第七章 時代は変わる(1)

一 


 昭和二十年、五月。

 う~う~う~。

 警戒警報が鳴っている。つい先ほど飛び込んだ待避壕には人が次々と入ってきて、押しあいへしあい、している。

「もっと奥の方まで詰めてください。足もとに気をつけて」

「充分に場所はあるんで、前の人を押さないで」

 戦闘帽にゲートル姿の男たちが人びとに声をかけ、やがてB29が上空を飛ぶ音が聞こえてくる。ごおぉんごおぉん……ぐおぉんぐおぉん。

 巨人の唸り声にも似た独特の轟音だ。壕のふたが閉じられると、なかは真っ暗になる。みんな膝を曲げてしゃがみ込む。すぐ横にいる人が唾を呑み込む気配がする。誰かが小さな声で「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏を唱えている。

 息づまるような数分間が続いたのち、爆撃機の飛行音が、だんだん遠ざかっていく。警報解除のサイレンが鳴ると、張りつめていた空気がほっと弛緩する。

「やれやれ、助かった」

「敵さん今日は様子見か」

「なあに。明日あたりまた来ますでしょうよ」

 待避壕からぞろぞろと這いだしながら、見知らぬ者同士そんな会話を交わしている。暁子はかぶっていた鉄兜を外すと、もんぺの帯を締め直して地下鉄の駅の方へ歩きだす。

 周囲には殺風景な街並みが広がっている。敷石が剥がされて、あちこちに待避壕が作られ、取り壊された建物や商店も多い。それらの跡地には爆撃機を撃ち落とすための高射砲が据えられている。

 もう子どもの姿はほとんどない。集団疎開をしたからだ。

 今この街に残っているのは、女と赤ん坊と病人。そして召集されるほど若くはない男たちや憲兵くらいだ。去年の冬頃から三日に一度はB29がやってきて、東京に爆弾を落とすようになっていた。最初はほんとうに怖くてたまらなかったが、それも半年近くも続いていると、空襲も日常の一部と化していた。

 今ので時間を食ってしまった。今日は遅刻だ。朝の体操と朝礼には間に合うまい。

「遅れまして申し訳ありません」

 政務秘書官室に到着すると、「おお白川くん、さっきは無事だったかね」カーキ色の国民服姿の日下部から声をかけられる。

「ええ。駅の近くの待避壕になんとか潜り込めました。秘書官もご無事でよかったですわ」

「僕ぁ、そうそうくたばらんよ。ここまできたらね」

 そうですよ、と近くにいる職員が口を挟む。

「ここまで無事できたんだから、今さら意地でも爆撃に当たるわけにゃあいきませんよ」

「そうそう。明日も明後日も無事でいきましょうや」

 このところ「無事で」という文句が職場での挨拶代わりになっていた。三月の大空襲で同僚のうち数名が亡くなり、先月下旬の空襲でもさらに一名が焼死した。みな優秀な事務官だった。

 いつものように電信課から届いた電文の束が、暁子の机に積まれている。

 ビルマでイギリス軍がラングーンを解放、チェコの首都プラハで対ナチ蜂起、デンマークがドイツの支配から独立……。

 ベルリンの陥落により、欧州における大戦の勝敗は決した。日本の同盟国であるドイツもイタリアも降伏し、ヒトラーもムッソリーニも死んだ。この国の政権をほしいままにしていた例の軍人首相も失脚した。とはいえ、日下部らの工作していた計画が実行されたからではない。例のあの計画は途中で参謀本部に情報が洩れ、頓挫してしまったのだ。

 だが結局、東条内閣はサイパン島での大敗北の責任をとり、総辞職することとなった。それは昨年、真雪との婚約を解消してから数ヶ月後のことだった。

 結果的に、何もしなくとも内閣打倒は実現した。日下部ら官僚がさんざ苦労して練りあげた叛乱計画より、サイパンでの兵士四万人の玉砕が東条内閣にとどめを刺したのだった。

 重要な電文を選り分けて日下部のデスクに置くと、彼はざっと目をとおし、

「ヨーロッパ戦線もそろそろ終結だな」

「そうですか」暁子が言うと、

「ああ。あとはこちらの敗けどころをどうするか、だな」

 もう、こんな会話も大っぴらに交わしている。憲兵の不意の来訪に怯えていた一年前には考えられなかったことだ。日本軍の状況がこれ以上ないほどどん詰まりとなった今、あちら軍部の方がたも、わざわざこちら外務省へきて文官をいびる余裕もないのだろう。

 大臣室の扉が開いて、「日下部くん、ちょっときてくれ」

 眼鏡に口ひげの、つい先月就任したばかりの新外務大臣が日下部を呼ぶ。

「は、ただいま」

 日下部が大臣室へ向かうと、暁子は電文の仕分け作業に戻る。兵士の死者数の最新情報も入ってきている。硫黄島二万名、フィリピン五十一万名、ルソン島二十万名、ニューギニア・ビスマルク・ソロモン諸島二十四万六千名……。

 膨大な数字を眺めて黙々と手を動かす。


 さいわいにして、その日の空襲は通勤途中の一度だけだった。帰りの地下鉄も遅れることなく動いた。夕暮れどきに帰宅すると、庭の菜園で父がかぼちゃを採っていた。白シャツに縞ズボンという粋な服装なのに、首に手拭いを巻いているのがなんともおかしい。

「おお、おかえり」

 暁子に気づいた父が、日焼けした顔を上げる。

「ずいぶん大きな実が生りましたわね。お父さま、お百姓さんに向いているのかもしれませんね」

「土いじりも、やってみるとおもしろいもんだね。ほれ、持ってごらん」

 赤ん坊の頭ほどある、大きなかぼちゃを渡される。ずっしりして重く、皮はきれいな深緑だ。

 どこの家庭でもそうしているように、白川邸も広い庭の空いている空間を畑にしていた。かぼちゃの他にほうれんそうやサツマイモも栽培している。敷地内は高い塀で囲まれているので、野菜泥棒に入られる心配もない。

 父には意外と園芸の才能があるようで、素人ながらそれなりのものを実らせている。

「おかえりなさいませ」

 暁子同様にもんぺ姿の菊野が、玄関で出迎える。

「ほら見て。立派でしょう。明日はかぼちゃのコロッケを作ってよ、菊野」

 意識して明るく言うと、菊野は無言でかぼちゃを受けとって厨房の方へゆく。

「御前さま、風呂が焚けましたので、どうぞ」

 続いて国民服姿の田崎があらわれ、父の脱いだゴム長靴についた土を、手で丁寧に払い落とす。

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