油断のならない男たち(9)

 先の見えない日々のなか、ふるさと恋しで心が不安定になる兵士もいる。

 家に帰りたい、母親に会いたいと毎晩めそめそ泣いては、「うるせえぞ!」と他の者に怒鳴られるのだ。ある朝、その二等兵の姿が見えないと思ったら、便所で首をくくっていた。遺体から認識票を外して上官に提出すると、埋葬するための穴を掘る指示を受ける。そういうことにも慣れていく。

 神経衰弱になった兵士が自殺をしたその晩は、クニとの縁談を反故にした夢を見た。できることなら見たくなかったが、いつかは見るだろうとも思っていた。

 クニに好かれているのは承知していた。互いに少年少女の頃からともに働いていた間柄で、気心も通じていた。

 あの我がままなお方に長年お仕えしている者同士、自分たちの間にはある種の絆のようなものがあったとは思う。少なくとも自分はそれを感じていた。あの方を媒介として、自分たちにしか分からない苦労や大変さ、そして甲斐。それをたしかに感じていた。

 クニのことはけっして嫌いではなかった。邸内の女中のなかでいちばん信頼していた。

 田崎からクニと一緒になる気はないか、と勧められたのは、開戦の年の秋口だ。ちょうどその頃あの方にも縁談が持ち上がり、ドイツ人の青年貴族と見合いをしたのだった。女中頭の菊野の反対もあって断ったそうだが、今にして思えばナチ党員などと結婚しなくて正解だった。あのばばあ、さすがは伊達に「奥」を仕切ってはいない。

 所帯をもつなんて、それまで考えたこともなかった。自分のような者には無縁だと思っていた。そもそも結婚するということに意味が見いだせなかった。妻を娶り、子どもをつくる。多くの男がしていることをしている自分が想像つかない。

 しかし、クニとだったらできるかもしれない。分かりあえているクニとなら。

 そう考えるようになったのは、そうした方が自分の気持ちが楽になると気づいたからかもしれなかった。あの方の運転を毎日朝夕し続けるうち、その頃にはもう、だんだんつらくなってきていたから。認めがたいが、そうだった。だから結婚しようと決意した。

 心の底の火種を、火種のうちに消しつぶすために。

 それなのに土壇場で、自らめちゃくちゃにしてしまった。よかれと思って決めたことが最悪の結果になった。クニを悲しませ、あの方には憎まれた。かつてよりもっと。

 空腹感で目が覚める。ぎらついた朝の光が顔を照りつけて、寝ている間に首すじが塩をふいていた。一同整列しての朝の点呼の際、昨夜夕飯の場にいなかった小林の姿がない。「ひとり足らんぞ!」軍曹が怒鳴りつけると、

「小林二等兵は死にました!」と誰かが報告する。こうしてまた一日がはじまる。


 食べられるものを探すのも、ここでは大事な作業だった。毎日誰かしら空き袋を手にして野草採集へ出かける。バナナの木に成っているまだ青いバナナは、穴を掘って地中に埋めておく。数日後に掘り返すと、いい具合に熟しているのだ。

 だがバナナやパパイヤなど、食べでのある果実はもう少ない。なので木を切り倒して皮を剥ぎ、やわらかい芯の部分を食材にする。根や葉も煮て食べる。葉っぱの裏にくっついているカタツムリごと袋に入れる。

「どうだ、一本」

 袋がだいぶ重くなってきたところで、北村が煙草を勧めてくる。バナナの木にもたれて一服する。

 頭上で鳥が鳴いている。鳥にもお国柄というのはあるのか、この国の気候とよくあう陽気で、のびやかな鳴き声だ。

 鳥の声にあわせて北村が口笛を吹く。ひび割れた唇をすぼめて、西條八十の『誰か故郷を想わざる』を器用に奏でる。

「幼なじみのあの夢、この夢……か」

 曲にあわせて、知らずしらず歌詞を口ずさんでいた。

「女房がこの歌が好きでな」

 北村は黄ばんだ歯を見せ、にっと笑う。しょっちゅうレコードをかけてるうちに、幼い娘がそらで歌えるようになったという。

「ほんの四つなのに、いっちょまえに節つけて歌うんだぜ。それもなかなか達者でな。女房は将来、宝塚か松竹歌劇団のどっちかに入れようなんて言ってるよ」

「宝塚か」

 ぼそりとつぶやく。そういえばクニも宝塚が好きだった。

「顔もかわいいんだ。さいわい俺似じゃなくてな」

 北村は除隊してすぐ嫁をもらい、実家の米屋を手伝っていたそうだ。米が配給制になるや商売が立ちいかなくなり、とうとう先日廃業したと先日届いた妻の手紙に書いてあったとか。

「内地もえらいことになっとるようだな。貴様の家は大丈夫か」

「俺はまだ独り身なんでな」と答えると、

「そうか。それはそれで気楽でいいさ」

 北村はうなずく。残してきた女房子どものことを思うと、胸がしくしくするという。

「あんまり長いこと留守にしてると、娘が父ちゃんの顔を忘れちまうよ。女房も独り寝に耐えかねて、どこぞの男と浮気せんとも限らんからな」

 軽い口調でそう言うと、指が焦げそうなほどぎりぎりまで吸った煙草を足もとに放る。

「そろそろ戻るか」

「ああ」

 野草の入った袋を担ぎ直す。


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