平和が終わる(2)

 その週末、百貨店の番頭が、父の注文した商品を届けに邸へやってくる。

 紳士用の帽子に靴、当節では手に入りにくい舶来ものの外套。自分の分だけでなく、娘にも何着か服を新調してくれた。商品を片づけさせると、父は番頭に酒の相手をさせるため応接室へ向かう。

「お嬢さまのお品物もお部屋へお運びしますね」

 服の入った箱を抱えて居間を出ようとするクニに、「ちょっと待って」と声をかける。

「実はクニにもあるのよ」

 父には内緒で番頭に頼んでおいた品があった。手のひらに乗る大きさで、薄紙に包まれた小箱を差しだす。

「開けてみて」

 クニがふたを開けると、鼈甲のくしとかんざしがあらわれる。簪の上部とかんざしの平玉には、白川家の家紋である花菱印が彫られてある。特注品である。

「わたしからの結婚祝いよ」

 たまげた顔をしているクニの頭に、手ずからかんざしを挿す。飴色の輝きが黒々とした髪とよくあう。

「うん。きれいよ。似合ってる」

 うんうんとうなずいて、

「まったく。なかなか教えてくれないものだから、お祝い品を渡すタイミングも掴めなかったじゃない」

「あ、ど、どうもその、申し訳ございませ……」

「謝らないで」

 クニの言葉にかぶせて言う。

「わたし、嬉しいの。クニが結婚するのがほんとうに嬉しい。それにしても貢とはね。ねえ、ほんとに貢でいいの?」

 おどけた調子で尋ねると、クニはたちまち真っ赤になる。その反応がかわいらしい。

「は、はい。それはもう……もう」

 菊野に確認したのだが、クニは結婚後も当邸で女中勤めを続けるとのことだ。そして貢は暁子づきの運転手から「表」の事務方へと移動する。若い男の職員がぽつぽつ徴兵されはじめていて、邸内には男手が足りなくなりつつあった。

「おめでとう、クニ。しあわせになってね」

 そこでとうとうクニは感極まって泣いてしまう。目から大粒の涙をぽろぽろこぼして、

「おそれ……いり、ます。暁子さま、ほんとにほんとうに……恐れ入ります。申し訳……ございません」

「なんで謝るのよ。ねえクニ、これからもずっとわたしのそばにいてね」

 微笑みかけた拍子に目尻から水がぽたりと落ちる。あれ? と思う。どうして自分まで泣いているのだろう。胸が痛いくらいにずきずきしてるのだろう。きっともらい涙だ。そうにちがいない。

「ああ、わたしまで泣けてきちゃったわ」

 泣き笑いの顔でもう一度「おめでとう、クニ」と告げると、「申し訳ございません」とまた謝られる。何度も何度もクニは繰り返す。



 年明けにクニと貢は挙式することになる。

 正月休みに広島のクニの実家へ挨拶にいき、そのまま地元の神社で式を挙げるそうだ。これまで嫁入りさせた女中たちにそうしてきたように、クニにも花嫁道具として、桐の箪笥を持たせてやるとのこと。

 ちょうどその頃、『華族画報』の最新号に倫子の婚約記事が載っていた。

『春日井伯爵家令息、信之海軍中尉と久遠寺侯爵家の倫子姫、来春に挙式する旨を発表』

 軍服姿の青年の隣に、ローブデコルテ姿の倫子の写真が掲載されている。夫となる中尉はやさしそうな顔立ちで、海軍の白の軍服が品のよさを引きたてている。

 倫子もとうとう結婚する。その知らせがこないのは若干さびしくもあったが、きっと嫁入り準備で忙しいのだろう。そう思うことにする。

 十二月に入って最初の日曜日。先月は学校行事がいくつかあったので、振替授業が行われた。冬晴れのすがすがしいお天気で、まっすぐ帰るのがもったいない陽気だった。

 授業の終了後、あるクラスメイトが「わたくし今日は市電を使って帰るんですの」と言う。遠藤さんという方だ。

「宅の運転手が午後から不在なものでして。どなたか、よろしかったらご一緒しません?」

 仲間を募るものの、みなさんどこか尻込みしている。市電の運転は荒っぽいとか、乗客の柄が悪いとか、そんな評判がつきまとっていた。

「ひとりで乗るのはちょっぴりさびしいわ」

 遠藤さんが首をふると、

「わたくし、ご一緒しようかしら」

 気づいたらそう言っていた。どうしてそうしようと思ったのか、自分でも分からない。ただ、なんとなく今日は車に乗りたくない気分だったのだ。

 初めて乗る市電は、評判どおり、なかなかゆれる。吊り革をしっかり握って立っていないとバランスを崩しそうだ。

「ゆれるわね」

「そうね」

 隣に立つ遠藤さんも、しっかと吊り革を掴んでいる。

「ありがとうね。つきあってくださって」

 遠藤さんが言う。実をいうと運転手は今日だけ不在なのではなく、雇っておく余裕がなくなったので辞めてもらったのだという。

「だからわたくし、これからは市電で学校に通うのよ。このゆれにも慣れなくっちゃ」

「そう」

 たしかこの方のおうちは公卿華族だったはずだ。それなのに運転手も雇えなくなる経済状況だとは。そう思いながらも、努めてからりと暁子は言う。

「市電も悪くないわね。窓から見える眺めも車よりずっといいわ。あら、あれは何かしら」

「ああ、東京ステーションホテルね」

 遠藤さんが教えてくれる。窓外の前方に、赤茶色のレンガも鮮やかな横長の立派な建物が見えてきた。あれが帝都を代表する東京ステーションホテルか。写真で見たことはあったが、直に目にするのは初めてだ。するとここは東京駅の周辺か。

「わたくしは三つ目の停車駅で乗り換えるけれど、白川さんはどうなさる?」

 遠藤さんの問いかけに「わたくしはここで降りますわ」と、とっさに答えていた。

 東京ステーションホテルには、かつて父と母が新婚旅行に発つ前夜、泊まった宿だと聞いていた。近くで眺めると、さらに立派で壮麗だ。駅と直結しているので慌ただしく人が出入りしている。

 背広姿の紳士に、小さな子どもを何人も引き連れた家族。肩を寄せあって構内へ入っていくのは恋人同士だろうか。たくさんの人たちが、この駅からどこかへ向かうのだ。仕事か旅行か、それとも誰かに会いにいくためか。

「間もなく三番ホームより、東京駅発千葉方面行きの総武線列車が発車いたしまーす」

 改札の近くで駅員さんが連呼する。東京駅発千葉方面行き。

 その文言には憶えがあった。週刊誌や新聞の記事で何度も目にした文言だった。駅員さんに近づいて切符売り場を尋ねる。切符を買うと今度は「三番ホームへはどういけばいいのでしょうか?」と訊く。その親切な駅員さんはホームまで案内してくれた。発車する直前、ぎりぎりで乗り込む。

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