一生の夢、昔の夢(4)

 そのあと、どうなったのかは自分の記憶よりむしろ、当時の新聞記事に詳しい。

 実際「伯爵夫人鉄道情死事件」について、自分はほとんど何も知らない。当事者の身内でありながら知らなかったこと、見えていなかったことが、たくさんあった。

 父は息子の自分に何も気づかせず、奥さまのように書き置きひとつ残すこともなく、ある意味でみごとなほどに欺いた。あの、まじめで律儀で、それゆえに周囲から軽侮すらされていた父の内側にどんな情熱がひそんでいたのだろう。

 奥さまにはそれが分かったのだろうか。あるいは奥さま自身のうちにも、そうした烈しさがあったのか。だから二人とも、あんな普通ではない真似をやってのけることができたのか。

 心中するにしろ、もっと穏やかな死に方はいくらでもある。薬でも首吊りでも入水でも。走ってくる列車に向かって身を投げるなんて、どれほど覚悟が要ったろう。そんな度胸があるのなら、いっそのこと駆け落ちすればよかったのに。

 父という男が分からなくなった。善人なのか悪人なのか。勇敢なのか臆病者なのか。奥さまの死出の旅まで供する忠義者なのか、旦那さまを裏切った恩知らずなのか。そしてなによりも――息子として父の死を悼みながらも、男としては奥さまを抱いた父を憎んだ。

 思うに、事件のあとも自分が白川家から追いだされないでいたのは、温情というよりも見張るためだったのではないか。父や奥さまに関する情報が、自分の口から週刊誌などに洩れないよう。

 邸内では誰からも距離を置かれるようになった。よそよそしい態度をとられ、たとえば雑談をしているところへ自分がいくと、急に静かになるという具合に。

 そんな居心地の悪い状況がしばらく続き、師走になったら軍から入営するよう指示がきた。その知らせをもらって、ほっとした。この邸から遠ざかる理由ができた。

 田崎をはじめとする職員たちも召集がかかったことを喜んでくれ、使用人食堂で壮行会まで開いてくれた。たぶん自分がほっとしたように、みんなもそうだったのだろう。

「日本男子として、お勤めをしっかり果たしてくるように」

 職員を代表して激励の言葉をかける田崎の顔には、あの事件以来初めて見る安堵の色が浮かんでいた。女中たちからは菓子などの餞別をもらい、クニは涙ぐんでいた。

 ただひとり、菊野だけが冷たい目を向けていた。食堂の隅の方で、料理にも酒類にも手をつけることなく、じっとこちらに目を当てていた。


 翌朝、お嬢さまの不意の来訪を受けたときは心臓が止まりそうになった。

あの事件が起きてから、あの方を徹底的に避けていた。いや、正確にいうなら、あの方と会うのをおそれていた。

 あんなに大好きだった母親をあんなかたちで喪って、さぞ父を、そして俺を恨んでいることだろう。償いのしようもない。もしかすると徴兵されて一番ほっとした理由は、お嬢さまと離れられることだったのかもしれない。

 だけどお嬢さまと面と向かって話しているうち、そんなことに拘っている自分が恥ずかしくなった。自分などよりこの方はずっと傷ついている。苦しんでいる。なのに、俺のことを案じてくれている。

 こぼれそうなほど大きく濃い黒目を潤ませるお嬢さまを見つめるうち、なつかしい気持ちが込み上げそうになってきた。ずっと昔にも、こんな気持ちになったような。さびしいようなせつないような、ふしぎな気持ちに。

 そして小さな指先で鼻すじをなぞられて、針で胸を突かれたような感じがした。

「手紙を書くわ。貢も書いてね」

 濡れた声で命じられ、承知しましたと首肯すると、お嬢さまはまつ毛に涙のしずくをのせたまま、微笑む。ハンカチを握ったまま手をコートのポケットに入れる。

 あ、と一瞬思ったが、気にしないことにする。昨夜の餞別でもらったものなのだが、お嬢さまに差し上げよう。どうせ自分が持っていても、きっとこれからぼろぼろに汚してしまうだろうから。

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