平和が終わる(4)

 帰り道の途中にあった商店で、貢は電話を拝借する。

 車へ戻ってきた貢に「どうだった?」と言うと、彼は苦笑して首を振る。

「まあ、菊野さんからお叱りを受けるお覚悟はしておいた方がいいでしょう」

 父は今夜は別宅で過ごす予定とのことだった。それを聞いて胸を撫でおろす。菊野の説教なら慣れているので平気だが、父には心配をかけたくなかった。

 電話のついでに貢は食べるものを買ってきてくれた。「こんなものしかなかったのですが」と牛乳とシベリヤを渡される。

「ありがとう」

 お腹がぺこぺこだったので、さっそくかぶりつく。とてつもなく甘い。

 忘れもしない。この菓子を初めて食べたのはずっと昔、誘拐団に攫われたときだった。自分が六つで貢は十三、クニが十四歳の頃のこと。空き倉庫に閉じ込められて大変な目に遭った。特に貢が。おそろしいはずの思い出なのに、それさえもなつかしい。

「ねえ貢」

 運転している貢に語りかける。「どうかクニにやさしくしてやってね」と。

「結婚してもお芝居を観にいくのは許してやってね。クニは宝塚が大好きだから。それと、分かっていると思うけどクニは泣き虫だから、きつい言い方はしないであげて」

「はい」

 ルームミラーに映る貢はうなずく。

「お願いね」

 東京いきの街道を車は静かに走る。行き交う自動車はほとんどなく、窓の外は真っ暗だ。途中で一度、給油した。給油所のトイレを使って暁子が戻ると、貢はフォードのそばで一服していた。細く白い煙が夜空に吸い込まれていく。

「待たせたわね」

「いいえ」

 貢は靴の裏で煙草を押し消す。頬にガソリンの茶色い筋がついていた。

「ついてるわよ」

 暁子は笑って、手にしているハンカチで、頬を拭いてやる。はっとする。

「これは」

 貢も気づいたようだった。洗いざらした木綿の布地に、赤い糸で刺繍されたM・Kのイニシヤル。元々は彼のものである。

「あ……こ、これは」

 言い訳口調で弁解する。

「ごめんなさい。ずっと返さないままでいて。でもね、でも……ずっと返そうとは思っていたの。手紙にもちゃんと書いたじゃない。竜山から戻ってくるまで預かってます、って」

「手紙?」

 貢が怪訝な顔をする。

「そうよ。ちゃんと書きました。何度もね。クニに頼んで送ってもらってたのに……返事が全然こないんだもの。あれはひどいと思うわ、貢。わたしかなり傷ついたわ」

 手紙の返事がこないことに、自分はずっと怒っていた。傷ついていた。それで貢にずいぶんきつく当たっていた。われながら子どもっぽいとは思うけど、真っ当な憤慨だ。

 返事がないのは、貢の身に何かあったからではないだろうか。前線に飛ばされて、南京や徐州で中国兵と戦っているからでは……なんて心配を、ずっとしていた。

だけどそうではなかった。貢は兵役期間の二年間、安全な竜山基地にいたというのだから、そりゃあ腹も立とうというものだ。

「その……誠に申し訳ありませんでした」

 貢が歯切れ悪く謝ってくる。

「いいのよ、いいの。終わったことよ、もう」

 自分もきまりが悪くなり、手のひらをぱたぱた横にふる。そしてハンカチを丁寧にたたんで貢に渡す

「長らくお借りしていました。謹んでお返しします……って、こんな古くなっちゃったの、いらないわよね。新しいのを買って返すわ」

「いいえ。これが」

 貢は古びたハンカチを受けとると制服のポケットに入れる。長年使い込んできたそれを渡してしまい、まるで自分の一部を渡してしまった感じがした。

 邸に帰り着いたのは、日が変わろうとする頃だった。本館の扉をこわごわ開けると、玄関の廊下で菊野が待ちかまえていた。

「お帰りなさいませ。ずいぶんごゆっくりでございましたね」

 穏やかな口調なのが、かえって怖い。菊野は暁子の外套を預かると、入浴の準備ができていると告げる。

「今日のところは、ひとまずお休みください。お話は明日の朝にいたしましょう」

 首をすくめて「はい」と答える。クニは迎えにでてこなかった。風邪をひいて、昨日から勤めを休ませていたのだ。すぐに風呂へ入ってベッドに潜り込む。

 長い一日だった。朝、学校へいくときは、こんな一日になるとは思ってもいなかった。この数年来でようやく貢と、ほんとうの意味で会話ができた。そんな思いを抱きながら目をつむる。


 翌朝は快晴だった。窓を開けると、清浄な冷気が頬を刺して眠けが吹っ飛ぶ。

身支度を整えて階段を下りると、邸内の雰囲気が妙に浮ついている。通りすがりの女中が挨拶もそこそこに、

「お嬢さま、とうとうはじまりましたわね」

 興奮した面持ちで言う。食事の間へ向かうと、マホガニーの棚の上のラジオが緊急放送を流していた。

『大本営陸海軍部発表を申し上げます。本日十二月八日未明、大日本帝国軍はアメリカ・イギリス軍と、西太平洋において戦闘状態に入れり。繰り返します、繰り返します。本日八日未明……』  

 聞き慣れた国営放送の男性アナウンサーの声が、同じ放送を繰り返している。

「……どういうこと?」

 ぽかんとする暁子に給仕の者が意気揚々と説明する。

「日本の戦闘機がアメリカの軍港をぶっ叩いてやったそうです。さすがは山本五十六大将ですね。わたくし、胸がすうっとしました」

 いつのまにか戦争がはじまっていた。自分のあずかり知らないところで平和が終わり、戦争がはじまっていた。

 その日は学校でも開戦の話題で持ちきりで、どなたも平常心を失っていた。あの菊野ですら熱に浮かされたみたいになってて、料理長に赤飯を炊かせていた。おかげで昨日の件はうやむやになり、説教を喰らうのを免れた。


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