油断のならない男たち(4)

二 


 年が明けて昭和十九年一月、いよいよ省内でスチーム暖房の使用が全面的に禁止される。

 ただでさえ古い木造建てなので、外にいるよりも室内の方が寒いくらいだ。みな外套や襟巻を着けたままで仕事している。ダンディズムをかなぐり捨てて、スキーズボンを穿いている者までいる。

 誰かが丸火鉢を持ってきてくれたのだが、火を熾す炭まで足りないときている。仕方なく反故紙などをちぎって暁子が火鉢にくべていると、例の獅子舞大佐が木炭を差し入れにきてくれた。

「女子は腰を冷やしてはいかんぞ。なあに、参謀本部にはたんとあるのだ」

恐縮しつつもありがたく頂戴することにする。炭の詰まった木箱を運ぶ大佐の部下に「あ、壁際の方へ持っていっていただけますか」と指示をだす。

「このあたりでよろしいですか」

「ええ。どうもありが――」

 木箱を置いて立ち上がった部下の顔を見て、呆気にとられる。真雪だった。倫子の従兄弟の。

「う、上杉大尉……さま」

「今は少佐となりました」

 真雪もまた、驚きまじりの笑みを浮かべている。

「ここに勤めていらっしゃるとは驚きました。お元気そうでなによりです」

「上杉さまこそ……あ、あの、倫子さんはどうしてらっしゃいますか」

「ああ、ちょうど今つわりで苦しんでいるみたいです」

 真雪は手のひらを腹にあてて、丸いかたちをつくる。

「まあ。それはおめでとうございます」

「あのお転婆娘が親になるとは、時の流れを感じます」

「上杉さまの方は奥さまはおもらいに……」

 何心なくそう言って、はっとする。たしか真雪には将来を誓いあった女中がいたのだった。彼らの接吻場面を少女時代に目撃して、他言しないよう固く口止めされた。あのときは真雪がとても怖かった。自分もまた幼かった。

 真雪はふ、と微笑んで、「あいにくまだ独り身でおります」

「そ、そうですか」

「上杉、なにをくっちゃべっとる! さっさと炭をだして火鉢にくべんか!」

 獅子舞大佐が吠えるような声で命じる。「は! ただいま」真雪は木箱を開け、白みがかった上等の炭を取りだす。

 その数日後。上杉伯爵家から暁子宛てに電話がくる。今度の週末、昼食にお招きしたいという内容だった。

「上杉さまから? なぜかしら」

「それはわたくしには分かりかねます」対応した菊野が答える。

「先様は日曜日の十一時頃に迎えのお車を寄こすとのことですが……お断りなさいますか」

 招待されるような心当たりはないが、さりとて断る理由もない。

「いいわ、いくわ。そうご返事をしてちょうだい」

「かしこまりました。訪問着をご用意しておきます」


 当日は久しぶりに振袖に身を包む。

 本年度から政府の方針で年末年始の休みが廃止となり、正月から通常どおり出勤していた。差し入れされた炭はあっという間になくなって、同僚たちから「白川くん、獅子舞大佐にお代わりをおねだりしてくれよう」などと言われている。

 鈍い青色の絞りの小紋に、焦げ茶色の帯。帯には白の絹糸で牡丹の花が刺繍されてある。この季節にふさわしい、さえざえとした装いだ。髪もすっきりと結い上げている。

 十一時ちょうどに迎えにきた車に乗って上杉邸へ向かう。小石川にあるその邸宅は、倫子の実家である久遠寺家に勝るとも劣らない広大な敷地だった。

 立派な門をくぐると、そこから先は別世界に紛れ込んだかのような景色が広がっている。手入れのいき届いた日本庭園、舟遊びができそうなほど大きな池。三階建ての洋館と日本建築の和館を、渡り廊下でつなげている。戦時中とは思えない優美さだ。

「ようこそおいでくださいました」

 畏れ多いことに、真雪自らが玄関前で迎えてくれる。ズボンに白シャツ、濃紺色のカーディガンという、くだけた服装だ。張りきっておしゃれしてきた自分が、いささかきまり悪くなる。真雪は紳士的な笑みを浮かべ、

「今日は着物なのですね。名古屋帯と絞りがよくお似合いです」

 なにげなく帯の種類を言い当てる。食事の前に応接室へとおされて食前酒をいただく。テーブルを挟んで向かいあって座り、細やかなカッティングが施されたシェリーグラスに口をつける。使用人は下がらせて二人きりだ。

 しばらくは探りあうような雑談を交わす。各自の近況や倫子のこと、獅子舞大佐のことなど。大佐は真雪の上官で、参謀本部には珍しく陸大卒ではない叩き上げの軍人だそうだ。

「外務省に、掃き溜めに鶴のごとき女子おなご職員がいると申していたのですが、まさかあなただったとは」

「まあ。獅子舞大佐ったらそんなことを」

 思わず口がすべり、はっとして手で口もとを押さえる。

「しし、まい?」

 少しして、真雪はぷっと噴きだす。

「なるほどなるほど。たしかに似ていますな。いや、そっくりだ」

「し、失礼を申し上げました……」

 消え入りそうな声で謝罪する。佐官を獅子舞呼ばわりしてしまい、てっきり叱責が飛んでくるかと思ったが、真雪は楽しそうに笑っている。端整かつ圧のある風貌がやわらぎ、空気がほぐれてくる。

 そこから会話はなめらかになった。暁子の表情もくつろぎ、シェリー酒も手伝って笑顔がでやすくなる。

「ちなみに職場では、どなたの下についているのですか」

 そう問われ、「日下部政務秘書官です」と答える。

「ああ、外相の懐刀と呼ばれている御仁だ。切れ者ともっぱらの噂ですよ。さぞしごかれているでしょう」

「ええ。しょっちゅう叱り飛ばされています。でも、焼き芋をごちそうしてくださったりもするんですよ」

 真雪はまた微笑んで「どうやらあなたは働くのに向いている女性のようですね」と言う。

「私の知っている令嬢たちとはだいぶちがう」

 上流社会の令嬢のなかには徴用を逃れるために早々に疎開をしたり、ツテやコネを駆使してかたちばかりの就職をする方たちもいる。姑息ではあるが、その気持ちも分からなくはない。自分とて軍需工場への動員いやさで外務省に応募したのだから。

 杯が空になったタイミングで真雪は言う。

「なぜ今日、食事に招待したのか、ふしぎに思ってらっしゃるでしょうね」

 彼を見つめて「ええ」とうなずく。本題に入ったと思った。べつに旧交をあたためたくて招いたわけではあるまい。

「私ごとになりますが、昨年、兄が身罷りました」

 真雪の兄である上杉家の長男は、生来病弱で、軍人の道を歩まず大学で植物の研究をしていたという。少し前から寝たり起きたりを繰り返し、昨秋とうとう亡くなった。したがって、次男である真雪が繰り上げ式に跡取りの身となった。

 現当主は老父だが、高齢というのもあり、いつ何が起こるか分からない。

「上杉家は三百年もの歴史を汲む大大名の家系です。私の代で終えるわけにはいきません。嫡男となってまず最初にしなければならないのは――」

 そこで真雪は言葉を切る。

「結婚、ですね」

 代わって暁子が続きを引き受ける。

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