油断のならない男たち(3)
その日は珍しく日下部と一緒に省をでる。地下鉄の吊り革を掴み、並んでゆられる。少しして「先ほどの話だがね」日下部がおもむろに口を開く。
「きみが結婚しないと決めているというのは、ひょっとして恋人でも出征しているのかね」
不意をつくかのようにそう言われ、不自然な間を空けてしまった。「いえ、そんな相手はおりません」ときっぱり答える。
「単に結婚したくないだけです」
「しかし華族の令嬢なのだから、縁談なんてたくさんくるだろうに」
「ふふ」
素朴なそのもの言いに、思わず微笑む。
「うん? どうしたね」
「いいえ。日下部秘書官はとても優秀な方で尊敬しておりますが、どうやら華族社会についてはあまりご存じないようなので、つい」
華族史に残る
そんなことをかいつまんで日下部に話す。なぜだかこの上司には、自然と打ち明けられた。戦争という国家の大事に関わる職務についている日下部なら、華族社会のみみっちさだの、男女の情死だのには関心を持たないだろうと思えたから。
案の定、反応はさっぱりしたものだった。
「あの事件は僕も新聞記事なんかで読んだ憶えがあるよ。大変だったね」
それだけ言う。その素っ気なさがむしろありがたい。
「しかしそれで縁談がこないだなんて、華族の世界というのはずいぶん閉鎖的だねえ。そうだ、なんなら僕がよさそうな相手を見繕おうか。後輩でいいのがいるんだ」
「おそれいります。お気持ちだけいただいておきます」
ちょうど乗り継ぎ駅に着いたので、笑って挨拶して日下部と別れる。市電に乗り換えると運よく席が空いており、腰を下ろしてふう、と息をつく。本日もよく働いた。帰宅したら熱い風呂に入りたい。
窓の外は都心の夜だというのに闇色だ。電力消費を抑えるために、電飾看板はもちろん街灯までけちっているのだ。
日下部との会話が心に引っかかっていた。職場での同僚たちとの茶飲み話でも。なんで、わざわざ口にだしてまで結婚しないアピールをしてしまったのだろう。言葉にして言うことで、自分自身に言い聞かせようとしたのだろうか。
先月、学習院の同級生だった山科みち子が離婚したという記事を『華族画報』で読んだ。夫の不品行が原因らしい。二年前、ドイツ大使の歓待パーティーで再会したときは、新婚の喜びに充ち満ちていたというのに。ご夫君もよさそうな方だった。愛しあって結婚したはずだろうに、どうして愛は消えるのだろう。
考えてみたら自分の周囲には結婚してうまくいった
母は結婚生活に絶望して情人との死を選んだ。クニは結婚する前から結婚に破れた。菊野は結婚する道を選ばず、主家に尽くす人生を歩んでいる。結婚してしあわせになったという例を自分は知らない。
愛し、愛される。ただそれだけのことが、なんて難しいのだろう。自分にはとてもできそうにない。そもそも自分に人を愛せるとは思えない。
もしクニが予定どおり結婚していたら、ちがった心持ちにもなれていたかもしれない。クニが結婚して、赤ん坊でも産んでいたら。出征した夫の帰りを待つクニを間近で見て、支えていたら、結婚っていいものだな、自分もしてみたいな……なんて思えていたのかもしれない。
だけどクニはここにいない。産まれていたかもしれない赤ん坊も、築いていたかもしれない家庭もない。
だから自分は結婚しない。してはならない。
誰かの妻となっている自分の姿が想像できない。嘘をついてはいけない、盗みをしてはならないというのと同じくらい当然に、わたしは結婚してはならない。
我ながら妙な理屈だが、自分のなかでは筋がとおっている。
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