油断のならない男たち(12)
二度目の軍への入営は、見送りも慎ましやかなものだった。
それでも邸内の職員一同から万歳三唱され、旦那さまからも餞別のお言葉を頂戴した。その後ろであの方は、色のない顔でじっとこちらを見ていた。整っている容貌なだけに無表情だといっそう際立つ。
できれば一生お仕えしたいと思っていた。あの方が婿をとり、子を生し、家をつないでゆくのをそばでお支えしたかった。そんな気持ちのまま生きていきたかった。いったいどこで、こんなふうになってしまったのか。
やはりクニを問い質さず、疑いは自分の胸ひとつに収めて結婚するべきだったのか。それとも最初からクニとの縁談を承知すべきではなかったのか。
分からない。どんなに考えても分からない。ただひとつ分かっているのは、もし時間が遡っても、きっと自分は同じ行動をしただろうということだ。
これが見納めだと、あの方を見返した。時世にそぐわない華やかな色のワンピースがよく似合う。もしや自分を見送るために、そんな恰好をしたのだろうかとも思ったが、表情はあくまで冷たい。その切れそうな目つきを憶えておきたかった。
出立時刻となり、「元気でいきます」と一同に礼をして邸をあとにする。正門をくぐって駅への道を歩きだす。もうここに戻ってくることはあるまい。よし戻ってくるとしても、箱に入っているやもしれない。
そのときだ。背中に視線を感じて振り返った。背後にある伯爵邸の、高い塀に囲まれた敷地の方へ目をやった。庭園の奥の林の、桜の木の辺りへと。緑色の葉が生い茂るひと際立派な大木に、鮮やかな珊瑚色が交じっているのが一瞬、見えた。だが、まばたきするとすぐに消えた。たぶん、気のせいだろう。
今でも出征の日のあの方の、冷え冷えとしたまなざしは、まぶたの裏に刻まれている。あんな目をする女性になったのだ。
ずっと昔、自分がまだ少年だった頃は、あの方の母上に憧れていた。天女のようにたおやかで、儚げな美しさをもつ奥さまに恋していた。初恋だった。なのに、あの方は姿かたちは奥さまに瓜二つなのに――中身はぜんぜん似ていない。
たおやかでも儚げでもない。我が強く生意気で世間知らず。
あんな勝ち気な性格のまま、世の中を渡っていけるものか。いつかきっと痛い目にあう。というか、少しくらいは痛い目にあって世間を知られるがいい。
そんなことを考えていると、気づかぬうちに死への恐怖がうすらいでいる。
ジャングルのなかで敵の襲来に怯えているときも、防空壕の真上で爆音がとどろいても、あの方を思っていると絶望せずにいられる。お守りのようなものかもしれない。かたちのない、名前のないお守り。自分の正気を保たせてくれているもの。
たった一度だけ、あやうい心持ちになりかけたことがあった。
あれは、戦争がはじまる直前の冬の夕暮れ。学校まで迎えにいったらあの方の姿がなく、心当たりを散々探した末に、あの場所へいき着いた。
線路沿いに立っているシルエットを見つけた瞬間、心臓が止まりそうになった。そうして次の瞬間、あの方を抱きしめていた。怒鳴りつけたい衝動を押さえ込み、逃がすまいとするかのように渾身の力を込めて抱擁していた。
あのほっそりとした身体の感触を、自分の腕は今も憶えている。体温の熱さも、なめらかな髪の手ざわりも、首すじの甘やかなにおいも。つらいときに思いだしては、ひそかに噛みしめている。
もしかして、北村にとっての女房と娘が、自分にとってはあの方なのだろうか。
そこで煙草のにおいがして、目が覚める。やつのうす汚れた顔が頭上にあった。眼鏡にひびが入っている。枕もとで胡坐をかいて、うまそうに煙草をふかしている。
「なんだ……貴様か」
乾いた声でつぶやくと、
「なんだとはご挨拶だな。見舞いを持ってきてやったのに」
鼻先に太いバナナをぬう、と突きだされる。黄色い皮にぽつぽつとした黒い点がある。前に土に埋めておいたのを掘ってきたそうだ。
「ちょうど熟れ頃だぞ」
女の肌色をしたバナナは甘く、うまかった。どうやら丸一日眠っていたらしい。もうじき物資を運んだ舟艇が河を上ってくるという。
「食いもんや医薬品がどっさり積まれてくるぞ。助かったなあ。これでひと息つける」
北村の言ったとおり、数日後には舟艇がやってきた。数ヶ月ぶりに菓子や携行食が支給される。それらを包んであった新聞紙をもらい、煙草を吸いながら読む。もう二年近く内地の情報や活字に飢えていた。
『帝国海軍部隊、ハウワイ島の敵上陸軍を殲滅』『皇軍のベンガル進攻に敵、怯ゆ』
といった勇ましい見だしが紙面に踊っている。日付けは昭和十九年三月某日。半年前のものだった。新聞を読む限り日本軍は勝っているようだが、そんな実感はまるでない。だったらなぜ自分たちは食うや食わずで、包帯も薬もない状況で戦っているのだろう。
裏面の文化欄には疎開事情に配給情報、楠公飯の作り方などが書かれてある。ふむふむと読んでいくと、ある記事が目に留まって煙草の煙が喉に詰まった。
ごほっ、ごほごほっと烈しく咳き込んで、隣の、爆撃で片脚を吹っ飛ばされた兵士から「水を飲め」と心配される。それはこんな記事だ。
《伯爵上杉家の家督を継いだ陸軍参謀本部付、真雪少佐(三一)と、伯爵白川玄真氏の息女、暁子姫(二一)の婚約がこのたび宗秩寮より発表された。時局柄、挙式は簡素に執り行うとのこと……》
記事の横に新郎新婦の写真も掲載されている。
花嫁は下げ髪に着物姿で、よそいき用の微笑を浮かべている。我の強さを巧妙に覆い隠した、天女のような笑み。地球の裏側で、あの方のお顔を二年ぶりに拝見する。幕舎の外では南国のセミが鳴いている。
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