油断のならない男たち(14)
ある晩、真雪を食事に招待する。
父の提案だったのだが、真雪も忙しいだろうに快く応じてくれた。手土産のワインを開封すると、とっておきのチーズを切り分ける。料理人の男たちも応召されて、今は女中たちに食事をつくらせている。かつての晩さんと比べるとずいぶん慎ましい食卓になったけれど、もう慣れた。
父などは「パリで遊んでいた時代は、薄いワインに固い黒パンをかじっていたからね」と言って、とうもろこしの粉でできた茶色いパンを食べている。「では今度、白パンをお持ちしましょう」と真雪が言う。
今夜の真雪は軍服だ。カーキ色の上下に黄色い飾り紐。黒い軍靴。無骨な装いでありながら、背広姿よりしっくりとして見えるのは、やはり職業軍人だからだろうか。
職場にやってくる軍人たちは横柄で権高で、振る舞いのひとつひとつが荒っぽい。しかし真雪は、軍人特有の圧を備えてはいるが、品がある。彼と会うごとにほどよい緊張を感じる。
食後はレコードをかけて談笑する。父は抜かりなく“敵性音楽”を避けて、ドイツとイタリアの曲を選んだ。ヴァイオリンの調べが室内に流れる。会話の邪魔にならない程度の、朗らかな曲調だ。
「モーツァルトですね」
真雪がさりげなく言い当てる。「自分の好きな音楽家です」と。
「ほう」
父が口ひげを撫でる。
「お珍しいですな。軍人さんでモーツァルトをお好みとは」
「モーツァルトを聴くと心がなごみます。明るく軽く空っぽで、なんの思想もない。ベートーヴェンとは大ちがいです」
「まさに」
父は膝を叩いて笑う。いまので真雪に親近感を抱いたらしい。
「パリで長らくお過ごしになったとのことですが、かの地はどんな街でしょうか。自分はあいにく訪れたことがないのです」
真雪の質問に、父はいっそう嬉しげにうなずき「すべてがある街です」と答える。
「粋も無粋も、贅沢も貧困も、美も醜も。貴婦人も娼婦も。おっと失礼」
いたずらっぽい目を娘に向ける。
「いずれいってみたいものです」真雪が言うと、
「ぜひいかれるといい。その際はどうか娘も連れていってやってください」
花嫁の父らしい言葉を父は言い添える。ヴァイオリン協奏曲の第四番が終わるタイミングで立ち上がると、失礼ながら先に休ませていただきたいと告げる。
「久々に楽しい酒を過ごしたもので、急に酔いがまわってきました。こちらから招いておいて申し訳ありませんが、あとは娘にお相手をさせますので。どうぞごゆるり」
真雪も椅子から立ち上がり、会釈をして見送る。
父が広間をでていくと二人だけになる。次の曲はさらに陽気な『アイネクライネナハトムジーク』だ。
「お忙しいところをわざわざお越しくださいまして、ありがとうございます」
主人役を引き継いだ暁子がそう言うと、
「こちらこそ、お招きにあずかりましてごちそうさまです。あなたのお父上と一度ゆっくり話をしたかったのです。楽しい方ですね」
「あのとおり、お調子者なのです。口を開けば冗談ばっかり」
「始終しかめっ面をしている父親より、ずっといいですよ」
そういえば真雪の父は、挨拶をしにいったときも、両家の食事会でも、ほとんど喋らず、むすっとした顔つきをしていた。怒っているわけではなく、そういう方なのだろう。
我が家の父とさほど変わらない年齢と聞いているが、父が実年齢より若く見えるうえ、あの性格なものだから、いっそう義父が重厚な方に見えた。重々しく立派で、いかにも元大名の殿さまという印象だった。
……と暁子が言うと「堅苦しいだけの親父ですよ」真雪は首を振る。
「外聞やら体裁やら、家の面目を潰さないことだけを気にして生きてきた、旧時代の人間です」
にべもない。真雪と同様に現役の陸軍軍人で、位階は少将だそう。そこも、社交界にどっぷり浸かって生きてきた自分の父とは対照的だ。くすり、と暁子は笑みをこぼす。
「お互いに親に対しては思うところがあるようですね」
「ちがいない」
真雪も微苦笑を浮かべる。少しだけ、彼との距離が縮まった気がした。
もう女中たちを休ませている時刻なので、暁子は自ら食後のお茶を淹れる。これもまたとっておきのアールグレイだ。斜め向かいにテーブルについて、あたたかい茶を飲む。モーツァルトをBGMに重苦しくない沈黙が流れる。
「上杉さま」
そう、このお礼もぜひ伝えなければと思っていた。
「結婚後もわたくしが勤めにでるのを許してくださり、ほんとうにありがとうございます。感謝しています」
「当然です」真雪は答える。薄い唇の端が、わずかに上がる。
「そうおっしゃるということは、仕事がおもしろいようですね。どんな業務をされているのですか」
「使い走りのようなものです」
と職場での自分のポジションを説明する。厳しい上司と癖のある同僚たちに揉まれて、次から次へと用を言いつけられています、と。
「たしか日下部秘書官でしたか。あなたの上司は」
「ご存じですの?」
「もちろん。あの御仁は切れ者ですね。参謀本部内でも骨のある官僚だと評されている」
「明日、日下部にそう申しておきます」
「ええ。私の女房殿をよろしくご指導ください、とお伝えください」
そんな言葉を交わして微笑みあう。しばらく雑談をする。互いの趣味や好きなこと、興味のあることなど。
真雪は乗馬と音楽鑑賞が趣味だそうで、かの“バロン西”から手ほどきを受けたこともあるという。かつてオリンピックの馬術競技で金メダルを獲った男爵だ。
「あなたは乗馬はされますか」
問われて首を横に振る。「あいにく、うちには馬場がありませんで」
「そう。いつか教えてさしあげたい」
彼は一拍間を空けて、
「我が家の馬たちも軍に供出しました。今頃どこの戦場を走らされていることやら。かわいそうに」
低い声にいたわりの色が浮かんでいた。ふと、この方はやさしい方なのかもしれないと思った。馬が好きで音楽が好きだなんて知らなかった。そういうことをこれまで話さなかったから。
いつしか曲は終わっていて、室内は無音になる。会話も自然と途切れる。真雪がこちらを見る。
「接吻でもしますか」
トランプでもしますか、というような口調だった。完全に不意を衝かれる。
「……え、あ、あの、ええと」
なんと答えたらいいのか分からず口をぱくぱくさせてると、彼がおもむろに近づいてきて――ふさがれる。あたたかく湿った舌が自分の舌に重ねられる。初めての感触。連想したのは上等の牛肉フィレミニヨン。
唇が遠ざかっても、しばし茫然としていた。それからどんな会話をして、どのように彼を見送ったのかも憶えていなかった。
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