油断のならない男たち(10)

 その晩は前夜の続きの夢を見た。クニとの結婚を取りやめた前後のことだ。

 あの当時は開戦直後の興奮からか、誰もが妙な躁状態に包まれていた。いつももの静かな田崎ですらラジオに張りついて、戦果を聞いてはうんうんうなずき、涙ぐんでいた。まして若い男職員たちの、のぼせようといったらなかった。連戦連勝のニュースを聞いては快哉を上げ、夜ごと食堂でビールで乾杯していた。

 自分もまた、どこか平静ではなかったのかもしれない。

 その日の午後、風邪で休んでいるというクニの部屋を、こっそり訪れたのだ。人の出入りが少なくなる時間帯を見計らい、女たちの宿舎へ足を運んだ。半纏を羽織ったクニは、不意の訪問に熱っぽい顔をさらに赤く染め、それでもなかへ入れてくれた。

「具合はどう?」

 見舞いのサイダーを渡すと、

「もうだいぶよくなりまして。明日には復帰します。さあ、どうぞ」

 勧められて火鉢にあたる。自分の部屋と似た感じの小さな部屋には布団が敷かれてあり、押し入れはない。掛け布団を二つ折りして、敷布団の上にクニは正座する。寝乱れていた髪を手櫛で整えて、はにかむ。サイダーをこくんと飲んで、

「冷たくておいしい」

 控えめに微笑む。少し前までは、その腰の低さに好ましさを感じていた。一緒になったら自分が守ってやらねば、大事にしてやらなければと思っていた。それが今は、すっと離れた気分で観察している。

「わたしが寝込んでいる間に、いよいよはじまったようですね」

 クニが風邪けのある声で話題を振る。数日前、布団のなかでぐったりしていると、女中仲間がばたばたと駆け込んできて、開戦を教えてくれたそうだ。

「おタキちゃんてばおかしいの。今夜はお赤飯を炊くそうよ、あとで持ってきてあげるって、嬉しそうに……あのう、どうかしました?」

 顔をややかたむけて、こちらを見てくる。

「うん。ちょっとね、クニちゃんに尋ねたいことがあって」

「あら、なあに」

 顔をかたむけたまま、クニは目を細める。自分はひどく残酷なことをしようとしているのだと思った。こんなにも信頼しきった目を向けてくる相手に、こんなことを訊こうとするなんて。

 今さらそれを確認してどうする、とも思った。寝た子を起こすことはない。気にするな。気にしないでこの子と結婚しろ――と。そう思いながらも口を開く。出てきた声は平坦だった。

「俺が竜山にいた頃、クニちゃんはお嬢さまの手紙を預かって、出さずにいたのかい?」

 女の表情が、微笑を浮かべたまま、固まる。

「俺がお嬢さまに出した手紙も、あんたが握りつぶしていたのかい?」

 あの方はたしかにこう言った。何度も手紙を書いてクニに送ってもらった、と。

考えてみたら、あんな箱入りの令嬢が自ら切手を買って郵便局までいくはずがない。使用人にやらせるはずだ。

 そして主人に届いた郵便物を仕分けするのも、使用人の仕事である。かつて田崎の下で働いていた時期に自分もそれを目にした。旦那さま宛てのつまらぬ借金申し込みや芸者連中からの手紙などを田崎が屑籠に捨てていたのを。

 竜山にいた頃は、あの方に何度も手紙や葉書を出した。手紙をちょうだい、と言われたから。約束したから。返事は一度もこなかった。それもまあ仕方がないとは思いつつ、心の底では落胆していた。十三、四の少女を相手に傷ついている自分が滑稽でもあった。

 まさか、あの方も同じように受けとめていたなんて。

 なかばハッタリではあったが、クニに確認したかった。確認してどうなるというものでもないのに、確認せずにいられなかった。

 いま、クニの頬からは赤みが消えて、紙のような顔色になっている。膝の上で両手を握りしめ、そのこぶしはかすかに震えている。

「ごめんなさい」

 声もまたゆれていた。やめてくれ、と言いたくなるような、哀れみに充ちた声音だった。

「おっしゃるとおりです……わたしが手紙を始末してました……にぎり、つぶしていました」

「投函しておきます」とお嬢さまから預かった手紙を出さず、竜山から届いた手紙は渡さなかった。菊野にそうするようにと命じられた。ほんとうだ、嘘ではない、とクニは言う。

「お嬢さまのお手紙も、貢さんのお手紙も、けっして読んだりなんてしてません。ただ……どちらも菊野さんのところへ持っていきました。ごめんなさい。ごめんなさい」

 謝罪の言葉を繰り返しつつ、語り続ける。

 いつかはばれると思っていた。ひどいことをしているというのも重々承知していた。お嬢さまは手紙の返事がこないのを、しきりに気にしておられた。もしや貢は手紙を書くどころではないのではないか。前線へ送られて戦っているのかもしれない。貢が戦死してたらどうしよう。白木の箱になって帰ってきたら、どうしよう。

 そんな心配をしょっちゅうされていた。そのたびに自分は「大丈夫ですよ、きっと無事でおりますよ」と、いけしゃあしゃあと励ましていた。その実、心のなかは灼けそうだった。

「みじめでした……どんなに返事がなくともお嬢さまは書き続けられて……あなたも……。自分のしていることが、みじめでたまりませんでした」

 だけど、いったんはじめてしまった以上、いまさらやめられない。菊野にも逆らえない。ようやくお嬢さまが手紙を書くのをやめたときは心底ほっとした。やっと諦めてくださった、と。

「それで、何食わぬ顔で自分は俺に手紙を寄こしてくれていたわけか。宝塚スターのことなんかを書いて」

「……ごめんなさい」

 いつしか女の声が濡れていた。ずず、と洟をすする音。うつむいたまま、ぽたぽたと涙をこぼす婚約者を、無感情に眺めている。

 奇妙なことだが怒りはさほどなかった。欺かれていたことへの屈辱感も。ただ、これまでクニとの間にあった信頼の絆のようなものが、ぶつんとちぎれたのが分かった。音まで聞こえたようだった。

 自分たちの結婚は――少なくとも自分の方は――愛情ではなく信頼によるものであると思っていた。それでよかった。信頼感は愛にも勝るものだから。だがそれが今この瞬間、断ち切られた。

 もうこの女を信じることができない。これまでと同じように見ることができない。ならば結婚することも、もうできない。

 クニが快復するのを待って、田崎を通して結婚の解消を申しでた。当人も縁談の仲介役である菊野も、それを受け入れた。

 おそらくクニは菊野にすべて報告したのだろう。自分たちのしたことがこちらにばれてしまったことを。もしこれが明るみになったら、いくら女中頭の菊野とて困ったことになるはずだ。自分はともかくとして、主人であるあの方まで謀っていたのだから。

 というわけで、つつがなく結婚話は白紙となり、クニはいたたまれなくなったのか、ほどなくして邸を去った。結果的に自分が追いやったようなものだった。

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