油断のならない男たち(15)

 その日以降、真雪はときおり食事にやってくるようになった。

 父とよほどウマがあったのか、それとも……うぬぼれなのかもしれないが、自分に会いたいと思ってくれているのだろうか。

 なんにせよ真雪の訪れは、この家にとってありがたかった。くるたびになんらかの手土産を持ってきてくれるので。

 白川家の台所事情は、もはやかつてのようではない。家屋敷と豪華な家具に調度類、着物などはあっても、肝心の預貯金は目減りしつつあった。それでも使用人を食べさせなければならないし、なんだかんだで交際費もかかる。それだけに、上杉家との婚姻でほっとしているところもある。

 夜、暁子が帰宅すると、すでに父と真雪で一杯やっていることもある。広間の扉を開けると、

「そもそも首相と陸相と参謀総長をひとりでやろうだなんて、こんなバカな話があるかね。それにあの大将、いつも胸じゅうに勲章をじゃらじゃらつけて、あれはみっともないね。俗物ですよ」

 父が真雪相手に首相の悪口を語っていて、ぎょっとする。

「お父さま、なんてことをおっしゃるの」

 慌ててたしなめると、「なあに。ここには憲兵さんはいませんよ」

 あやういジョークを飛ばされる。手にはウィスキーのグラスが。ほろ酔い加減なのだ。おそるおそる真雪を見やると、

「おっしゃるとおり。三職を兼任するなど、天皇陛下の統帥権の侵害ではないかという声も上がっていますね」

 彼は言う。

 先日、現首相が総理であることに加え、今後は陸軍大臣と参謀総長も務めるとの発表がされた。これにより政治と軍事、すべての権限を首相ひとりが握ることになる。その極端なやり方に、口にこそださないものの不安を感じている国民は多いだろう。

 尤も外務省内では、みな大っぴらに「あのハゲ茶瓶が」なんて毒づいているのだが。

 父はさらに続ける。

「私はね、この戦争はもう軍部の意地で続けているとしか思えない。誰に対しての、なんのための意地なのだろうか。それにつきあわされる民草はたまったもんじゃありませんよ」

(お、お父さま……どうかもうそのへんで……)

 はらはらする暁子をよそに、真雪は鷹揚な態度で相づちをうっている。やがて父はソファに腰をかけたまま、こっくりこっくりと舟をこぎだす。上掛けを毛布代わりにかけてやり、真雪に詫びる。

「申し訳ありません。酔っぱらいのたわごととお許しください」

「いや、実に耳に痛く響きました」

「父は上杉さまがいらしてくださって嬉しいのです。それでつい、調子にのって喋りすぎて」

「私もお父上は好きですよ。嘘偽りのない、純真な気質の方です」

 真雪が気分を害したふうではないのに、ほっとする。

 たしかに父は彼のことを気に入っていた。息子がおらず、他に甥や姪といった若者の親類もなく、身内といえば娘である自分だけ。しかもなかなか結婚しそうもない。なのに、ここへきて思いがけなくこんな立派な婿がねを得たのだから、父としても嬉しいのだろう。

 真雪は暁子にも酒をつくってくれる。キング・オブ・キングスのスコッチウィスキーだ。これも彼の手土産なのだろう。

「最近は残業続きだとお父上からうかがいました。お疲れさまです」

 グラスを受けとり、ひと口呑む。張りつめていた緊張感がほどけてゆく。

 このところ例の、たった今話題にのぼっていた現首相の内閣打倒計画に、日下部らは駆けまわっている。実にそうそうたる方たちがこの計画に賛同している。中心となるK公爵をはじめ、O海軍大将、H元内相、W男爵等々。

 彼らの名はアルファベットで議事録や書類に記している。万が一計画が洩れても、人物名が分からないように。

 そういった文書類は厳重に保管するよう、日下部から口を酸っぱくして指示されている。机の引き出しなんかに、うかうか入れておかないようにと。

「ちょっと席を外した隙に憲兵がやってきて、デスクを漁られてはかなわんからね」

 実際、このところ憲兵の傍若無人ぶりは目に余るようになってきた。用もないのにやってきて、いきなり持ちもの検査までしだす。この前なんてとっさに書類を服の下に隠したほどだ。以来、特に重要な書類は帰る際にも職場に置いておかず、かばんに入れて持ち歩くようにしている。

 その場に立ったまま水割りを呑んでいると、「外套をお脱ぎになっては?」真雪が声をかける。そして外套を脱がせてくれ、肩にかけていたかばんも受けとる。

「なかなか重いですね」

「すみません」

 振り向いた拍子に顔と顔が接近し、先日のが蘇って、とっさにぱっと身を離す。すると真雪がぷっと笑う。

「いや、なんとも初々しい反応だ」

 その言葉に、顔がかーっと赤くなる。鎮まれ心臓、落ち着けわたし。たかだか接吻ではないか。口と口のくっつけあいにすぎない。だけど、だけどまた仕掛けられたら……。

 などと考えている間に、彼の顔が再び近づいてくる。そうしてふれあう寸前で、ぴたりと止まる。

「あなたと結婚するのが、なにやら楽しみになってきました」

 自分のグラスの酒を呑み乾すと、真雪は帰り支度をする。去り際、ソファで寝ている父の上掛けをかけ直し、あご下まで覆ってくれる。


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