油断のならない男たち(16)
真雪の訪問には次第に型ができてくる。
暁子が帰ってくる前にやってきて、父の相手をしながら酒を呑み、暁子が帰宅すると三人で歓談。やがて父が酔いつぶれて眠ってしまってから、二人でゆっくり会話をする……という流れになる。
手土産はいつも酒だった。それも高価なものばかり。ワイン、ウィスキーにバーボン。「“敵性酒”をたいらげてやりましょう」と言う彼に、父は上機嫌で応じている。
暁子が帰る頃には、父は真雪と葉巻(これもまた彼からの贈りものだ)をくゆらせて、だいたいいい感じにできあがっている。
今日もそうだった。暁子が広間に入ると、真雪はさっとソファから立ち上がり、酒を注いでくれる。
「お疲れさまです」
「恐れ入ります」
疲れた身体にアルコールが沁みわたる。倫子はつい先日、疎開先で男の子を出産したそうだ。
「母子ともに健康とのことです」
「そうですか。よかった」
ほう、と安堵の息をつく。少し前、倫子から鎌倉の別荘へ移るとの知らせは受けていた。空襲の危険がでてきた東京で子どもを産むのは不安なので、と。
「安産に加えて男の子だなんて。おめでとうございます」
「あいつに似たら、さぞかし腕白坊主になるだろうな」
ふふ、とどちらからともなく笑いあう。真雪と過ごすこの時間が、だんだん好きになってきていた。彼と杯を重ね、軽く腹を探りあうような会話をするひとときを、心待ちするようになっていた。
自分も彼も、相手の仕事に関して踏み込んだ質問はしない。
真雪が参謀本部でどのような作戦に携わっているのかなんて知らないし、真雪もまた暁子の業務内容について詮索などはしてこない。最近残業続きなのを気にかけてはくれているようだが、詳細は訊かない。その距離感が心地いい。
なんとなくなのだけど、真雪は陸軍の者でありながら、現首相のやり方には思うところがあるようだった。父が酒の勢いで過激な意見を口にしても、怒ったりせずに耳を傾けてくれるから。だから、現首相を退陣に追い込もうという日下部らの下で働いていても、真雪への後ろめたさはさほど感じずにいられた。
四月にしては肌寒いある晩のこと。例によって父が酔いつぶれて寝入ってしまい、その傍らで真雪とともにシェリー酒を呑んでいたら、なにやら腹具合がおかしくなってきた。ご不浄へいってまいります、とも言いかねて、
「あ」
と、さも何かを思いだしたかのような顔をする。
「そういえば菊野に言いつけておく用事があったのです。すぐ戻ってまいります」
額にうっすら脂汗をにじませて中座すると、廊下の突き当たりにある手洗いへと駆け込んだ。
それから数日後、この日、真雪はどぶろくを持ってきてくれた。甘酒みたいにすっきりとした呑み口だ。日本酒はそれほど得意ではないのだけど、これはすいすい呑める。父はすでにソファで高鼾をかいており、真雪も頬をかすかに染めている。
「お気に召しましたか」と尋ねられ、「ええ」とうなずく。上杉家と付き合いのある新潟の酒造家から、婚約祝いに贈られたものだそう。
「どうやら私たちは呑み助夫婦になりそうですね」
「ええ」
照れくさい微笑を浮かべると、耳にかかった髪の毛をかき上げられる。耳たぶにふれる指先がひんやりとして冷たく、
「どうか、されましたか」
「い……いいえ、なんでも」
下腹部に意識が集まり緊急事態になる。
「す、すみません上杉さま……その、ちょっと……ちょっとだけ失礼いたします」
適当な言い訳すらも思いつかず、この前よりも慌ただしく部屋からでていく。
その晩。真雪を見送ったあと二階の自室へ入るなり、ベッドに寝転がって身もだえる。
(ああ、恥ずかしいっ、恥ずかしいっ……ま、真雪さまに気づかれたかしら……ご不浄にいってたんだ、って……う、うぅ)
いつしか心のなかで彼のことを、名前で呼ぶようになっていた。
なんだって急にお腹が痛くなったのだろう。それも二度も立て続けで。緊張してたのだろうか。腹が冷えたんだろうか。なんにせよ、非常にみっともないところを見せてしまった。
(今後はお酒を勧められてもお断りしましょう……そうしましょう!)
禁酒を固く胸に誓い、明日の準備をする。かばんの中の書類を確認していると、指がなにかにふれた。小さくて丸い、硬貨みたいなものが底の方に転がっている。
それをつまみ上げてみて、まばたきをするのをしばし忘れる。呼吸も。
それから三日のち。真雪が再びやってくる。この日の手土産はカルヴァドス。フランス産のりんごの蒸留酒だ。この統制下だというのに、さすがは上杉家。高価な酒をふんだんに持っている……と今までは思ってた。これらの土産は彼の“持ちだし”なのだと、なんの疑いもなく。
父は例によってソファでうたたねしていた。広間のテーブルには、わずかに中身の残っているブランデーグラスが。そばの灰皿には葉巻の吸いさしがあった。
「いらしていたのですね」
帰宅した暁子は、眠る父の脇で葉巻をくゆらしている真雪に声をかける。
「お邪魔でしたか」
「とんでもない」
はにかんだような笑みを浮かべる。
「こんなにたびたびお越しいただいて、上杉さまのおうちの方にどう思われているのやら……と恐縮してしまって」
「気にすることはありません。両親には何も言わせやしませんよ」
真雪は勝手知ったるふうに壁際の戸棚からグラスを取りだすと、琥珀色の酒を注ぐ。
「どうぞ」
「ありがとう」
テーブルの上にかばんを置いて、グラスに口をつける。
挙式まで十日を切っていた。時局柄というのもあり、披露宴などは行わない。花嫁衣装も新調しない。式には真雪は軍服で、暁子は自前の大振袖を着る予定だった。黒地に樺桜の織の着物で、十五の春に倫子が催した「雛の茶会」で袖をとおした着物だ。
思い起こせばあのときに真雪との縁が生まれた。真雪から、女中と身分ちがいの恋に落ちていることを明かされて、自分もまた彼に弱みを知られてしまった。M・Kのイニシヤル入りのハンカチを彼に拾われて。そのとき、自分自身でも自覚していなかった感情に、初めて気づかされた。
その後、真雪は生涯の恋に破れ、自分はそういったものから遠ざかろうと心にきめた。こんな自分たちが結婚するのは皮肉だが、それでいて似合いの組み合わせにも思えてくる。
だから……だからべつに、これからしようとしていることなどしなくともいいではないかと思いながらも、暁子は口を開く。
「上杉さま……わたくしあの……ちょっと御不浄へいって参ります。相すみません」
もじもじさせてそう言うと、「承知しました」と彼はうなずく。「私は一服していますので」と新しい葉巻に火をつける。
広間をでると廊下の奥の手洗いへ向かい、その途中で足をとめる。その場で三分間ほど立ちどまり、ゆっくりと、足音を立てないようにして廊下を引き返す。扉の前まで戻るとノブに手を伸ばして、一瞬ためらう。だがそれは一瞬だけだった。
静かに扉を開けると、ちょうど真雪がテーブルの上に広げた書類をカメラで撮影しようとしていたところだった。
ああ――。
胸のうちで嘆息する。驚きはなかった。半ば予期していた光景だった。
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