油断のならない男たち(8)

三 


 赤道直下の土地の日射しは日本とはまるでちがう。

 じりじりと肌を焦がすようで、とりわけ乾季ともなると強烈だ。粉ふき芋のように腕に白っぽいものがふいていると思ったら、結晶化した汗だった。塩分補給にと舐めとると、余計に腹が減ってくる。

 兵隊暮らしが続くうち、最初に消えたのは性欲だった。そのぶん食欲が強まった。このところ何をしていても食べもののことばかり考えている。カレーライスにカツ丼、支那そば。それにシベリヤ。少し前までは普通に食べていたものが、もはや口にするのもかなわない。この先どうなるのか想像もつかない。

 この二年間、さまざまな戦地へ飛ばされるたび、刻一刻と情勢が悪化していくのを肌で感じていた。

 上官は兵士らに戦況を教えてくれないので、不安ばかりが募ってゆく。情報だけでなく、粗悪な食事や補充されない武器弾薬と、あらゆる面で欠乏状態が常態となっていた。

 喉の渇きを癒やす水も足りない。さりとて生水を飲めば腹をくだす。風呂は数日おきだ。夜になると蚊に悩まされ、マラリアになる者もいる。自分もかかったが、四十度近い高熱に脳が溶けそうになった。それでも行軍は続いている。

 肩に歩兵銃、背中に背嚢。移動手段はひたすら足。軍靴の底が抜けたらびんたが飛んでくる。なのに替えの靴もない。行軍の途中で空を飛ぶ敵機に見つかり、機銃掃射を喰らうこともしばしばだ。

 すぐ前を歩く兵士がだだだだっと撃たれて倒れ、死んだのを確認すると、そいつの靴を脱がして履く。まるで追いはぎだ。ここでは体力と運のない者から、ばたばたと力尽きてゆく。

 新たな土地へ移動すると、最初にするのは幕舎づくりだ。

 木を伐採して二人一組で運ぶのだが、南国特有の幹太みきぶとの木はずっしりとして重い。

「おい、大丈夫か」

 一緒に丸太を担いでいる、北村の背中に向けて声をかける。こいつ、どうも腰がふらついている。

「いやあ、昨日はピー屋にいって二回も抜いたもんでな」

 振り返ってへへへと笑う。以前はかけていなかった丸眼鏡をつけていて、目尻に愛嬌のある笑いじわを浮かばせる。

「ここのピー屋にはべっぴんがおるぞ。やはり朝鮮娘はいいな。情がある。貴様もいってみろ」

「分かった分かった。いいからしっかり歩け」

 北村とは、ここの戦地で再会した。六年前に朝鮮の竜山で共に兵役に就いていた。寝台を並べて寝て、風呂もメシも一緒。上官からびんたを喰らうのも一緒。いわば同期の桜だ。ハタチそこそこの兵士も多いこの分隊で、二十代も後半の自分たちはもう年寄りに入る。

 北村は所帯をもって、子どももいるそうだ。若年兵らから「北村さんは奥さんがいるんだから、ピー屋通いは俺たち童貞にゆずってくださいよ」なんて言われているが、そういえばこいつは竜山でも女給遊びが好きだった。

 陣地まで木を運び終えると、ようやく飯にありつける。米に醤油をかけただけの醤油飯。それにパパイヤの漬物が二、三切れ。それでも食えるだけありがたい。と、飯をかっ込んでいる人数を数えると、ひとり足りない。

「おい、小林はどうした」

 飯あげ係に尋ねると、マラリアで寝ているという。飯を持っていくよう言いつけると、食べたくないとのことだった。

「食欲がなくなるとやばいな」

 北村が箸をせっせと動かしつつ、つぶやく。「あいつは前にも赤痢をやったしなあ」と。「俺はたむしだ」と他の兵が続けると、「俺は痔だ」「俺は疥癬だ」と笑いまじりの病気自慢がはじまる。腹が満たされると軽口をたたく余裕もでてくる。

 今日は風呂を焚く日だった。川から汲んできた水をドラム缶で沸かして順番に入ると、昼間の疲れが消えていく。見上げると空には満天の星。まるで芝居の書き割りみたいにあっけらかんとした星空だ。

 いつだったか、日比谷の劇場で観た宝塚の舞台を思いだす。

 息子を戦地へ送りだした母が、まさにこんな美しい夜空を見上げて、ひとり泣くのだ。愛する息子は御国のために大空へ旅立ったのだ……と。ありふれた“母もの”だったが、クニもあの方も拍手をして感動していた。

 夜は臭い毛布をかけて丸太の上で雑魚寝する。屋根はヤシの葉で葺いたもので、茅葺きならぬヤシ葺きだ。雨漏りしやすいのが難だが、風とおしがいいのが取り柄だった。こうして今日一日も、なんとか生き延びることができた。

 健やかな鼾がそこかしこから聞こえてきて、ときおり放屁の音もする。外でりりん、りりんと鳴いているのはこの国の鈴虫だ。

 鳴き声に耳を澄ませるうちに、泥のような眠りがやってくる。


 マラリアにかかったとき、日本を離れて以来、初めて日本の夢を見た。死にかけた身体から意識が抜けて過去を遡ったのだろうか。

 それからというもの、毎晩のように見続けるようになった。きまって過去の夢だった。

 最初に見たのはシベリヤとサイダーの夢だ。いや、正確にいうと、あの方とクニと共に誘拐されたときの夢。自分の頭ほどもある大きな駄菓子を、あの方はぺろりとたいらげた。どんな状況に置かれているのかも分からず、のんきに無邪気に。

 犯人に殴られ、蹴られながら、あの方を守ろうと無我夢中で抱きしめた。猫の子のようにあたたかくやわらかな身体で、かすかに乳くさいにおいがした。忘れかけていたその感触が、高熱に苦しみながら見た夢のなかで蘇った。

 それからは夜がくるのが楽しみとなった。ジャングルで遭遇した敵兵を銃剣で突き殺しても、行軍の途中でたおれた戦友を見捨てて歩き続けた日も、うなされず眠ることができるようになった。

 セミの抜け殻を採りたがるあの方を肩車した夢、メンコ遊びを教えた夢、庭の池で鯉や鮒を釣った夢。そんな在りし日の光景を次々に夢で見た。まるで、頭の片隅で保存されていた映像を掘り返しているような感じだった。

 あの方の声やまなざし、つややかな髪の光沢、薄桃色の爪のかたち。それらもまざまざ思いだせた。我ながらよく憶えているものだと、なかば驚き、あきれる。

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