狂ったお茶会(2)
放課後には、正門前に車がずらりと列をなしている。
生徒のなかには市電を使う方もおられるが(なんと今上帝の弟宮、秩父宮殿下の妃がそうだったらしい)、暁子には考えられない。
暁子は電車が大嫌いだ。というよりも苦手だった。あの、がたごととゆれる振動がたまらなく気持ち悪い。
とはいえ今のご時世そんな我儘も言っていられない。少しでも汽車に慣れるために、昨秋に実施された修学旅行には、欠席せずに参加した。伊勢、奈良、京都など関西方面を一週間かけて巡る旅だった。
行きはなんとか耐えられたものの、帰りの列車のなかでひどく酔ってしまった。四人がけの箱席で隣に座って、背中をずっとさすってくれていたのが倫子だった。
その倫子がお嫁にいってしまうなんて。
何十台もの車のなかからうちのフォードを見つけ、倫子を伴い近づく。車を降りて辞儀をする貢に言う。
「こちらは久遠寺さんです。今日はこれから久遠寺さんのお宅へお邪魔します。よろしいですね」
貢は短く答える。「承知いたしました」
「久遠寺と申します。およろしくね」
倫子は貢の目をまっすぐ見つめて挨拶する。
「わが家は高輪なのですが、うちの車の後ろをついてきてください」
久遠寺家の車は茄子色のフランス車、ドラージュだ。ドラージュのあとに続いてフォードが発進する。普段の帰路とはちがう道を走らせながら、
「貢は今日、なにしていたの?」
尋ねると「車を洗っておりました」という返事がくる。
「この寒いのに精がでるわね」
「仕事ですから」
沈黙が流れる。学校への行き帰りのこの時間、一日に二度だけ、貢とふたりきりになる。片道十分足らずなので合計で二十分。だいたいどちらも黙っている。ときたま暁子の方から「今朝は冷えるわね」「あ、道で号外を配ってる」なんて声をかけると、「ええ」とか「はあ」とかいう反応がくる。
バックミラーに映る貢はたいてい無表情だ。運転手の制服に制帽という装いだと、ほんとうに黒田と似ている。ただし運転はずっと不愛想だ。その愛想のなさがいい。貢に運転させていると、自分でもよく分からない愉しさを感じてしまう。うまく説明できない得体の知れない愉しさだ。
泉岳寺を通りすぎると久遠寺家の屋敷が見えてくる。前方のドラージュが、速度を落として正門をくぐる。邸内に入ってからがまた長い。内堀に沿って、ゆっくり進む車の外には築山が広がっている。松林に池、テニスコート、さらに馬場まで備えてある。ここと比べると、我が白川邸などなんとも安っぽいと思わされる。久遠寺家こそ歴史に裏打ちされたほんものの旧家である。
ようやく本館の大玄関の前に着くと、迎えの者が出てくる。
「お友だちをお連れしたわ」
倫子の言葉に「白川さまでございますね。どうぞごゆるりと」
すでに暁子の顔を見知っている職員が即答する。「奥」の応接室へとおされて、紅茶をいただいてると、制服から着物に着かえた倫子が戻ってくる。濃い青に蝶の模様の振袖で、おさげ髪が腰もとでゆれている。
「まあ、今日のおやつはコロンバンのクッキーね」
テーブルに用意された色とりどりの焼き菓子のうち、ひとつを選んでかじる。ざっけなくも優雅な動作で。ソファに座っている暁子の隣に腰を下ろし、紅茶で口を湿すと、「さて」 とひと言。
「それでどうしてこの方は、今日一日ずっとそわそわしていたの?」
「そ、そうかしら」
ぎくりとする。
「そうよ。授業中、わたくしのことじーっと見ていたわよね。ちゃんと気づいていてよ。ホランド先生に注意までされて」
そうだった。一時間目の最中に、自分が当てられているのにも気づかず、窓際の席の倫子の様子を観察していた。「Miss.Akiko!」と鋭い声で名を呼ばれ、テキスト丸々二ページ分も訳する破目になったのだ。『不思議の国のアリス』の「狂ったお茶会」の部分を。
「でも、この方は英語がお得意だから、すらすらと訳されたじゃない。わたくしなんて家庭教師までつけてもらってるのに、外国語はもうちんぷんかんぷん。だめよねえ」
倫子は笑って首を振る。ちなみに去年から学習院の初等科では英語教育が全廃されていた。敵性言語を学ぶにはあたらない、とかいう方針のもとに。自分たち後期生の授業からも、いずれ英語科目は取り払われるかもしれない。暁子としては英語が好きなので、そうあってほしくはないのだが。
「で」
もう一枚クッキーをつまんで倫子は話題に戻る。
「何かわたくしに訊きたいことでもあって?」
「あの――」
観念して口を開く。飛鳥宮さまとのご縁談を話題にだして、
「おめでとうございます。宮さまにお輿入れなさるなんて、ほんとうに名誉なことでございますわ」
畏まった口調でそう言うと、倫子はしばし間を空けて、ぷぷっと噴きだす。
「そういうことだったのね。なるほどね。この方ったら、そんなこと心配してたの?」
暁子の額に自分の額をこつんとつけて、
「わたくし、お嫁になんていかないわよ。安心して」
たおやかな声音で語る。たしかに先日、宮さまの方から縁組の打診があったそうだ。
「でも、父がすっぱりお断りしたわ。誠に恐縮至極ではございますが、うちの娘には幼い頃より取り交わした許嫁がおりまして、ってね」
「いいなずけ?」
「そう」
そこへ、こんこん、と部屋の扉がノックされる。
「はあい」倫子が応じると、
「ああ、そこにいたのか」
若い男の声。倫子の顔がぱっと明るくなる。
「どうぞ、入ってらして」
扉が開き、軍服姿の男性が現れる。軍帽を手にして、右胸には黄色い飾り紐がついている。参謀本部の印の飾緒だ。
「ご紹介するわ。わたくしの許嫁さんになってくれた、いとこの真雪です。こちらは白川暁子さん。白川伯爵家の令嬢よ」
真雪とはまた、軍人らしからぬ優美な名前だ。どことなく倫子と顔立ちが似ている。暁子は立ち上がり、真雪に挨拶をする。背丈は貢と同じほどであろうか。
「ようこそ。ごゆっくりしていってください」
ゆったりと語る声は低くて深い。女中が新しい紅茶を運んでくる。たしか、さとという小間使いだ。客人の暁子、真雪、倫子の順に紅茶をだすさとに、「ありがとう」と真雪は声をかける。
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