗い照明のせいか、顔が青白い。
「失礼いたしました」詫びる菊野に、
「風邪でもひいたの? 菊野こそもう寝なさいよ」と言う。
「そうさせていただきます」
翌朝。出勤準備をした暁子がダイニングルームへいくと、テーブルにかぼちゃコロッケが盛られた大皿が置かれてあった。ふすま入りの配給パンに挟んで、お弁当に持っていった。
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