第四章 狂ったお茶会(1)


 貢が帰ってきた。ようやく帰ってきた。

 カーキ色の軍服に編み上げ靴。短髪もしっくりなじんで、二年前より男くささが増している。体格もいくぶんがっしりしたようだが、背丈は縮んだようだ……と思いかけ、否ちがう、と暁子は心のなかで訂正する。自分の背が伸びたのだ、と。

 満で十五歳になった暁子の身長は五尺二寸。この一年で三寸も背が伸び、五尺そこそこのクニを追い越していた。女子にしては上背もあり、洋装も着物も似合う身体つきになっている。前髪は庇髪のようにふくらませて後ろに流している。今年、女子学習院の後期に進学した。

 まったく、運転手の制服を渡してやったときの貢の顔は見ものだった。あれを呼び戻すよう父にせがんだ甲斐があったというものだ。

「井上の後任は黒田の息子にしてくださいな。間もなく徴兵明けですし、軍隊帰りなら井上と同じように護衛役も務まるでしょうし。ね、お父さま、お願い」

 ひとり娘である自分に甘い父とあって、すぐさま田崎に命じてくれた。難色を示したのはむしろ田崎の方だった。

「わたくしは賛成しかねます」

 控えめに異を唱えてきたものだから、「どうして?」ととぼけてやった。

「わたしはただ、昔のよしみで貢に仕事を用意してあげようと思ってるだけよ。気心も知れてるし。おまえも貢のことは褒めていたじゃない。なぜいけないのか理由をおっしゃい」

 主人然とした口調でそう言うと、田崎は黙った。分かっている。田崎はこう言いたかったのだろう。

 黒田の息子を黒田と同じ運転手として召し使うなど、何を考えているのですか……と。

 そのとおりだ。貢を自分の運転手にしてやろうだなんて、我ながらふざけていると思う。貢の方も、のこのことよくこの家に戻ってこれたものだ。おおかた「表」の職員にしてもらえると思っていたのだろう。

 お生憎さま。絶対そうはしてやらない。おまえはわたしの“足”なのだから。そう決めたのだから。

 貢に対する憤慨は、この二年という歳月で熟成していた。久しぶりに貢の顔を見た瞬間、胸がずきんと痛んだほどだ。

「戻ってきてくれてありがとう。嬉しいわ」

 制服を渡すと、にっこり笑ってそう言う。すぐに自動車学校へ貢を通わせる手はずを整えさせる。


 父にいわせると、車の運転には性格があらわれるという。

「穏やかな紳士なのに運転は荒っぽかったり。その反対に豪快な方が案外、慎重なハンドルさばきをしたりとね。おもしろいよ。普段は見えないその人の性格が見えてくる」と。

 なるほど、と思う。

 自分の送迎を任せている井上の運転は、とにかくまじめで教本どおりだ。停まるべきところで停まり、速度は常にやや低め。徹底した安全運転。冗談のひとつも言わない井上らしい運転だ。

 一方、父の専属運転手の運転は、これはもうスマートそのもの。適度に速さを上げたり下げたりして、遊びのある運転をする。これまでに自分が一番乗り心地よく感じたのは、黒田の運転だった。

 黒田の運転はやさしかった。すべるように車を走らせて、ちっともゆれない。まるで移動式ソファに腰かけているみたいな安定感があった。わが家の運転手たちをはじめ、これまでいろんな人が運転する車に乗ってきたけれど、間違いなく黒田が一番だ。

 では、息子である貢の運転はどうかというと、ひと言でいうならば――我が強い。

 技術が低いわけではない。危なっかしくもない。だけど運転の端々から苛立ちめいたものを感じる。速度の強弱やブレーキをかける際のタイヤの摩擦音。アクセルを踏み込むときの間合い。それらのひとつひとつに、ささくれだったものがある。それが小気味よい。

 年が明けて一月。井上に代わって貢が正式に暁子づきの運転手となる。いつものように学校へ到着すると、貢は素早く後部座席へまわり、ドアを開けてくれる。それも含めて運転手の仕事である。

「ありがとう。また夕方ね」

 悠然と声をかけると、貢は黙って一礼する。

「ごきげんよう、この方」

 校門をくぐると、学友から挨拶される。

「新しい運転手さんね。いつものあの『は! いってらっしゃいませ、お嬢さま』の運転手さんはどうなさって?」

 さっそく尋ねられ、「田舎に帰ったのよ」と答える。

「背が高くて、ちょっとすてきね。高田浩吉に似てない?」

「そうかしら」

 高田浩吉とは、“歌う映画スター”と呼ばれる二枚目俳優だ。

「遠目だからよく見えたのでしょう」

 この方は山科みち子嬢。暁子と同じく勲功華族のおうちの方だ。くりくりとした愛らしい目が栗鼠を思わせる。

「ねえねえ、もうお聞きになった? 倫子さんのこと」

 みち子は声をひそめ、耳もとでささやく。

「倫子さんがどうかして?」

「あのね……どうやら宮さまにお輿入れなさるそうなのよ」

 ――え!

 思わず声がでそうになった。

「お輿入れって、そんな……いくらなんでも早いでしょう」

「そんなことないわよ」

 みち子は目を輝かせる。

「だって今年でわたくしたちも十六歳よ。まして倫子さんは元大大名家のお姫さまですもの。縁談の一つや二つきていたって、おかしくないわ」

 それにしても宮さまとはさすがねえ、とみち子は首を振る。なんでもお相手は飛鳥宮あすかのみやさまのご次男で、海軍士官だそうだ。

「海軍さんは白い制服がすてきよね。うちは父も兄も陸軍だもの。茶色い軍服って、なんだかお煮しめの色みたいで」

「じゃあ倫子さん……学校の方はどうするのかしら」

「そりゃあ、お辞めになるんじゃない。なんてったって宮さまに嫁がれるんですもの」

 みち子はあっさり言ってのける。

 宮家、すなわち皇族に嫁ぐということは、ただ人ではなくなるということだ。宮家との婚姻が決まった方には専属の家庭教師がつけられ、厳しいお妃教育が課される。今上天皇の后をはじめ親王妃や宮家の妃の大半は、ここ女子学習院の出身だが、みなさま婚約が調ととのうや退学されたそうだ。

「そう……」

 黙り込む暁子とは対照的に、みち子はうっとりとした表情だ。

「うらやましいわあ。宮妃だなんて憧れちゃう。正真正銘のプリンセスね」

 わたしも早く結婚したいわ、と明るく言う。隣の組のみち子と教室の前でお別れして、自分の机に向かうと、

「この方、お顔の色がさえないわよ。朝からどうなさって」

 ついさっき噂していた当人が声をかけてくる。教室の女王こと、倫子さまだ。

「分かってよ、そのお気持ち。一時間目は英語ですものね。ああ、ホランド先生、どうかわたくしに当てないでくださいな」

 手を組んでお祈りのポーズをする倫子に、

「あ、あの、倫子さん」

「なあに」

「あす――」

 飛鳥宮さまにお輿入れするってほんとう? そう言いかけようとして、口をつぐむ。周りには他の生徒もいるのだし、不用意に訊いていいようなことではない。だがみち子が知っていたということは、すでにこの件はみなに知れわたっているのだろうか。自分は初耳なのに。

(もしかして、わたしだけ仲間外れにされているのかしら……?)

「あす、がどうかして?」

「あ……あす、あす……そう、明日、学校帰りにお宅へ遊びにいってもいいかしら!」

 頭を高速回転させて、なんとか言い繕うと、「ええ。べつにいいけれど」と倫子はうなずく。

「そうだ。なんなら明日と言わずに今日はいかが?」

「よろしいの?」

「ええ。ちょうどこの方に、お見せしたい人がいるのよ」

「お見せしたい、人?」

 暁子が目をぱちくりさせると、ふふ、と倫子は切れ長の目をさらに細めて微笑を浮かべる。どことなく得意げに。そこへ英語教師のミセス、ホランドが登場する。

「Good morning young ladies.」

「Good morning Madam.」

 そこここで、おしゃべりの花を咲かせている生徒たちは、いっせいに各自の席へ急ぐ。

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