平和が終わる(7)
その頃、出征する男子には千人針と守り袋を持たせてやるのが常だった。
貢に贈る千人針に、邸内の女たちが一針ずつ布に赤い結び目をつくっている。「お嬢さまもお願いします」と頼まれるが、
「こんなの何針刺したって意味ないわよ」
そう言ってやると、唖然とした目を向けられた。
『暁子お嬢さまは情が強い方』
『長らく運転手を務めてきた者が召集されるというのに、眉ひとつ動かさない方』
『そんなご気性だから、お嫁の貰い手が見つからないのでは』
そんな陰口を叩かれるようになる。邸のなかは少しずつ、どこかぎすぎすした空気が漂うようになっていた。貢だけでなく若い男性職員がいよいよ減ってきて、残っている男といえば田崎をはじめ中高年の者ばかり。女中たちの質も下がりつつあり、廊下の隅や窓枠には埃が残っていることもある。
日本軍は連合軍相手に勝っているはずなのに、生活はちっとも上向きになっていない。開戦当初こそ景気がよくなったかに見えたものの、それはほんのいっときだった。
田舎へ戻ったクニには何度か手紙を書いた。あたりさわりのない、お元気ですか、といった内容の。クニからの返事もそのようなものだった。
貢との結婚が破談になったいきさつや、なぜ自分に黙って女中勤めを辞めたのか――など訊きたいことはたくさんあったが、それらはけっして書かなかった。書くのが躊躇われた。
人は、ほんとうに書きたいことほど書けないし、訊きたいことほど訊けないものなのかもしれない。そのうちクニとの手紙のやりとりは、いつとはなしに途切れていた。
令状が届いて数日後、貢の出立する日がやってくる。
午前八時、本館前の庭先で当主の玄真以下、邸内の者がそろって見送りをする。まだ朝だというのに日射しがきつく、白砂利に濃い影が差している。貢は軍服ではなく平服だった。開襟シャツにカンカン帽。戦地ではなく、ちょっとそこまで出かけてきます、といった感じの恰好だ。
暁子は父の傍らにワンピース姿で立っている。クニから贈られた珊瑚色のワンピースだ。この日、初めて袖をとおした。自分でいうのもなんであるが、とても似合っている。
「黒田貢くんの武運長久をここに祈り、万歳三唱してお見送りしたいと思います」
田崎の合図で一同そろって万歳をすると、貢は気負ったふうでもなく「参ります」と敬礼で応える。掲げた右手の下の目が自分を捉えている。その視線を無表情、かつ無感動に受けとめる。これでお別れかもしれないのに、感情はまるで動かない。
そして貢は出征する。防諜のためということで旗振りも、楽隊による演奏の行進もない。すこぶる簡素な見送りだった。職員たちは各自の持ち場へ戻って仕事にとりかかる。いつもと同じ日がはじまる。
「さあ、朝食にしようか」
父に声をかけられて邸へ戻ろうとすると、その日最初のセミが鳴きだす。ミーンミーンという鳴き声を耳にして、足が不意に止まった。
すぐにいきます、と父に言うと、庭園の林の方へと歩きだす。木々が近づくにつれセミの鳴き声が増えてくる。
ミーンミーン、ジージー、ジリジリジリジリ、シャワシャワシャワシャワ。
林のなかでひときわ立派な桜の大木のところまでくる。昔よく、この木にくっついているセミの抜け殻を採った。貢に肩車をさせて、よじ登ろうとした。だけど腕の力が弱くて、なかなか上手に登れなかった。今はもうひとりでも登れるだろうか。
幹のでっぱりに足をかけて、太い枝をしっかり掴む。足と手を交互に動かし、ゆっくりと登ってゆく。幹と大きな枝の分かれ目のところにまで到達すると、枝を支えにしてその場に立つ。そこからの景色を眺める。正門の外の方、駅方向の道路へと目を凝らす。カンカン帽に背丈の高い、若い男がいないかどうか。
いた。それらしき人物の後ろ姿を捉える。
「み」
と、いきなり向こうが振り返り、ぎょっとした拍子にバランスを崩してしまう。ざざざざっと派手な音を立てて木から落ちてしまう。大ぶりの枝がうまいことクッションになってくれた。
「いたた……っ、つぅ」
腰を打ち、肘と膝を擦りむいた。そんな自分を笑うみたいに、頭上でセミたちがやかましく鳴いている。
いってしまった。クニも貢もいってしまった。みんなそれぞれ、ばらばらになってしまった。自分たちの平和な時代は終わったことが、いま分かった。
目にぐっと力を入れて、熱いものがにじみそうになるのをこらえる。これはお尻が痛いからだ。それと膝から血がにじんでいるからだ。
よいしょ、と立ち上がろうとして、すぐそばの枝にセミの抜け殻がついているのに気がつく。羽化したてなのか、まだ半透明だ。朝の光を浴びて透きとおって美しい。手を伸ばしかけて、習慣的にとろうとするが、やめておく。そのままにしておいた方がいい。
ワンピースについた土埃を手で払うと、本館の方へ戻る。今日も勤労奉仕がある。朝食をとってから急いで準備をしなければ。
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