一生の夢、昔の夢(5)

 

 入営すると朝鮮、京城いきの師団に配属された。向かった先は竜山だった。

 竜山基地の広さは約三百万坪。さながらひとつの街のように大きく、基地の外へ出なくともなんでもそろっている。

 軍隊は基本的に団体行動だ。大部屋で寝起きして、風呂も食事も団体行動。ひとりになれる時間がないのが精神的にややきつくはあるが、それ以外は驚くほど――ある意味のんびりとしたところである。

 なにしろ上官の命令に従ってさえいればよいのだ。黙っていても三度のメシがでてきて、煙草まで支給される。女がいないというのも慣れたら案外快適だ。それに、しようと思えば女遊びもできる環境にあった。

 基地の外には日本人が経営している旅館や料理屋があり、外出の許される日曜ともなると、意気軒昂に繰りだす兵士も多い。誘われて何度かつきあってもみた。

 銀座あたりにあるカフェとなんら変わらない設えの店で、朝鮮娘から熱烈な“サービス”を受けた。日本人と似て異なる風貌の女たちが、日本人らしく振る舞い、日本人客を喜ばせている。それはどことなく不自然で、同時に奇妙な魅力があった。誘ってきた同期兵の北村に言わせると、彼女らの拙い日本語がたまらんのだという。

 基地のなかにも酒保と呼ばれる売店があり、そこで酒を呑むこともできる。しかも外で呑むより安いのだ。

 朝鮮の気候は日本と比べると、夏は暑く冬は寒い。特に冬の冷気は骨まで響き、ペチカという暖房がなければ寒さで眠れないほどだ。だがその分、春になると日射しのあたたかさが沁みた。

 世間から隔絶された空間で、ひたすら兵士としての修練を積む日々は、肉体的にはきつくとも気持ちのうえでは楽だった。訓練に音を上げることも、上官のいびりに泣きべそをかくこともなく、そこそこ兵隊暮らしに順応していた。

 銃剣も接近戦の稽古でも優秀な成績を収めることができ、野外演習などで班長を任されるのもしばしばだ。そうして、あっという間に二年が経とうとしていた。


 秋晴れの日曜日の午後。兵庭にある花壇の腰かけに座って、数日前、内地から届いた手紙を貢は読んでいた。今日は除隊式前の最後の休日だ。

 北村から、間もなくここを去るのだから、お気に入りの妓生やら女給やらにお別れしにいこうと声をかけられたのだが、自分は留守番してると答えた。

「それじゃあ土産にハッカ飴でも買ってきてやろう」

 そう言って、やつはいそいそ出かけていった。他にも多くの兵が外出して、残っている者はほとんどいない。いつもはざわついている基地内が、しんと静まり返っている。花壇ではコスモスが花ざかりだ。鮮やかな桃色が兵営という殺風景な空間に、色どりを添えている。手紙はクニからだった。

『オ変ワリハゴザイマセンカ。オ風邪ハヒイテオリマセンカ。上等兵ニナラレルソウデ、オメデトウゴザイマス。コチラモ変ワリナク、ミナサマ息災デオリマス……』

 子どもの作文のような調子で近況が記されている。 

 クニからは、こうしてときおり手紙がきていた。自分よりひとつ年上だから、今年二十三になったはずだ。まだ嫁にはいかないのだろうか……などと余計なお世話ながら思ってしまう。手紙には他に、宝塚少女歌劇の誰それがすてきだなんて、呑気なことが綴られている。あの愛嬌のある丸顔がなつかしい。

 自分でも知らぬうちに微笑んでいたようで、

「内地からの恋文か」

 不意に話しかけられて顔を上げて、はっとする。即座に起立すると敬礼の姿勢をとる。

 上官が立っている。自分と同じカーキ色の軍服に軍帽。腰には将校以上の階位に許された軍刀を提げている。本部から視察にきている上杉真雪中尉だ。

「除隊前の最後の休みだというのに、貴様は外出せんのか? 他の連中は大方なじみになった朝鮮芸者にでも会いにいっているだろうに」

 深みのある低い声で語りかけられる。口もとには微笑を浮かべているが、軍帽の下の目は鋭い。背丈は六尺近くある自分とほぼ同じだ。坊主頭に近い短髪が、かえって顔立ちの端整さを引き立てている。年齢は二十代半ばから三十前後というところ。上杉中尉は先月より、ここ竜山基地に派遣されていた。

「休め」と声をかけ、貢が手にしている便箋へ中尉は視線をやる。女文字であるのに目ざとく気づき、

「恋人が内地で待っているのなら、そりゃあ女遊びをするわけにもいかんな」

 くだけた口調で言ってくる。

「いえ。恋人ではなく元いた職場の同僚です」

 緊張のあまり、ついバカ正直に答えてしまう。

「それにしてはずいぶん楽しそうに読んでいたではないか。すぐ近くまできていた俺に気づかぬほどな。まあ、その気持ちも分かるがな」

 中尉はすっと目を細め、鋭い眼光がやや、やわらぐ。

「貴様、つい先の秋季演習ではいい働きをしていたな」

「は、恐れ入ります」

 どの基地でも毎年秋になると、教練の総仕上げとして大演習が行われる。

 基地内にある全部隊を北軍と南軍に分けて闘わせるのだ。もちろん実弾や本物の刀剣は使わない模擬戦闘ではあるが、一年間の総ざらいとあって真剣勝負である。それに、敗けたら教官の鉄拳制裁が待っている。

 今年勝利したのは南軍だったが、そのなかの一部隊で貢は隊長を務めた。まさか中尉殿直々にお褒めの言葉をいただくとは。嬉しさよりも恐縮さがまさる。

「貴様、除隊したらどうするのだ? やはり国許へ帰るか」

「は、そのつもりであります」

「言葉に訛りがないが、東京の出か?」

「はい」

「そうか、俺もだ。仕事は何をしていた。勤め人か?」

 数秒間を置き、

「さるお宅に仕えておりました」

「ほう」

 中尉の低い声がやや上がる。

「そういえば、貴様は座学でも成績優秀だったな。さては、どこぞの殿さまのお邸で書生でもしていたか」

「――」

 視線を下げると、埃で汚れた編み上げ靴が目に入る。あとで磨いておかなくては。

 兵営生活の間、自分が白川伯爵家の使用人であったことは誰にも明かしていない。仲間との雑談で互いの仕事の話題になっても、のらりくらりとかわしていた。用心のために。

 二年前に起きた「伯爵夫人鉄道情死事件」は世間を大いににぎわせた。小説やラジオドラマ、それに映画にまでなったらしい。その家に仕えていたなどと口をすべらせて、いろいろ訊かれたくなかった。また万が一、自分が伯爵夫人の情死相手の息子であるとばれでもしたら……。

 そんなことを考えて黙っていると、上杉中尉は「詮索したな。すまなかった」と言う。花壇の花々に目を向けて、

「俺も年内には貴様ら同様、内地へ戻る予定なのだ。今後はますます抜き差しならん情勢になりそうだからな。忙しくなる」

 こちらに話しかけているとも、独白ともつかない口調だ。今は昭和十三年。前年の南京占領に続いて徐州も制圧し、中国戦線はいよいよ激化しつつあった。

「この半年ばかり各地の師団をまわってな、現役兵がどのような訓練を受けているのか見ていたのだ。見込みのありそうな者たちには声をかけてな」

「そうでありますか」

「貴様、軍に留まり下士官を目指してみんか」

 思いもよらない言葉を投げられる。下士官になるとは、すなわち職業軍人になることだ。

 中尉は腰をかがめてコスモスを一輪、手折る。香りを嗅ごうとしてか鼻先を近づける。軍服に身を包んだ美丈夫と可憐な花の組み合わせは、映画スタアのブロマイドのようだ。

 中尉はコスモスを指で弄びつつ、遠からず欧米との戦争がはじまるだろうと言う。

「南京占領くらいで浮かれている場合ではない。このままだとアメリカと一戦交える事態が数年内にやってこよう。まったく、こんな極小の島国があんなどでかい国とやりあえるはずなかろうに」

 上の連中はどうかしている、とぼやく。

「こんなことなら、まだ皇道派とばちばちやっている方がマシだったな」

 貢が怪訝な目を向けると、「なんでもない」と中尉は微苦笑する。苦み走った色気がある。

 もしアメリカと戦争になったら、男子は根こそぎ召集されるだろう。そしてヒラの兵士ほど激戦地帯へ送り込まれる。その点、職業軍人は有利だそうだ。戦局の情報も入りやすいし、比較的安全な戦地にも配属されやすい。

 まるで、すでにアメリカとの戦争は既定路線であるかのような口ぶりだ。

「いずれにせよ俺も貴様も、若い男という男はみな戦争へいかにゃあならん。生まれた時代が悪かったな」

 皮肉な笑みを浮かべたまま中尉はこちらを見やる。そして繰り返す。下士官となり、自分の連隊づきにならないか、と。

「俺は自分の部下は死なせんぞ」

 どう返答したらよいものか。戸惑う貢に中尉はふ、と笑いかける。

「返事は急がん。除隊式までに考えておけ。その手紙の送り主とも、ようよう相談することだな」

 コスモスの花を手にして、その場から去っていく。

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