一生の夢、昔の夢(6)

 敬礼して見送ると、握りしめている便箋がくしゃくしゃになっていた。汗で文字がにじんでいる。ふう、とため息をつく。自分といくつも変わらないだろうに、将校という人種が放つ独特の威圧感にすっかり気圧された。

 腰かけに腰を下ろし、気分を落ち着けようと、もういっぺん手紙を読み返す。

 宝塚少女歌劇の話題の他に、運転手の井上が郷里へ帰るらしいとも書かれてあった。親が年をとったので面倒をみるのだとか。文末にはついでのように、こんなことも綴られている。

『暁子サマハ先月、奈良ヘ修学旅行ヘイカレマシタ。奈良公園ハ鹿ノフンダラケダッタセウデス』

“暁子サマ”の四文字に、胸がちくりと痛む。たしか学習院の後期生になられているはずだ。

 この二年というもの、あの方からの手紙は一通もきていない。こちらから葉書をだしても返事はなしの礫だった。少々落胆したけれど、それもまた、あの方らしいとも思った。おおかた手紙を書くのが面倒になったのだろう。便りがないのはよい便り、というではないか。

『マモナク除隊デスネ。オ帰リヲ心待チニシテオリマス。カシコ』

 手紙はそう締めくくられている。

 除隊したらどうしようか。白川家で再び職員として仕えるか。それともちがう仕事を探そうか。クニは「待っている」と書いてくれているが、はたして戻っても受け入れられるかどうかは分からない。特に女中頭の菊野などは、戻ってこない方がいいと思っていることだろう。

 かつては家令になるという夢があったが、それを自分に決意させてくれた奥さまはもういない。お嬢さまも、もう自分のことなど気にかけてはいないだろう。ならば、のこのこと戻る必要もないのではないか。

 このままお嬢さまの人生から消えて、自分もまた新しく生き直した方がいい。「伯爵夫人鉄道情死事件」のことは忘れて。思うにこの二年間は、そのための時間だったのかもしれない。思いきって下士官になってみようか。中尉殿のもとで鍛え直してもらい、軍人としての道を歩もうか。

 そんなことを午後の間ずっと考えた。晩になり、北村は酒と白粉の匂いをぷんぷんさせて帰営した。「楽しかったか」と問うと、

「ああ。存分にお別れしてきたさ」

 そう答える声はしんみりしている。土産のハッカ飴を買ってくるのは忘れたようだ。


 数日後。夕食後の休憩時間に北村と将棋を指していると、

「黒田、郵便がきとるぞ」

 内務班長から封筒を渡される。白川家の紋章である花菱印の封蝋がされてある。差出人は家令の田崎。厚ぼったい便箋に、達筆でこう記されている。

『現役兵としてのお役目、誠にご苦労で御座候。貴兄の除隊後について相談致したく候。是非当家にて再び精勤して貰いたい由。これは令嬢暁子様のたってのご要望につき……』

「どうした、深刻な顔して。親でも死んだか?」

 北村に話しかけられて我にかえる。

「いや、なんでもない」

「貴様の番だぞ」

 ひとまず手紙を脇に置き、将棋に集中しようとするものの、うまく指せない。勝っていたはずだったのに、ぺたんぺたんと返されて敗けてしまった。続きは他の者に代わってもらい、厠へ立つ。冷たい水で顔を洗い、鏡に映る自分を見ると、やや蒼ざめている。心臓がどくどく脈打つ。

 これはいったいどうしたことだ。

 クニからの私信とちがい、これは家紋つきの公用の手紙である。家令直々の筆で白川家へ戻ってくるよう書かれてある。それもあの方たってのご要望だと。

 この二年、こちらからの便りをまるで無視しておきながら、除隊間近になって犬でも呼ぶように呼び寄せようとは。さすがに業腹だ。あいにくもう下士官になろうと決めたのだ。

 すぐに断りの返事を書くことにする。

 部屋に戻って田崎への返信をしたためる。あくまでも礼儀正しく失礼のない文面で。

 その晩は寝つけなかった。普段なら布団のなかに潜り込むなり眠っているところなのに、やけに目がさえて何度も寝返りをうった。室内を巡回する「不寝番」の靴音が聞こえる。

 どこかでセミが鳴いていた。

 真夏の青い空の下、桜の大木のそばで少年時代の自分が、幼いあの方を肩車している。 舌足らずな声で命令される。「みつぐ、もっとみぎのほう。もっと」と。背中を汗がつたい落ちる。首の後ろにあの方のお腹が当たっている。やわらかくてあたたかい、子どもの体温。

 あの方が肩の上に立ち上がろうとして、慌てて両足を押さえようとすると、ぐらりと後ろにひっくり返る。間一髪、地面に衝突する寸前で抱きとめる。

そこで起床ラッパが鳴り響く。

 あまりにもリアルな夢に、目覚めてからもしばし茫然とする。点呼の最中に自分の名が呼ばれたのにも気づかず、上官にびんたを喰らう。

 その日は始終そんな調子だった。演習や座学にも集中できず、教官から叱られどおし、びんたされどおしだった。夕食後の休憩時間を待ちかねて、酒保の横にある郵便物受付場へ向かう。田崎宛ての手紙をだすと、

「東京市までですね。お預かりします」届くのは来週とのことだ。

 料金を支払い、その場をあとにする。すっきりした。手紙には、このまま職業軍人として軍に留まることにする、と書いた。お国のために尽くしたいと。断りの手紙としては百点満点の内容だ。これなら向こうも納得してくれよう。

 廊下をずんずん歩いて部屋へ戻る途中、不意に立ちどまる。

 どこからかセミの鳴き声が聞こえた気がした。そんなはずはない。今は十月で、しかも夜だ。だが、たしかに聞こえてくる。外ではなく自分のなかから。ミーンミーンと耳鳴りみたいにかしましい音が、頭のうちに響いてくる。田崎の文の一節が思い浮かぶ。

『是非当家にて再び精勤して貰いたい由。これは令嬢暁子様たってのご要望につき……』

 嘘だ、と心中で言う。

 たってのご要望のはずがない。どうせあの方の気まぐれだ。それに振りまわされたくない。俺は過去ではなく、前を向いて生きると決めたのだから――。

 そのまま廊下にしばし立ち尽くす。

「ああ、くそ」

 腹立たしげにつぶやくと、急ぎ足で引き返す。受付業務を終えようとしている郵便窓口に駆け込み、

「申し訳ない。先ほどの手紙だが回収させてもらいたい」

 田崎宛ての封筒を取り戻すと、ぎゅうとひねって屑籠に放り投げる。はあ、と観念したようなため息が口から洩れる。

 さて、これから返事を書き直さなければ。

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