第六章 油断のならない男たち(1)

一 


 職場へは市電と地下鉄を乗り継いで通っている。

 電車のなかで周りからよくじろじろと見られているのは、分かっている。最近では珍しくなった洋装を――いわゆる非国民ルックをしているからであろう。

 男性はカーキ色の国民服、女性はもんぺが常服とされるようになった今でも、暁子は毎日ワンピースやスーツ姿で出勤している。

「おい、きみ」

 朝の地下鉄で、隣りあわせている若い男が咎める口調で言ってくる。

「なんだね、その派手派手しい身なりは。この非常時局に。今がどういう状況なのか分かっているのかね」

 男は眼鏡に国民服、肩にはズダ袋をかけている。いかにもまじめそうな勤め人というところ。一方こちらは白抜きの丸襟にライトブルーのワンピース。足もとは赤のパンプスだ。

「もちろん知っておりますわ。だけど非常時なればこそ、多少の明るさも必要なのではないでしょうか」

「屁理屈はよしたまえ」

 言い返されたのにむっとしてか、男はしかめ面をする。

「だいたい朝っぱらから、そんな浮かれた恰好してどこへいくというのだ。男のところか、ええ」

「もちろん勤め先です。あなたと同じように」

 男はふん、と鼻を鳴らし「どうせ男相手の商売といったところだろうが」

 そこで暁子は微笑んで、

「外務省で働いております」

 その返答に、男は目を丸くする。

「政府や軍の高官も出入りするところなので、女子事務員といえどもそれなりの服装をしなければならないのです。お気にさわったらごめんあそばせ」

「あ、い、いや……そうですか」

 そこで電車が虎ノ門駅に到着し、暁子は悠々たるステップで降車する。

 ここは、各省庁がひしめきあう霞が関の官庁街だ。駅から歩くこと五分。立派な建物群のなかで際だって古めかしい木造建ての西洋館が見えてくる。外務省である。そこの政務秘書官室で働くようになって数ヶ月が経っている。

「まったく度胸がいいなあ、白川くんは。僕の方がひやひやしたよ」

 背中に声を当てられて、振り向くと痩身の男が後ろにいる。

「さっきの見てらしたんですか」

 暁子の頬がさっと赤らむ。

「でしたら助けてくださればよかったのに」

「そうする前に、ああだもの」

 紺色の背広にタイ、白シャツ。オールバックにした髪には白いものがぽつぽつと交じっている。年の頃は三十代後半。削いだような頬と鋭い目つきが特徴的なこの人物は、日下部くさかべ秘書官。政務秘書官室の取りまとめ役であり、暁子の直属の上司でもある。

「さすがは面接の場で『もんぺは断固、穿きません』と言ってのけただけはあるね」

 その言葉に頬がいっそう赤くなる。

 この年の春、外務省は女子の臨時職員を数十名募集する告知をだした。学習院の高等科を卒業し、華族会館で奉仕活動をしていた暁子はさっそく応募した。傷病兵のための浴衣縫いや包帯巻きなどの慣れない手仕事よりおもしろそうであったし、なによりもちゃんとした就職先を求めていた。

 というのも、労働力不足で未婚女子の徴用がはじまる気配があり、ぐずぐずしていたら、どこかの軍需工場へ動員させられるかもしれないからだった。

 試験会場に集ったのは、帰国子女や留学帰りといったそうそうたる経歴の令嬢ばかりで、正直いって圧倒された。彼女らと比べたら自分の語学力も学歴も海外への見識も、まるでお話にならない。

 採用されるとは思わなかったが、まさかの合格通知が届いてびっくり仰天。それも省内の中心である“官房政務秘書官室”への配属とのことだった。

 そこは外務大臣を補佐する事務官らの室である。日下部の他二名の秘書官がおり、その下にそれぞれ五、六名の部下がいる。暁子は日下部づきの最末端の見習い事務員として採用された。机も彼のすぐ隣だ。

 登庁初日、省内にある局や課、業務内容の説明などをあらかた受けてから、思いきって訊いてみた。並み居る応募者を押しのけて、なぜわたしが受かったのでしょうか……と。すると日下部はシャープな頬をかすかにゆるませ、こう言った。

「なに、面接のときのきみの答えが振るっていたのでね」

 最終面接では外務省を志望する動機を問われ、暁子はこのように答えたのだった。

『外務省勤めなら、もんぺ袴を穿かなくともいいと思ったからです』

 他の志望者たちが御国のために、といったお決まりの文句フレーズを口にするなかで、ひとり異彩を放っていたそうだ。そういえば、たしかそのとき面接官のひとりだった日下部から重ねてこう問われたのだった。

『ではきみは、もんぺ嫌さに政府の職員になりたいというわけかね』

『はい。そのために早く戦争が終わってほしいのです。そのお手伝いがしたいのです』

 我ながら、やらかした答弁だったとあとで猛省したのだが、どういうわけか日下部の気に入ったようで、こうして彼の部下となっている。


 登庁するとまずは職員一同、中庭で体操をする。それから朝礼。続いて訓示を受けて始業となる。

 女子学習院が女の園であったのに対し、ここ外務省は男の砦である。政務秘書官室に詰めているのは、いずれ劣らぬエリートぞろいだ。彼らは煙草をすぱすぱ吸いながら、暁子にいろんな雑用を言いつける。といってもお茶汲みやタイプなどではない(タイピストたちはまとめて別の部屋にいる)。

 電信課から送られてくる各国の戦況のまとめ。機密書類の仕分け。会議の議事録作り。これまで若手事務官らがしてきた仕事を――彼らが戦地へ送られたため――ついこの間まで女学生だった自分がするようになるなんて。毎日が緊張と興奮でいっぱいだ。

 ミスをすると容赦なく叱責される。だがそれだけに彼らは仕事熱心で、分からないことを質問すると、面倒がらずに教えてくれる。

 ここでは男だろうと女だろうと、華族だろうと平民だろうと関係ない。外務大臣の手足となって動き、己の職務にまい進する者たちの熱気が漲っている。そういう場に身を置くのは心地よかった。身分や立場などは関係なく、ただ有能か否かだけで判断される。とてもシンプルで厳しく、健全な環境だ。

 届けられる情報ニュースには誤報デマフェイクも混ざっている。それらを取り除くのも自分の仕事だった。最初はどれが嘘で、どれがほんとうかも分からなかったが、膨大な量の情報に毎日接しているうちに、だんだんと見分けがつくようになっていった。そうしてこんな疑問を抱くようになっていた。

 もしや日本は戦争に敗けているのではないだろうか……と。

 アッツ島の玉砕を皮切りに、このところの軍関連の情報には「撤退」「退却」「撃沈」なる文言ばかり並んでいる。ラジオで流されている大本営の発表とはまるで反対だ。

 枢軸国の状況もかんばしくない。イタリアではムッソリーニが失脚し、ドイツもソ連で大敗してからというもの精彩を欠いている。なのにラジオも新聞も威勢のいいことばかり伝えている。

 海外からの電信と国内の報道と、どちらが正しいのだろう。

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