狂ったお茶会(6)
三
昭和十六年、秋。
「Lasst uns für die weitere Freundschaft und Entwicklung zwischen……」
「我が国家と日本のさらなる友好と発展を祈りましょう。さあ、みなさん杯を手にお取りください」
ドイツ大使の朗々たる語りを、横に立つ父の玄真は淀みなく通訳する。大使が「Prosit!」と乾杯の音頭をとると、大広間に集っている賓客も一斉に倣う。それを合図に
パーティーの主催者である某侯爵は、ヒトラーが愛好しているワーグナーを演奏させようとしていたが、玄真の助言でフランツ・レハールのオペレッタに差し替えた。大使は上機嫌で侯爵に笑いかける。
「ドイツ人を招くパーティーでは、どこでもワーグナーばかり流すのですが、さすがは侯爵殿。われらが総統はレハールもお好きなのですよ。よくご存じで」
「な、なあに。主催者としては当然です」
侯爵もまた満面の笑みを返しながら、横で通訳している玄真に目配せをする。その様子を離れたところから暁子は眺めてシャンパンを舐める。
今夜のパーティーも上首尾のようだ。マントルピースの上にグラスを置き、その横の花瓶に活けられている金木犀の香りを嗅ぐ。
サロン内には日本人とドイツ人とイタリア人が入り混じり、三種の言語が飛び交っている。ときおりフランス語も。男性はタキシード、女性はローブ・デコルテか留袖姿だ。
暁子は今日は振袖を着てきた。洋装にすると見知らぬ西洋人の男性からダンスに誘われかねない。それが煩わしくて大振袖にした。今の時期にぴったりの、薄ぶどう色の地に秋の草花を散らしている。結い上げた髪が乱れないよう、おしとやかにしなくては。
ドイツ大使とホスト侯爵の通訳を終えた父が、こちらへやってくる。
「お父さま、お疲れさま」
「なあに。ただしゃべっているだけだよ」
手にしているシャンパングラスを父は乾す。
「明日も学校なのにすまんね」
「いいえ。こうした
ちくりと刺してやると、父は微苦笑する。耳もとには白いものが混じってきたが、まだ充分に伊達男だ。
こういう場での父は、水を得た魚のようだとつくづく思う。タキシードを華麗に着こなし、物おじせずに外国の高官たちと雑談する。西洋女性とダンスをしても様になる。若い頃の道楽の賜物であろう。
このところ父は、欧州の要人相手のパーティーに招ばれる機会が増えていた。
客として、というよりも通訳や音楽などの演出面での
日本の宴会とは異なり、西洋におけるパーティーは夫婦そろっての出席がマナーである。そこはすてきだと思う。女に留守番をさせ、男たちだけで楽しむのではない点は。
父は母の死後、独り身をとおしている。長年世話をしている“別宅”の方はいるけれど、それはあくまで妾である。表の場へ連れてこられる相手ではない。
したがってこういうパーティーには、十八歳になった娘の暁子を同伴させていた。
「Du hast eine schöne Frau!」
ドイツ大使のがらがら声が耳に入る。西洋人特有のメリハリのある風貌が、うっすら微醺を帯びている。玄真は笑って首を振る。
「なんておっしゃったの」
娘の問いに父親は、
「きれいな奥さんをお持ちですね、だとさ」
「まあ」
暁子はよそいき用の笑みを浮かべて大使に答える。
「イッヒ・ビン・ディ・トフタ……」
妻ではなく娘です、という意味のドイツ語だ。もう何度も口にしてきたので、このフレーズだけは憶えてしまった(発音はやや自信がないが)。それにしても、なぜ自分たち親子は外国人からやたらと夫婦だと勘違いされるのか。自分は老け顔なのだろうか。いや、父が若づくりをしているからだ。
大使は暁子の手をとると、甲にちゅっと接吻する。背すじがぞわっとするが、貴婦人然とした微笑みは崩さない。鳥肌よ、立つな立つな……と念じつつ。これもまた同伴者の務めである。傍らでは父がいたずらっ子のように笑っている。
父と大使が連れだって男性たちの群れに混ざると、暁子は袂からハンカチを取りだして手の甲を拭く。隅の方にM・Kと縫いとりされた木綿地は、だいぶ擦り切れている。それはそうだ。もう五年も使っているのだから。まっ白だった色味もだいぶ黄ばんできた。
なぜ自分はこのハンカチを捨てずに持ち歩いているのだろう。返すべき相手に返さないまま、いつも身につけている。もう二度と落とさないよう気をつけながら。
「あのう、もし」
声をかけられて振り向くと、薄桃色のデコルテ姿の女性がいた。絹のサテン生地にフォンクレープの透かし織りを重ねて、レトロ調なのがかえって粋である。首にはクレープデシンのスカーフを巻いている。後期で同級生だった山科みち子嬢だ。
「ああ、やっぱりこの方だった」
「お久しぶりね。ごきげんよう」
今夜、初めて自然な笑みがこぼれる。
学習院の本科を去年卒業した暁子は、引き続き高等科に籍を置いていた。同級生のほとんどは卒業するのと同時に結婚するか、花嫁修業に入るかだった。
男ならともかく、女がこれ以上勉強をしてどうする。それより早く嫁入りをして、一人でも多く子どもを産むことの方が大切だ。
それが世間一般の考え方だった。
白川家の場合、父の玄真がそうした世間の常識に頓着しない性格であるのと、暁子たっての願いで高等科への進学が叶った。尤もそれが認められたのは、自分に縁談めいたお話がまったくこないから……というのもあっただろう。
このみち子も今年の夏、華族会館で式を挙げた。お相手は男爵家の令息だ。
「今日は主人に連れられて参りましたの。知ってる方が誰もいなくて心細かったんだけど、この方にお会いできるなんて。とっても嬉しいわ」
“主人”と言うとき、頬がぽっと染まるのが愛らしい。なんとも初々しい新妻ぶりだ。
「結婚生活はいかが?」暁子が問うと、
「お付き合いが大変なのね。それと“奥さま”と呼ばれるのに、なかなか慣れないわ。たまに実家に帰るのが最高の息抜きよ。主人は早く戻っておいでって、うるさいんだけど」
「ふふ、ごちそうさま」
そんな具合におしゃべりに花が咲く。同級生たちの近況をみち子は教えてくれる。
「あの方は男爵さまとの婚約が調って来春、結婚するようよ。あの方はね、もうすぐベビーが産まれるみたい。わたくしたちの学年では一番お早いママになるのね」
みち子の叔父は宗秩寮に勤めており、華族の情報をよく教えてくれるのだそう。ちなみに奥寺るつ子も製薬会社の御曹司と結婚して、今は関西にいるらしい。
「すごいわね、みんな結婚してしまった」
呆気にとられる暁子に、
「この方こそ、その気になったらすぐよ、すぐ」
みち子は屈託なく笑う。それから思いだしたように「そうそう、結婚といえばね」と手を打って、栗鼠みたいにくりくりした目を寄せてくる。
「ご存じ? 倫子さんもついに婚約されたのよ」
今度こそほんとのほんとよ、と暁子の耳もとでささやく。
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