第五章 平和が終わる(1)
一
どうやらクニと貢の結婚話は自分のあずかり知らないところで着々、進んでいたようだった。父によると、中心となってまとめたのは菊野らしい。
女中頭が自分の監督する女中たちの嫁入り先を見つけてやるのは、珍しいことではない。これまでにも何人かが菊野に結婚を世話されて辞めていったし、クニはもう二十六歳だ。そういう話がでなかったのが、ふしぎなくらいだ。
朝、鏡台の前に座ってクニに髪をブラッシングしてもらっていると、鏡越しにクニと目があう。にっこりと笑いかけられる。そういえば、最近のクニは化粧をするようになった。白粉をうすく刷いて耳に紅をちょんとつける程度だが、もとが色白なのでよく映える。襟足も手入れされていて、首すじがすっきりしている。
前は化粧なんて全然していなかったのに。
毎日見ているというのに、今の今まで気づかなかった。化粧だけでなく、クニはなんだかきれいになったみたいだ。表情に色がでてきて顔がつやつやしている。まるで内側から照り輝いているみたい。
じろじろとクニを眺めていると、
「どうか、なさいまして」
おっとりと尋ねられて、「う、ううん、なんでも」と首を横にふる。「貢と結婚するの?」と訊きたいのに訊けない。だから最近きれいになったの? とも。
結婚したらクニは女中を辞めてしまうのだろうか。いや、それどころか二人そろってクニの郷里に移り住むというのもあり得る。ひょっとして、だからクニは結婚するということを自分に隠しているのかも……。
(もしクニがいなくなったら……どうしよう)
そんなの耐えられない。小さい頃からずっと一緒にいてくれた姉のような存在なのだ。クニが辞めるなんていやだ。絶対いやだ。
「――ねえ、クニ」
思いきって尋ねようとするけども、
「はい?」
明るい笑みを向けられて、訊く気持ちがくじけてしまう。
「なんだか今日は寒いわね。冬物の外套を出しておいてくれる?」
「かしこまりました」
一方、貢に対しては無性に苛ついていた。ここしばらく軟化していた自分の態度が、再び刺々しくなってしまっている自覚はある。向ける目つきに険があり、登下校の車のなかではむすっと黙り込んでいる。口はへの字だ。
貢は何も言わない。こちらの不機嫌さに気づいていないはずはないのに、気づかぬふうに運転している。その平然さが腹立たしい。
いったい、いつからこの
三人で宝塚の観劇をしたときか。それとも、フランツ氏との見合いのあと喫茶店でお茶をしたときにはすでに、そうなっていたのだろうか。そういえば、あのときクニは貢にアイスクリームを半分こしないか、なんて言っていた。同じ皿のものを勧めるなんて、なんでもない仲の男女がするものだろうか。
(もしかしたら二人はもう……だ、男女の仲になっているのかも……)
そこまで思いをめぐらせると、「窓を開けて」と運転席の貢に命じる。
「空気が悪いから窓を開けてちょうだい」
「ですが、お寒いかと」
「いいから早く!」
尖った声で命じると、貢は三角窓のハンドルをひねる。冷たい風が車内に吹き込み、血がのぼりそうな頭を冷やしてくれる。
その日、学校から帰宅すると、クニはお使いに出ていていなかった。私服に着替えると、小間使いに菊野を呼んでくるよう申しつける。
「お呼びでございますか」
この女中頭は、自分が子どもの頃からぜんぜん変わらない。おそらくもう六十に近いだろうに、背すじはぴんと伸びて、声にも張りがある。若々しいというよりも、若い頃はむしろ老けて見えていたのかもしれない。
「クニと貢が結婚するというのは、ほんとうなの?」
前置きもなしに切り込むが、菊野は動じない。菊野が動揺する姿をこれまで見たことはない。
「クニからお聞きになったのですか?」
質問に質問で返す菊野に、父から聞いたと答える。
「まったく御前さまは……お口が軽うございますね」
はあ、と菊野はため息をつく。
「では事実なのね」
暁子はソファに座ったまま、立たせている菊野に確認する。
「おもしろくないわ。なぜ、わたしにそれを教えてくれないの。クニはわたし付きの女中なのよ。クニが結婚するのなら、わたしだって知っておく権利があるわ。そうでしょう」
強気の口調で訴えると、菊野は「失礼いたしました」と、いけしゃあしゃあと詫びを入れる。
「お嬢さまのご結婚もまだお決まりでないのに、使用人の自分が先に嫁入りするのは申し訳なく……とクニが申しますもので」
「ほんとかしら。おまえが口止めさせてるんじゃなくって?」
とっさにそんな言葉がでた。暁子自身もそれまで思ってもいなかったのだが、菊野の細い眉がぴくりと動く。
「とんでもございません」
嘘だ、と直感した。菊野は五年前、貢が入営することも自分に伏せていたではないか。クニをはじめ「奥」の女たちに黙っているよう命じていた“前科”があったのだ。
ソファからすっくと立ち上がり、菊野の前に進む。何を考えているのか分からない、感情の読めない目を見つめて「菊野」と呼びかける。
「この邸のなかのことで、わたしを蚊帳の外に置くのはやめて。不愉快です」
「……申し訳ございません」
菊野はまっすぐ自分を見返し、少しも申し訳なさそうではない口調で詫びる。そのまま暁子の顔をしげしげ眺めて、こんなことを言ってくる。
「お嬢さまはほんとうに奥さまに似てこられました。頬の線などそっくりです」
しばし間をとり、こうも言う。
「あれも、年を追うごとに父親に似てきています。父親よりも少々野卑ですが」
「あれって、貢のこと?」
菊野は答えない。ただ自分を見つめるばかりである。あずき色の唇をゆっくりと開き、
「またああいう間違いが起こることを、菊野はなによりも恐れています」
「どういうこと?」
訝しむ表情を見せる暁子に菊野は黙って一礼し、退室する。
菊野の言葉の意味が分からなかった。間違いが起こるとは、いったいなんのことなのか。しばらくして、はっとする。もしや菊野は自分と貢の間に、なにか起こるかもしれないと危惧しているのだろうか。
「馬鹿馬鹿しい」
声にだしてつぶやく。ほんとうに馬鹿馬鹿しい勘繰りだ。
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