平和が終わる(5)
三
戦争がはじまってから街には活気がでてきた。
百貨店では開戦記念の大売り出しが行われ、ラジオや新聞は日々海軍の華々しい戦果を発表している。まるで、長いこと空にかかっていた暗雲が急に消えたかのように人びとの表情は明るい。誰もがこの戦争を支持し、応援しているようだった。
「どうだかねえ。イギリスはともかくとしてアメリカは強大だよ。そんな国に戦をしかけてはてさて、どうなることやら」
戦勝の空気に沸くなか、父の玄真は水を差すようなことを言う。
「御前さま、めっそうなことをおっしゃいますな」
控える田崎が慌ててたしなめると、
「大丈夫。家の外ではこんなこと言わんよ。特高に聞かれでもしたら、おお怖い」
父はおどけたふうに、ぶるっと震えてみせる。
「でも、日本軍は順調に敵の軍艦を沈めているではないですか」
暁子は言うが、「それも今だけだね」と父はにべもない。
「考えてもごらん。私たちが戦勝を聞いてるラジオも、わが家の車もみんなアメリカ製だ。あの国の技術力は世界一だよ。そんな国を相手にしてどうやって勝とうというの」
お父さまは若い頃フランスで過ごしていたから欧州びいきなのでしょう、と指摘すると、
「昔はね。でも今は欧州も下り坂だ」とにべもない。
「お父さまは日本人のくせにアメリカの味方をなさるの」
咎める口調になってしまった。ことさら意識しているわけではないのだが、こうも毎日「戦勝」ニュースを聞いていると、自然と愛国の思いが湧いてくる。それに戦争はもうはじまってしまったのだ。ならば勝たねば意味がない。
ちょうどこの頃、英語科のホランド女史をはじめ、連合国出身の外国人教師たちは学校を去ることになった。以前、危惧した予感が現実となった。中等科の頃からお世話になってた先生方だけに名残惜しい。
最後の授業で、女史は生徒ひとりひとりに自分の蔵書を一冊ずつ譲ってくれた。これから英語を勉強するのが困難な状況になるでしょう。でもどうか各自で学びに励んでください……と。暁子が譲り受けたのは『Wuthering Heights』という本だ。私のお気に入りのロマンス小説なのよ、と女史は微笑んでそう言った。
開戦ムードで上流社会もにぎわいを取り戻していた。パーティーやら晩餐会やら忘年会やらが続くうち、年の瀬が押し迫ってくる。菊野の指揮のもと「奥」の女たちは邸内を磨き立て、「表」の男たちは歳暮に年賀状の手配にと、さまざまな行事の準備で忙しい。
そうこうするうち、あっという間に大晦日がやってくる。
白川家の使用人たちは年末年始は交代制で休みをとることになっている。クニは毎年正月にも実家に帰らず、やれ新年会やらお年賀やらの行事につき従ってくれたものだけど、今年ばかりは帰さなければ。なんたって結婚旅行を兼ねての里帰りとなるのだから。
三十一日の夕方、クニが部屋まで挨拶にくる。今夜の夜行の切符をとったそうだ。
「貢は? 一緒じゃないの?」と問うと、「あの人は旦那さまからご用事を言いつかりまして」とクニは答える。
風邪が抜けきっていないのか、どことなく顔色が悪い。ふっくらとした頬が面痩せして、目の下にうすい隈がある。遠慮するクニをソファに座らせ、しばし雑談をする。地元の広島はどんなところか、なにがおいしいか、など尋ねる。
「お嬢さま。あの、こちらを」
タイミングを見て、クニは旅行かばんから風呂敷包みを取りだした。包みの結び目をほどくと、鮮やかな珊瑚色のワンピースがあらわれる。
「以前、お嬢さまからいただきました単衣の着物を仕立て直してみたんです。あんまり華やかなお色なので、自分で着るのはどうも気後れしてしまって」
クニは微苦笑をする。それは胸もとがVの字型になっている洒落たデザインで、同じ布地で作ったリボンもついていた。ベルトにしてもスカーフにしてもよさそうだ。
みごとな仕立てに惚れ惚れする。そう、クニは洋裁が得意なのだ。これまでにも何着か作ってもらったことがあるが、一段と腕を上げたようだ。
「これ……ひょっとして、わたしに?」
「先日ちょうだいいたしました簪とかんざしに比べたら、まったくお恥ずかしいものですが」
「ううん。こっちの方がずっとすてきよ。クニ、すごいわ」
ワンピースを抱きしめる。
「ありがとう。大切に着るわね。ありがとう」
「わたくしこそ、ほんとうにありがとうございました。お嬢さまに長年お仕えして、クニはしあわせでした。どうぞお身体にお気をつけて……」
そう言いかけるクニに「ちょっとちょっと、どうしたの」と笑いかける。これっきりお別れみたいなことを言って。
「お正月休みが終わったら、また会えるんだから。帰ってきたら結婚式がどうだったか、詳しく聞かせてね。約束よ」
クニの肩をぽんと叩くと、潤んだ目を当てられる。泣こうか、それとも笑おうか迷っているみたいな表情だ。そうしてクニは泣き笑いをする。
「よいお年をお過ごしくださいませ」
「クニもね。貢とのお正月、楽しんでね」
クニは深々と頭を下げて退出する。
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