狂ったお茶会(4)
二
お雛さまの茶会、通称「雛の茶会」は久遠寺家の本館ではなく日本館で開かれた。本来の桃の節句は三月三日だが、その時分はまだ寒いし、学年末試験の時期とも重なっているので、ひと月ずらした四月の頭に行われた。
名門・久遠寺家の催しに招かれることは、ある種のステイタスである。なので招待された令嬢たちは、気合いを入れておしゃれしてくるだろう。当日は暁子も新調の振袖に身を包んだ。黒地に桜を描いた模様で、普通の桜ではなく樺桜である点に工夫を凝らしている。
時刻は夕方。久遠寺邸の門をくぐると、あちこちで篝火が焚かれ、石灯籠には火が灯されている。春の宵にぼうっと浮かぶ炎が、なんとも幻想的な雰囲気を醸している。
車寄せの前でフォードが停まり、運転席から降りた貢が後部ドアを開ける。暗くて足もとがおぼつかず、ぐらつきそうになると、すっと伸びた手で肩を支えられる。
「お気をつけください」
「わ、分かってます」
ぱっと身を離すと、「お嬢さま、帯が」
立て矢のかたちに結んだ帯が崩れているのをクニが直す。久遠寺家の使用人に案内されて日本館へ向かう。茶会の間、クニは本館の供待ち部屋で、貢は運転手たちの控室で待機することになる。
日本館にはすでに、色とりどりの着物姿の学友たちがそろっていた。学校でのセーラー服姿とはまた印象がちがって華やかだ。うすく化粧をしている方もいる。
「この方の柄、すてきね」「この方こそ」
口ぐちに褒めあっていると、
「みなさま、ようこそ。今宵は楽しく過ごしましょうね」
本日の
「まずは当家の雛人形をご覧になってくださいな」
倫子を先頭に少女たちは長い廊下を進む。日本館の電灯は今日はすべて落とされていて、至るところに設置された雪洞の灯りが空間を照らしている。緋毛氈の敷かれた大広間に入ると、わあ、と誰からともなく声が上がる。
見上げるほど高い飾り壇に、何組もの雛人形が座っている。久遠寺家に嫁いだ歴代当主の妻たちが、各自の実家から嫁入り道具として持参したものだという。人形たちは大きさも顔の造作もそれぞれ異なり、見比べると、その時代ごとの美人の基準がなんとなく分かる。まるで雛人形博物館だ。
「こちらはわたくしの曾祖母が嫁いできたときに……」
倫子が慣れた口調で説明する。
「わたくし、このお人形さんが好みだわ。お顔に品があるもの」とみち子が言うと、
「あら、あのお内裏さまの方がハンサムよ」他の方が言う。
「わたくしはねえ」とまた他の方が言い、楽しい品評会がはじまる。
暁子が目を留めたのは、広間の端の方にある動物たちの変わり雛だ。男雛と女雛はウサギ、三人官女はネズミ、五人囃子は犬……という具合に十二支の動物たちが衣冠束帯と十二単の装束を着けている。愛嬌があってかわいらしい。ひとり離れて動物雛を観賞する。
「ねえ、こちらのお雛さまもご覧になって」
みなに呼びかけるが、いつの間にか室内には自分しかいなかった。どうやら倫子たちは次の間へ移動したようだ。そのとき、背後で低い声がする。
「動物雛がお気に召しましたか」
振り返ると、倫子の“婚約者”が立っていた。今日は軍装ではない。
開け放された障子の背後で、庭の篝火の炎がちらちらと舞っている。
「この十二支の雛人形は倫子の姉たちのものでしてね。まあ、おもちゃみたいなものだから嫁入り先には持っていかなかったのでしょう」
真雪はまっすぐこちらを見ている。目をそらすことを許さないような圧のあるまなざしで。
「あの……倫子さんと、みなさんは」
知らず自分の声がおじけた。薄暗い部屋で、男性と二人きりになっていることに、緊張感が込み上がる。「奥の座敷へ向かったのでしょう」と真雪は答える。
「女中たちが膳の用意をしていましたからね。あなたもどうぞ。ご案内しましょう」
真雪はこちらに一歩、近づく。暁子は無意識に一歩、後じさる。すぐ後ろは雛壇だ。これ以上は退がれない。真雪はさらにもう一歩接近して、懐中から何かを取りだす。
――銃かしら?
なぜだかちらと、そう思った。だがちがった。木綿のハンカチだった。
黄ばみかけてる白地の縁に沿って、赤い糸で刺繍がされている。そのたどたどしい縫い目には見覚えがある。しばらく前から見当たらなかった自分のハンカチだ。
「な……なんでそれを……あなたさまが」
うわずった声で尋ねると、彼は落ち着き払って、
「本館の、厠の手前の廊下に落ちておりました。前回あなたがいらした日に」
頬が、さっと赤らむ。あの日見た光景を思いだしてしまって。
「良家の令嬢が盗み見とは、はしたないですな」
「わ、わざとではありません。お手洗いの帰りにたまたま……たまたま見かけてしまっただけです」
そう言っている間も頬はどんどん赤くなる。耳まで熱くなってくる。そんな暁子に真雪は微苦笑を投げかけて、
「驚かせてしまったのですね。申し訳ない」
さらにこう言い添える。「言いふらさないでいてくれて、感謝しています」と。
「てっきり倫子に告げ口されてしまうものと冷や冷やしていたのですが、どうやらあなたは黙ってくださっているようだ。助かりました」
「と……当然です。人に吹聴するようなことではございませんもの」
なんて言うものの、ほんとうは接吻場面の衝撃に頭がまっ白になっていただけだ。
それにしても真雪も意外と遊び人ではないか。あんな純情そうな女中に甘い言葉をささやき、たぶらかしているなんて。いや、華族の男はそんなものだ。自分の父も別宅をかまえているではないか。
そんなことを思っていると、真雪は宣言するように、言う。
「遊びではありません。私はあれを愛しています。結婚するつもりです」
その言葉に仰天する。真雪は華族の御曹司で、あの、さとという娘は平民だ。天と地ほどに身分の差がある。妾ならともかく妻にするだなんて正気の沙汰ではない。
「いけません」
思わず言うと、
「いけない? 何がいけないのです」
「そんなこと……宗秩寮がきっと許しません。世間も」
華族の婚姻には宮内大臣の許可が要る。宗秩寮に申請し、無事に受理されなければ結婚も離婚もできない。
「かまいやしない。そもそも愛する相手と一緒になるのに、なぜ国の許しをもらわなければならないのか。私たちは奴隷ではありません」
「そ、宗秩寮が許さなくとも周りが反対します。べつに結婚しなくとも、もっと穏便な方法はいくらでもありましょう」
「あれを私の二号にしろと?」
真雪の瞳に軽侮の色が浮かぶ。いくぶんがっかりしたように。
「私は愛する女を二号にするつもりはありません。そうした旧弊的な考え方も好みません」
「……」
冷静に考えるなら、ここで引き下がるべきだった。真雪に言い負かされるかたちをとって。ここで口論したとて意味がない。そもそも真雪の言ってることの方が正論である。女性としても賛成するべきだった。だけど――。
「使用人との恋なんて、うまくいくはずありません」
弾丸のように口から言葉が飛びでた。
「失礼ですが真雪さまは、身分ちがいの恋なるものに酔っているだけではないのですか」
自分たちの恋愛が周囲をどれほど困らせるか、苦しめるか。そういうことまで考えてあの女中を選ぶおつもりなのですか。華族界で孤立することも、世間のおもちゃにされるのも覚悟のうえで。
そんな思いを込めた目で真雪をにらみつけ、はっとして我にかえる。
「失礼いたしました。とんだ……無礼なことを」
「いえ。こんな話題はあなたには無神経というものでしたね。こちらこそ申し訳ない」
謝られたのが、かえって痛く響いた。ああ、この方もまた知っているのだと分かったから。例の事件を。
当然だ。狭い華族界のこと、あの事件を知らない者はいないだろう。華族という世界が壊れでもしない限り、この醜聞はこれから先もずっと自分についてまわるのだ。
「ご安心くださいませ。わたくし人さまの色恋に興味はございませんので」
なんとか気持ちをなだめて冷静な口調になる。
「お二人のこと、けっして他言はいたしません。お約束します」
「ありがとう」
暁子のその言葉と引き換えるように、真雪は手にしているハンカチを渡してくれる。
「ところで、なぜご自分のイニシヤルのA・SではなくM・Kと刺繍をしているのですか」
なにげない感じで問われて、口ごもる。
「そっ、それは、その……ええと」
ハンカチには持ち主の名を縫い込んでいた。本来の持ち主の。返すタイミングを掴めずに、結局自分がずっと持ち続けている。
視線を泳がせる暁子を、どこか楽しげに真雪は見つめる。緊張感のある会話が終わって、くつろいだ表情で。
「私も詮索はしないことにしよう」
彼に案内されて奥の座敷へゆくと、倫子たちが白酒を賞味していた。
「この方、遅いと思ったら、真雪兄さまにつかまっていたのね」
朱塗りの盃を掲げた倫子が、あでやかに顔を輝かせる。令嬢たちの視線が真雪に集中する。
「これはまた、雛人形よりはるかに見目麗しいお客さま方だ」
彼は慇懃な笑みを浮かべて少女たちのお相手を務める。
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