平和が終わる(6)
夜になると雪が降ってきた。
父はこのところの夜会続きでさすがに疲れているようで、零時を過ぎると暁子とワインを一杯呑ると自室へ引き上げた。
明日(もう本日だが)の元旦も忙しくなる。庶民にとって正月はのんびり過ごせるお休みだが、皇族や華族にとっては一年で最も多忙な数日間だ。元日の早朝に陛下が伊勢神宮と四方の神々に祈りを捧げられる「四方拝」を皮切りに、重要儀式が立て続けに行われる。白川家は宮中に召されるほどの大華族ではないが、宮家への新年祝賀のご挨拶など、それなりに予定が詰まっている。
あまり夜更かししないで、自分もそろそろ眠った方がいいだろう。
雪の降り具合をたしかめようと窓辺に寄ると、粉雪がひらひらと舞っている。闇夜に交じる雪の白さにしばし見とれる。今頃、クニと貢はどのあたりだろう。大阪か神戸か。夜行列車はちゃんと暖房がきいてるだろうか。クニの風邪がぶり返さないといいのだが。まあ、貢がついているから大丈夫だとは思うけど……。
そんなことを考えていると、真っ暗な前庭に小さな光が見えた。季節外れの蛍のような、いや、もっと赤い。どうやら煙草の火のようだ。
こんな寒いなか、わざわざ外で煙草を吸ってるなんて誰だろう……とガラス越しに目を凝らしてみて、我が目を疑う。外套を掴んで部屋を飛びだす。
玄関扉の内鍵を開けて小砂利をきゅっと踏むと、煙草を吸ってる人物が、こちらに顔を向ける。その顔に驚きはない。静かな表情だ。見慣れたその顔が、自分をまっすぐ見ている。
「なんでここに……いるの」
貢だった。黒の外套姿に無帽の貢は、煙草を指に挟んで煙を吐く。細い煙はたちまち夜風にかき消される。
「あ……夜行列車に間に合わなかったの? 明日の朝に出発するの?」
そうであってほしい。どうか。自分でも気づかずに問いかける声がゆらいでいた。貢は薄い唇をゆっくり開く。降る雪の音が聞こえそうなほど耳に意識が集まる。低い声で彼は言う。
「広島にはいきません」
「どう……して?」
「クニとの祝言は取りやめました」
しばし間が空き、もう一度「どうして?」と尋ねる。
「問題でも起きたの? あちらのご家族になにか御不幸があったとか、クニと喧嘩したとか。あ、それとも……召集が、かかったの? それで……」
それで結婚するのを延期した、とか。召集令状を受けた男性のなかには、恋人や許嫁との仲を断ち切って出征する人も多いと聞いている。万が一の場合のため、相手を悲しませないように。
しかし貢は首を振り、どれでもないと言う。
「結婚する気が失せたのです。それだけです」
「……え?」
「お騒がせして申し訳ありませんでした」
「な――」
言葉を失う。
いったいどういうことなのか。祝言を取りやめるなんて、なにがあったのか。クニはそれを知っているのか。
と、そこで夕方のクニの様子を思いだす。クニはどことなく変だった。言葉の端々に、表情のひとつひとつに不安定さがあった。別れ際には涙ぐんでいた。なのに自分はなにも気づかず、笑って送りだした。
「クニはどこ?」と尋ねると、「存じません」という返事がくる。
「予定どおり夜行に乗って実家へ向かったのでしょう。ひとりで」
「あぁ」
嘆息が洩れる。両手で顔を覆う。
「だめよ、そんなのだめよ」
その場にしゃがみ込みたくなった。貢は靴の裏で煙草を消す。その落ち着き払った動作は、ひどく冷たい。先日の彼とはまるで別人だ。あのとき――自分が行方をくらましたとき、貢は探しにきてくれた。貢の胸のなかで思いきり泣いた。泣いてすっきりした。自分のなかのなにかが、ふっきれたみたいだった。なのに、どうしてこんなことに。
「わたしのせい?」
ふと、口からこぼれる。深い意味はなく、ただ、なんとなく。すると貢の肩がぴくりとゆれ、答えるのが数秒、遅れた。
「ちがいます」
重ねて言う。強調するように。「お嬢さまは一切関係ありません。これは自分たちの問題です」
「ほんとうに? ほんとうにわたしは関係ないの?」
「はい」
「じゃあ、なぜクニとの結婚を取りやめたの?
主人の口調で詰問する。貢の顔をじっと見つめ、声に命令の響きを添えて。しかし貢は同じ答えを繰り返すばかりだ。あの女と結婚する気がなくなりました、と。
「そう」
冷えた声で言い放つ。
「おまえには失望しました」
久方ぶりに貢を「おまえ」呼ばわりする。耳がじんじん熱をもち、寒風も気にならない。
「もう顔も見たくありません。本日より、わたくしの運転手を勤めなくともけっこう。この邸内でもう二度とわたしの前にあらわれないで」
蔑むものでも見るように一瞥し、邸へ戻る。音を立てないように階段を上り、自室に入ると窓辺へ近づく。ガラス越しに前庭を見下ろすが、もう誰もいない。
墨色をした夜空に雪片が舞っている。まるで桜吹雪のようにくるおしく舞っている。
正月休みが終わってもクニは戻ってこなかった。
七草が過ぎても、小正月が過ぎても。そうして一月も終わろうとする頃、ようやく正式に退職した旨を菊野から告げられる。表向きは、実家の母親が病気になったので看病するため、とのことだったが、真の理由は分かっている。
「おまえがクニを辞めさせたのではないの? 結婚が破談になったので、なにかと面倒になるのを憚って」
菊野に問い質すと「とんでもございません。わたくしも驚いております」
そう答えるが、はたしてほんとかどうか。
「むしろ辞めてほしかったのは、残っている方でございます」
こちらは本心のようだった。菊野の鼻にしわが寄っていたから。菊野としても、あの二人の結婚が潰れたのは思惑ちがいだったらしい。クニが去り、貢は残った。貢は今、田崎の下で事務職員として働いている。
暁子にはクニの代わりとなる女中がつき、年明けから学校には市電で通うようになった。市電友だちとなった遠藤さんとご一緒に。新しい運転手を雇おうか、と父は言ってくれたのだが、「このご時世ですから」と断った。
それは貢への、一種の当てつけかもしれなかった。それとも純然たる非常時意識、倹約精神かもしれなかった。自分でもよく分からなかった。
ともあれ、貢に対して再び怒りが湧き上がっていた。クニを傷つけ、悲しませた。結果、ここにいられなくさせた。二人を祝福しようとしたこちらの気持ちも踏みにじった。そんなひどい男だと思わなかった。
和解できたと感じた矢先に、またも失望させられた。それも前よりも深く強く。貢の顔など見たくない。同じ邸内の空気を吸うのも嫌だった。
そうして冬が終わって春になる。学校では英語だけでなく、ドイツ語とイタリア語以外の外国語の科目がなくなり、代わって勤労作業と薙刀の授業が加わる。ラジオや新聞報道によると、日本軍は依然として破竹の勢いで連勝を続けている。
七月に入ってようやく梅雨が明け、開戦して最初の夏がこようとする頃、予備役である貢に応召がかかる。その知らせをお付き女中から聞いたとき、暁子は読んでいた『Wuthering Heights』から顔を上げて、ひと言。
「あ、そう」
そしてページに再び目を落とす。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます