狂ったお茶会(7)
倫子のお相手は真雪ではなかった。
みち子情報によると、久遠寺家と同様に武家出身の子爵家の方とのことだ。
『結婚相手は自分で見つけたいわ』
パーティーの翌朝の朝食の席。クロワッサンをちぎりつつ、かつてそう語った倫子の言葉を暁子は思い返す。自分は自分の納得できる、尊敬できる相手と結婚したい。さもなくば一生独身でいる、と倫子は高らかに宣言した。
その倫子がとうとう結婚するなんて。なんだか自分だけ置いてけぼりにされたみたいだ。
「昨夜のパーティーには友だちが来ていたようだね」
長テーブルの真向かいに座る父が、新聞をばさりと広げて話しかけてくる。一面の見出しには『東条英機陸軍大将、首相に就任』。その片隅には『国際スパイ団、リヒャルト・ゾルゲ一味を逮捕』という文言が載っている。
「ええ。去年まで同じ組だった方が、旦那さまといらしていたの」
「そう」
「同級生のみなさんの近況、いろいろ教えていただきました」
「どうせほとんど若奥さんでしょう」
父はどことなく、ひねったふうな笑みを見せる。認めるのは少々癪だが、親ながら魅力的だ。
「それ以外にどうしろと?」
カフェオレで唇を湿して問うと、
「なに。お嬢さま方だってしたいことをすればいいのさ。仕事でも勉強でも遊びでもいいんです。あたら花の盛りを、何を急いで結婚するのやら。もったいないよ」
娘としては返答に詰まることを言ってくる。
こういう父なのだ。型にはまっていないというか、世間の風に当たらないままこの年まで生きてきたというか。父を見ていると、世間体とか常識とか自分に縁談がこないとか、そういったことを気にするのが阿呆らしくなってくる。
母が亡くなった当初は、父との関係はぎくしゃくしていた。母があんな極端な選択をしたのは父のせいだ、父が別宅に入り浸り家庭をないがしろにしていたからだ。
そんな責める思いで父に接していた。だけど、時間が経てば気持ちも変わる。いつしか父とは母の不在を分かちあうような、支えあうような関係となっていた。
パーティーや晩餐会でパートナーを務めることもそうだ。
ある意味で“妻”の役割を担うようになってから、それまでとはちがった目で父を見るようにもなった。別宅の方とは依然として続いているが、それはそれで父の生活なのだ、と今では暁子はそう割り切っている。割り切ろうとしている。
「いって参ります」椅子から立ち上がって挨拶すると、
「いってらっしゃい。今日も楽しくね」
鼻ひげの寝ぐせを指で直しながら、父は微笑む。
車のなかで運転席の貢に「上杉大尉とは会ったりしてる?」と話しかける。
「大尉と、ですか」
「ええ。今でもたまにお酒を呑んだりしているの?」
ミラー越しに貢を見ると、ちらと見返される。何を探ろうとしているのだ、とでもいった目つきだ。主に向けるにしてはいくぶん無遠慮な。すっとしたまなじりは鋭く、鋭いだけにまだ若いところがある。
「いいえ」
簡潔に貢は答える。「大尉はお忙しい方ですから」
まあ、そうだろう。欧州で大戦がはじまり、日本も依然として中国と交戦中だ。一方で、アメリカとの状態もいよいよ緊迫してきた。政府がドイツ及びイタリアとの結びつきを躍起になって進めているのは、アメリカを意識してのことだろう。
世のなかは次第次第に窮屈になっていた。ダンスホールが閉鎖され、『贅沢品は敵だ!』と書かれた看板が街の至るところにかけられている。世間ではどうやら今、米や砂糖を切符で買うようになっているらしい。いろいろなものが少しずつ変わってゆく。
「大尉がどうかされましたか?」
貢に問われ「ううん、べつに……」と言いかけて、ちがう質問をぶつける。
「ねえ、久遠寺倫子さんって憶えてる?」
「高輪のお邸のお嬢さまですね。久遠寺侯爵家の」
地所で記憶しているあたり、すっかり運転手が板についている。
「そう。婚約なさったそうなのよ。これでわたしのお友だちは全員片づいてしまったわ。残っているのはわたしだけね」
おどけた調子で言うものの、貢は無反応だ。前方の信号が赤になり、ブレーキが踏まれる。以前と比べると、だいぶ落ち着いた運転になってきた。
「今はまだ学生だから言い訳も立つけれど、これでもし学校を卒業しても縁談がこなかったら、どうしようかしら。まあ、それはそれで気楽かもね」
暁子はひとりで話し続ける。
「なにしろうちは、とんでもない醜聞で知られてしまっているからね。そんなところの娘と結婚しようだなんて奇特な殿方はまず、いないわね」
自分の声に明るい自嘲の響きが混じる。間接的な攻め言葉。直接的ではないだけに意地が悪いと我ながら分かっている。
「でもね、ずっとお父さまと暮らすのも悪くないかもしれないわよね。田崎も菊野もクニも、みんな一緒に。貢もわたしの運転手さんでいてくれるかしら。このままずうっと」
そんなことを語っているうちに学校が見えてくる。女子学習院高等科の正門の前でフォードは停まる。貢は素早く降りると後部座席のドアを開ける。いつものように一礼して、
「いってらっしゃいませ」
その低い声からはなんの感情も窺えない。制帽の庇の下にある抑制的なまなざしからも。
「ええ。ではまた夕方ね」
できるだけゆっくり下車し、にっこりと笑ってみせる。
毎朝こんな感じだ。この二年間、毎朝毎夕。貢といるときの自分は底意地が悪くなる。車内に他の者が、たとえばクニが同乗しているときには、さっきのようなことはけっして口にしない。
だけど朝夕の登下校の時間、この数十分間だけは、自分が普段の自分でなくなる。普段なら遠ざけているあの話題を自ら口にし、向こうの反応を観察する。貢の様子も日によって微妙にちがうのだ。あ、少し苛ついてるな、とか。今日は全然動じない、とか。ちょっとした目の動きや表情、車の運転の強弱からも感情のゆらぎが伝わってくる。
かつて、自分たちの間にあった親密さはもう消えている。代わってべつのなにか、よく分からない関係性が生じている。うまく言語化できない関係が。
貢とふたりきりになると胸がざわつく。苛々してそわそわして、生理中みたいな気分になる。なんとも言いようのない不快感。それでいて、ないと不安になる。今の貢はそういう存在だった。
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