油断のならない男たち(2)

 秘書官室には来客も多い。

 代議士や財界人、新聞記者などがしょっちゅうやってくる。特に無遠慮なのは参謀本部の軍人だ。約束もしていないのに「日下部秘書官はおるかあ!」とがなり立てて現れて、職員たちをじろじろ見る。

 誰かが席を外すと、机の書類を勝手に読んだり、電話のやりとりにも耳をすませている。外務省の動向を探りにきているのだ。

 日下部が言うには「やつらの親玉のつるぴか頭にへいこらしないうちのボスが、連中、目障りでならんのだよ」とのことだ。

 ここ外務省の長である重光葵しげみつまもる大臣は外交官出身で、卓越した国際感覚の持ち主だそう。開戦に最後まで反対し、東条首相ににらまれているらしい。暁子が直にこの方と言葉を交わしたのはただ一度、初出勤の日だった。

 新人事務員として執務室へご挨拶にうかがうと、外相は眼鏡の奥の小さな目を細めて、父の名をだした。

「お父上の白川伯は、あなたが勤めにでるのに反対しませんでしたか?」

「うちは放任主義ですので。『この国の中枢がどんなところか見てくるといい』とだけ言われました」

 そう答えると外相は、はははと笑った。切れ者政治家が一瞬だけ普通のおじさんになった。そのとき分かったのだが、重光大臣の右脚は義足だった。十年以上前、上海で爆弾テロに襲撃され片脚を失ったのだという。暁子の視線に気づき、「今の時代、外交も命懸けです」と大臣は淡々と言った。


 まだ勤めはじめて間もない、ある日の午後のこと。暁子が明日の会議の資料づくりをしていると、

「日下部はおらんか!」

 ドアをノックもしないで、壮年の軍服姿の男が部屋に入ってくる。獅子舞みたいにいかめしい風貌だ。つかつかと日下部のデスクへ、つまり自分の席の方へ大股で近づいてくる。肩の徽章を見ると星三つ、大佐である。日下部は重光大臣と一緒に外出していた。

 自分の不在中に外部の者がやってきたら、机上の書類はすべて隠すようにと指示されている。暁子は日下部の机に目をやり、唖然としてしまう。書類はないが落書きが一枚あった。

 禿頭に眼鏡にちょびひげの男が、ふんどし一丁で腰に手をあててふんぞり返っている。絵の横には日下部の筆跡でこんな文言が。

『ヤアヤア、我コソハコノ国ノ裸ノ王様ナリ』

(日下部秘書官っ……なにを描いてるんですか……っ)

 しかも無駄に絵が達者。禿げ頭、丸眼鏡、ちょびひげと、誰を描いているのかひと目で分かった。あの獅子舞大佐に見られたら一大事だ。机をひっくり返されかねない。

「あ、あのっ、日下部はただいま外出しておりまして」

 大佐の前に立ちふさがるようにして、ずいと進む。

「なんだ貴様は! 見ん顔だな」

 大声をぶつけられるが、ここで震えあがってはならない。助けを求めるように周りを見るが、他の室員は我関せずといったふうに仕事している。

 暁子は小さく深呼吸して気持ちを整えると、鷹揚に微笑み返す。

「わたくし、先日より日下部の下で働いております白川と申します。若輩者ではございますが、何卒よろしくお願い申し上げます」

 しずしずとお辞儀をして、再びにっこりする。少々首をかしげるのがポイントだ。パーティーや夜会でさんざん振りまいてきたよそいき用の笑顔を見せると、獅子舞大佐は気勢をそがれたように「う、うむ、そうか。励めよ」もごもごとつぶやく。

「あのう、失礼ながらボタンが……」

 暁子は大佐の腹のあたりに視線を落とす。軍服のボタンがひとつ、外れかかってぶらぶらしていた。

「な、なあに。こんなもの」

 むしり取ろうとする指毛の生えた硬い手に、そっと自分の手を添える。

「よろしければ、わたくしがお付けしましょうか。裁縫道具もございますので。もしご迷惑でなければ……」

「そ、そうか」

 ちょうど空いている控えの間へ大佐を連れていくのに成功し、暁子がボタン付けをしている間、東条首相の落書きは他の職員が無事、回収した。

 その一件は瞬く間に拡散した。

 政務秘書官室の新人女子職員が、海千山千の陸軍大佐を手もなくあしらった……というニュースが省内に流れ、

「機転がきくねえ。感心したよ」

「華族のお嬢さまなんぞと思っていたけど、見直したな」

「軍人相手にひるまず、よくやった」

 先輩室員から口ぐちにそんな言葉をかけられた。そのとき初めて、自分がほんとうの意味で受け入れられたと感じた。

 もしかしたら、日下部があの落書きを机に置いておいたのは、わざとだったのかもしれない。上司の不在時に面倒な客がやってきても、暁子がちゃんと対応できるかどうか試すために。

 まったく外務省は油断がならない。

 ちなみにその獅子舞大佐は、以降もちょくちょくやってきては日下部ではなく、なぜか自分に話しかけてくるようになった。

「配給は足りておるか」「日下部にこき使われてはおらんか」といった具合に。

「このぶんだと近いうち、嫁にならんか、なんて言ってくるんじゃないのかねえ、白川くん」

 冬の日の残業中、焼いた芋をふうふうと食べながら日下部が言ってくる。燃料不足でスチーム暖房の使用が制限されているので、屋台で買ってきた焼き芋で一同、暖をとっていた。

「ちがいない。あの大佐殿、白川嬢にホの字ですな」

「たしかあいつぁ、いい年こいてまだ独身だったっけ」

「どうだね白川女史、参謀本部の大佐といえば上級将校だ。わるかぁないよ」

 などと周囲は軽口を叩いてくる。暁子も焼き芋をぱくつきつつ、

「あいにくですが、わたくしは結婚しないと決めております。特に軍人さんとは」

 ここへ務めるようになってからというもの、自分も周りに感化されたようで、軍部への不信を抱くようになってきていた。

 暁子の発言に男たちはどっと笑う。

「そうそう。結婚するならなんたって軍人よりも文官ですよ。なんせやつらは威張るしか能がないんだから」

「でも案外、家庭ではかあちゃんに頭が上がらんのかもしれんぜ」

「それは、おまえさんちだろう」

 わいわいと雑談が続くなか、焼き芋を包んでいた新聞紙を片づける。これも焚きつけの燃料になるのだ。『ラバウル激戦中!!』というかすれかかった見出しに目がとまり、くしゃりと丸める。

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