一生の夢、昔の夢(7)
四
その年の十一月。さしたる感慨もなく二年ぶりに母国の土を踏む。
市電に乗ると座席が取っ払われていて、街のあちこちに「国民精神総動員」のポスターが貼られてある。少しずつ非常時の雰囲気が漂いつつあるが、それでも帝都は相変わらず華やかだ。洋装に身を包んだモガが我がもの顔に闊歩している。
白川伯爵邸に到着すると、まず「表」の事務所へいく。田崎は背が縮み、髪がいささか薄くなっていた。家扶の小川以下、職員たちには貢が知っている顔もあれば知らない顔も交じっている。全体的に人数はやや少なめになっている気がした。
「軍服姿が板についたな」
「今夜は呑もう」
などと口々に声をかけられる。それから田崎に伴われ、本館の方へ挨拶に向かう。絨毯が敷きつめられた「奥」の空間に入るのは、これが二度目だ。迷路のように入り組んだ廊下を右に左にと曲がり、田崎は大きな扉の前で立ちどまる。そう、この扉も憶えている。
田崎が静かにノックして、
「御前さま。連れてまいりました」
畏まった声で呼びかけると「お入り」と応じる声。
「さあ」
うながされ、田崎に続いて入室する。見憶えのあるマントルピースに猫脚のソファ。その真ん中に、ひげをたくわえた旦那さまが脚を組んで座っている。たいていの日本人なら見栄えのしない鼻ひげが、さまになっている。
しかし貢の視線は伯爵ではなく、ソファの横に立っている着物姿の娘に吸い寄せられて、離れない。向こうもこちらをじっと見ている。
流れるような黒髪に黒い瞳。白い頬。赤鉛筆で濃淡をつけたような唇には、あるかなきかの微笑が浮かんでいる。薄紫の地に白菊を散らした着物が大人びた印象を添えていた。その朱唇がゆっくり開かれて「貢」と呼びかける。
「ごきげんよう」
「お――」
そこから先がでてこなかった。思わず「奥さま」と続けそうになり、息とともにその言葉をごくりと呑み込む。落ち着け、落ち着け、と自らに言い聞かせ、
「お嬢さまにおかれましては……お変わりなく……なによりです」
かろうじてそう述べると、
「おまえもね。立派な兵隊さんにおなりになって」
鷹揚な口調で返される。お嬢さまこそ立派な令嬢ぶりだった。さなぎが蝶に、いや幼虫がセミに羽化したかのようだ。おそろしいほど奥さまにそっくりになっていた。
「戻ってきてくれてありがとう。嬉しいわ。うちの使用人たちも以前より減ってしまってね。ねえ、お父さま」
美しい娘はダンディな父親に笑いかける。小悪魔めいたその笑みには早くも艶な風情があった。それから貢に視線を戻し、
「おまえの制服も用意してあるのよ。クニ」
気づかなかったが部屋の隅には、クニが控えていた。風呂敷包みを両手にのせ、おずおずとやってくる。人の好さそうな丸顔がうす赤く染まり、目の下の涙袋がぷっくりふくらんでいる。クニはお嬢さまとは対照的に、ちっとも変わっていなかった。その変わらなさがなつかしい。
クニから包みを受けとると、なかを見るよう命じられる。
「寸法があうといいのだけど。もしあわなかったら教えてちょうだい。仕立て屋を呼ばせます」
期待に胸がふくらんだ。制服を準備してもらうなど、上級職員のような扱いではないか、と。もしやさっそく家従にでも採りたてられるのでは……という思いが湧いてくる。なるほど。それでお嬢さまは自分を呼び寄せたのだろうか。腹心の使用人として信頼して。
包みの結び目を解くと、折り畳まれた藍色の制服があらわれる。真横にいる田崎が身に着けているのは、黒のモーニングコートだ。色が異なる。そういえば、男性職員で制服着用を義務づけられている役職は三つあった。
一つは家従以上の管理職。一つは料理人。そして残る一つは運転手。
「井上が郷里へ帰ってしまうので、ちょうど新しい者を探していたところなの」
舌の上で飴玉でも転がすような口調で、お嬢さまは言い放つ。
「おまえには、わたくし付きの運転手になってもらいます」
風呂敷包みには制服の他、白い手袋と帽子も入っていた。白川家の家紋である花菱の印がついた、正運転手の制帽だった。
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