油断のならない男たち(17)

 カシャッ、と小さなシャッター音がする。手もとがぶれたのか、真雪はもう一度撮り直す。それは握りこぶしよりも小さなカメラだった。これならポケットに忍ばせていても分からないだろう。真雪は顔を上げてこちらを見、カメラを卓上にことりと置く。

「お早いお戻りですね」

「……今夜はお酒を口にしなかったので。呑むふりをしておりました」

 右手を掲げて彼にブラウスの袖口を示す。肘近くまでぐっしょりと濡れている。グラスに口だけつけて、呑んでいるように見せかけて、袖の内側へ酒を流していたのだ。また腹を下さないように。

「なるほど」

 真雪は感心したふうにうなずく。

「あなたは外務省などよりも中野学校の方が向いてるようだ。推薦したいくらいですよ」

 その言葉を無視して問う。

「何をなさっていたのですか」

「ご覧のとおりです」

 落ち着き払った口調で、真雪は答える。そのかばんには日下部に提出する報告書や、作成中の議事録などが入っていた。現内閣を打倒するための極秘計画に関するものばかりだ。絶対に外部に、とりわけ軍関係者の目にふれさせてはならないもの。

 だから常に持ち歩いているかばんの中に入れていた。職場の机に仕舞っておくより、よほど安全だから。

「わたくしのグラスに何か細工をなさいまして?」

「なあに。毒なんかじゃない。少々強めの下剤です。ですが、たしかに失礼しました」

 真雪は正直に酒に一服盛っていたことを認める。前々回と前回、暁子のグラスに酒を注ぐ際、ひそかに粉末状の下剤をふりかけたのだと。

 首相を失脚させる計画が水面下で進んでいるらしいとは、参謀本部の方でも察知していた。外務省の日下部秘書官らが工作活動に従事していることも。計画の賛同者を早急に炙りだし、未然に潰す。それが自分の任務である……と。

「だが少々性急に動いてしまったようですね。こんなに早くあなたに気づかれてしまうとは。私もまだ甘い」

 感情をのせない声音でそう語る。

 考えてみたら、真雪の求婚はたしかに急だった。暁子が外務省の政務秘書官室で働いていると知るや、日を置かずして結婚を申し込んだ。暁子の直属の上司が日下部だと判ると、足繁く訪問してくるようになった。おそらく自分をとおして計画の端緒を掴もうとしてたのだろう。あのたくさんの手土産は軍部持ちだったのかもしれない。

 そして結婚してからも、妻経由で外務省の情報を手に入れようと考えていたのだろうか。それで、結婚後も勤めを辞めたくないという自分の意思を尊重してくれたのだとしたら――。

 くらりと目まいがしそうになった。膝に力を入れて踏ん張る。

 突然、真雪が見知らぬ男に見えた。この数ヶ月、用心しながらもじょじょに好ましさを覚えるようになってきた相手。初めて接吻した相手。心のなかで名前で呼ぶようになっていた相手が、いきなり自分の知らない男になった。

「任務のためにわたくしと……結婚しようと……したのですか」

 口にしながら、なんて滑稽な問いだろうと思う。

 そんなことを訊いて、どんな返事を自分は求めているというのか。イエスと言われたら傷つくし、ノーと言われても信じない。信じられない。この目で真雪の犯行現場を押さえてしまった以上、もう彼のことを信頼できない。もう今までと同じようにこの男を見られない。それが悲しい。騙されていた怒りよりも悲しい。

 真雪は暁子の問いには答えず、ただ見つめ返してくる。水のような目で。不意にソファで寝ている父が、ふが、と鼻を鳴らす。

「父のグラスにも睡眠薬を仕込んだのですか」

「いいえ。お父上はただの陽気な酔っぱらいです。あまり呑みすぎよう注意して差し上げてください」

 そう言うと、彼は軍帽をかぶる。

「もう、おいとました方がよろしいですね。これはあなたにお預けします」

 小型カメラをテーブルの中央に置き直す。

「私の指紋がついてるので、出すところへ出したら充分証拠になるでしょう。これをどうするかはあなたの判断にお任せします」

 手袋をつけ直すと扉の方に、つまりこちらに向かってやってくる。暁子はスカートのポケットから、先日かばんの底で見つけたものを取りだし、彼に渡す。

「これをお返しします」

 星形の記章だった。軍服の左右の袖口についているものだ。真雪は自分の右袖に目をやり、「ああ」と息をつく。

「外れていたのに気づきませんでした。きっと、かばんのどこかに引っかけて落としてしまったのでしょう」

「もしあなたに奥さまがいらしたら、すぐお気づきになられたでしょうに」

 抑えた声で暁子が言うと、「ちがいない」と彼は苦笑する。そして扉を開けて立ち去っていく。

 

 さて、これからどうするか。

 この縁組は白川家にとっては大変喜ばしいものだ。大名華族の後ろ盾ができ、養子を得て、暮らし向きも上向く。使用人たちも安心させてやれる。父も。

 誰もが真雪との婚約を祝福してくれている。倫子をはじめ日下部、職場の人びと、獅子舞大佐も顔を真っ赤にして。

 もともと結婚の必要性に駆られての結婚だったはずではないか。急きょ家督を継ぐ身となった真雪と、ひとり娘である自分。どちらも家を存続させなければならない立場で、互いに愛などなく、だからこそ分かりあえるかもしれないと思った。

 それは錯覚だった。自分は彼を信じかけて、その信頼は砕かれた。愛もなく、信頼もない結婚をはたしてわたしはできるだろうか。

 ひと晩かけて考えたが、答えは最初から分かっていた。



 大和日日新聞、昭和十九年四月二十八日の朝刊より――。

【上杉家と白川家の縁組、突如取り消しに】

《今年三月に婚約を発表した上杉伯爵、陸軍参謀本部付、真雪少佐(三一)と、伯爵白川玄真氏の息女、暁子姫(二一)の婚姻は、挙式を目前に控えた四月二十七日、解消するとの申し入れが宗秩寮になされた。理由は明らかにされていないが、関係者によると暁子姫の方より辞退したいと申し出た模様にて……》

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